八月十八日 第一回(高校)野球大会が開催された日

 夏に入ると熱戦が繰り広げられる全国高校野球大会。その第一回大会が開かれたのは、大正四年(一九一五年)のことだという。

 八月十八日から二十三日までの六日間の日程で、豊中とよなかグランド(現、大阪府豊中市)にて、地方予選を勝ち抜いた十校による全国トーナメント戦が組まれた。


 当時の名称は「全国中等学校優勝野球大会」だった。これが、のちの全国高校野球選手権大会の前身である。


 全国と言っても、当時の予選地区には偏りがあったようだ。東北では秋田のみ、北陸では予選そのものがなく、北海道は対外試合が禁止だったらしい。

 ちなみに第一回大会参加校は、以下のとおりだ。

 秋田中(秋田)、早稲田実(東京)、山田中(三重)、京都二中(京都)、神戸二中(兵庫)、和歌山中(和歌山)、広島中(広島)、鳥取中(鳥取)、高松中(香川)、久留米商(福岡)の計十校だ。

 この大会では、京都二中が初代王者に輝いている。


「え、野球といえば甲子園じゃないの?」

 第一回から九回大会までは、豊中で試合が行われている。


 我らが甲子園に舞台が移ったのは、第十回大会からとなる。


 なんでも前回大会(第九回)で観客が入り切らず、試合が中断する事態になったそうだ。それを受けて阪神電鉄当時の専務が一肌脱いだということらしい。

 要するに、専用会場を造設したわけである。

 それが、観客収容人数五万人を誇る甲子園大運動場(現、甲子園球場=兵庫県西宮市)だ。


 大奮発したものの、流石に「満員にするには十年くらいかかるかも〜」と思っていたら、大会三日目で満員御礼を記録した。


 豊中よりも利便性が高かったこと、野球が国民的スポーツとして浸透していたこと、そして熱戦を繰り広げる若人の姿は素晴らしいという複合的な要因が考えられるが、細かいことはさておき、大盛況だったということだけ押さえておけばいいだろう。

 嬉しい悲鳴とは、こういうことを指すのかもしれない。


 余談だが、甲子園が高校球児たちの熱き青春の舞台となる期間、甲子園球場を本拠地とする阪神タイガースは伝統の「死のロード」という遠征期間を余儀なくされる。

 大体例年、最下位を行ったり来たりするのは、暑さの過酷なこの時期に日本全国大移動を経て、順位を順当に下げることが要因だと、居酒屋で虎党のおっちゃんたちはボヤいていた(笑)

 もっとも、昨今利便性を増した交通手段では、それも可愛い言い訳である。虎が躍進すると狂喜乱舞し、次の瞬間には天を仰いで祈る(順調すぎて不安になる)光景は、シーズン中なら割とよく見る光景だ。

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