第95話.にじむ言葉
「ルキウス様……」
恐る恐ると振り返って。
小さく、ルイゼは彼の名を呼ぶ。
しかしルキウスはルイゼを見ない。
憤怒を宿した視線が注がれているのはマシューと、その腕の居所だった。
「何をしていると聞いている」
「これは、ルキウス殿下……」
マシューがぎこちなく笑み、ルイゼを拘束していた手を放す。
彼は右手を胸に当て、おずおずと礼を取った。
「魔道具研究所の所長デイヴィッド・ウィルクが息子、マシュー・ウィルクと申します」
「いい。下がれ」
「……承知しました。ではルイゼさん、また」
素っ気ないを通り越し冷徹に声を掛けられ、マシューは引き下がる。
彼はにっこりとルイゼに微笑んでみせてから、停車場へと向かっていった。
しかしルイゼは別れの挨拶も返せずにいた。
そうして立ち尽くしていると、ルキウスが近づいてきて――ルイゼの手を引っ張り上げた。
「……っ」
いつも、彼の手は優しかった。
壊れやすい宝物を扱うかのようにルイゼに触れてくれた。
それなのに、今夜の手つきは乱暴で、ルイゼはひどく戸惑った。
「い、痛いです、ルキウス様」
しかしルイゼが掠れた声で訴えると、驚いたようにルキウスは力を抜く。
「ルキウス様……?」
「殿下!」
そこにホールのほうから飛び出してきたのはシャロンだった。
シャロンはルキウスの傍らに立つルイゼを一瞥しながらも、見なかった振りをしたかのように再びルキウスを見つめる。
(カリラン様の顔色が悪い……?)
なんとなくルイゼはそう感じたが。
それは頭上の【光の洋燈】の当たり方のせいだったのか。
「ルキウス殿下、今夜はわたしとダンスを踊ってくださるって……!」
ずきり、とまたルイゼの胸が痛むと同時――。
ルキウスがシャロンを冷たく見返し、温度のない声音で言い放つ。
「そのような約束はしていない。カリラン公爵が言い出しただけのことだろう」
「そんな……」
「俺は失礼する。……イザック」
「かしこまりました。ではカリラン公爵令嬢、会場に戻りましょうか」
ルイゼははっとした。いつの間にイザックが、ルキウスとシャロンの間に立っていた。
気の良い秘書官はルイゼを見て『こっちは心配ない』という風に首を振ると、シャロンをエスコートして戻っていく。
名残惜しげに何度かシャロンは振り返る。
だが、その視線はすぐにルキウスによって遮られた。
白いタキシード姿の彼が、囁くように言葉を落とす。
「……もう遅い時間だ。寮まで送ろう」
頷くことしかできないルイゼは、そのままルキウスに連れられて停車場へと共に向かう。
赤い蔦に縁取られた獅子の紋様――この国の紋章であり、そして王族を意味する家紋が描かれた大きな馬車に乗り込む。
間もなく動き出した馬車の前方と後方を挟んだ馬車には、王族の護衛だろう騎士たちが乗っているのだろう。
その中には、以前ルイゼを守ってくれたテルたちも居るのだろうか。
現実逃避じみたことを考えていると、隣からぽつりと声が聞こえた。
「……どうして、何も言ってくれなかったんだ」
先ほどまでと声色は違う。
横を見れば、ルキウスはどこか苦しげな、悔しそうな表情を浮かべていて――。
「俺は、君がこの夜会に来ると知らなかった」
迷惑を掛けたくなかった。
そう言おうとして、ルイゼは口を噤む。
(理由は……それだけじゃない)
「……いや、俺も君に夜会への参加を伝えていなかった。俺に責める権利はないか」
黙ったままのルイゼに、そう呟いてルキウスはこの会話を終わらせようとする。
まだ考えはまとまっていなかった。
普段だったらこのまま、しばらく沈黙していたかもしれない。
だけど。
(いつだって……ルキウス様が後ろを向いて、待っていてくれるわけじゃない)
ああ、と実感する。
隣に立ちたいと強く願いながらも、同時に。
(私は、甘えていたんだわ)
優しいこの人は、いつも――自分のことを辛抱強く待っていてくれるはずだと、心のどこかで思い込んでいた。
「……以前」
情けなく、消え入りそうな語尾だったが、ルキウスは聞き取ってくれたらしい。
白い
「以前カリラン様が、ご自身をルキウス様の婚約者だと名乗られたとき、なんだかそれが……私には、本当に自然に思えたんです」
「……?」
「ルキウス様とカリラン様は、お似合いだから」
貴族令嬢らしい、たおやかな少女。
周囲から大切に、愛情を注がれて育ってきたのだろうと、一目で分かった。
彼女に会って、ルイゼは思ってしまったのだ。
胸先に鋭いナイフを突きつけられたように、実感してしまったのだ。
(
――――暗黒魔法によって、ルイゼの一家は引き裂かれた。
優しかった父はルイゼにだけ冷たくなり、暴力を振るうこともままあった。
そして双子の妹であるリーナに命じられるままに、ルイゼは彼女の替え玉を演じた。
振り返れば、自分自身を殺し続けた日々だけがある。
振り返るのすら苦しい記憶ばかりに、いつも追い詰められる。
「私は、ルキウス様に、相応しくないって……」
涙が、とうとう頬を伝った。
見苦しいと分かっているのに、どうしても止められない。
ドレスの袖では染みになってしまうと、ハンカチを探そうとするのに、視界が霞んでうまく見つからない。
嗚咽が漏れそうになって、ルイゼは必死に片手で口元を塞いだ。
(なんで、私は……ちっとも強くなれないんだろう)
――ただ。
彼の隣に、胸を張って立てるようになりたくて。
だから、卑屈な自分を捨てたいと思っていた。
否、どこかでもう、捨てられたつもりでいたのだ。
特別補助観察員の資格を返上して。
自分の力で、魔道具研究所の職員になったのだって――その証明にするためだったのかもしれない。
広い馬車の中に、数秒の沈黙が訪れて。
やがて、ぽつりとルキウスが呟いた。
「……どうして君はそう、自己評価が低いんだろうな」
びくりとルイゼは肩を震わせる。
いつまでも弱気なままの自分に、きっとルキウスはうんざりしたのだろう。
そう思うと顔を上げるのが怖くて、俯いたまま震える唇を動かす。
「……ごめんなさ」
「違う。ルイゼが悪いんじゃない」
謝罪を柔らかく遮ったルキウスが、ルイゼに向かって伸びてくる。
ぽんぽん、と頭を撫でるその手に、ふいに懐かしさが込み上げた。
「……憶えているか? ルイゼ」
「え?」
「君がまだ六歳で、俺が十六歳だった頃……君が王宮で迷って、偶然再会しただろう」
静かに目を見開く。
今、ルイゼ自身もあの日のことを思い出していたからだ。
「あのときルイゼは、自分をダメな子だと言った」
「……ルキウス様は、逃げてもいいって仰ってくださいましたね」
(……忘れるわけがありません)
あの日があったからこそ、どんなに辛い日だって乗り越えてこられたのだ。
だけどルキウスは、口の端に微笑を浮かべることもなく。
「今、その言葉をもう一度、俺が言ったらどうする?」
「え……?」
――呑み込まれそうになるほど、真剣な表情で言い放った。
「責任なんて全部捨てて、忘れて、俺のところに来てくれと言ったらどうする?」
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