217.弔問と名誉


 ――ここのところ、天気が崩れやすい。


 春の嵐、とでも言うべきか。昨日は土砂降りの雷雨で、しばらく降り続いたかと思えば、夜明け前にぱたりと止んだ。からりと晴れ渡っていた――らしい。


 自分には空なんて視えないが。


 と思っていたら、先ほどからまた、しとしと降り始めている。


 気もそぞろなマリンフィア=レイジュは、糸紡ぎの手を止めて、窓の方を向いた。当然ながら、アイマスクをつけた彼女には何も視えていない。


 だけど、雨音に混ざって、聞き慣れた弟の足音が響いてくるんじゃないか、と耳を澄ませていた。切れかけたわずかな希望の糸を、手繰り寄せようとするかのような、健気な努力――



 レイジュ領。オーリル家は、墓場のように静まり返っている。



 アルバー戦死の報が届いたのは、つい先日のこと。家族全員、王都攻めの動向が気になって落ち着かずにいたら、あっという間の戦勝の報せとともに、届いた。


 アルバーの死亡告知書が。


 レイジュ領は、今、静かな衝撃に包まれている。攻撃開始からたった2日で、一国の王都を攻め落とした――それは史上類を見ない快挙だったが。


 魔族戦士団の損害もまた、史上最悪のものだった。


 快挙の代償というには、あまりにも多すぎる戦死者。いかに同盟軍の抵抗が激しかったにしても、同盟軍の戦力が充実していたにしても――レイジュ族の軍団だ! 他の氏族ならまだしも、みなが転置呪を使えるのに……こんな死者が……


 誰もが、茫然と、信じられずにいる。


 そしてそれは、オーリル家も例外ではなかった。


『いやーごめんごめん、手違いで俺も死んだと思われててさ!』


 などと、申し訳無さそうに言いながら、アルバーがひょっこり顔を出すのではないか、と。


 そんな希望が……まだ残されていた。死亡通知書は何かの間違いで、いつもみたいにアルバーが、『姉ちゃん、これお土産!』と底抜けに明るい調子で、声をかけてくれるのではないか、と――



 ガラガラガラ、とけたたましい車輪の音が近づいてきて、マリンフィアはビクッと肩を震わせた。



 馬車だ。このあたりの地区は道の状態が悪いので、こんなふうにガタガタと耳障りな音がするのだ。


 そしてそれは――我が家の前で止まった。


 ドンッ、ドンッと玄関の扉がノックされる。


「はい……」


 階下から、どこか怯えたような、母の応対する声が聞こえた。


「――こちらが、オーリル家で間違いありませんか」


 目が視えないマリンフィアは、そのぶん聴覚と角の魔力探知が鋭い。聞き慣れない声の主が、けっこうな魔力を持つ、魔族の戦士らしいことを感じ取る。


「そう、ですが……」


 母の声は、かつてなく震えていた。


「ご子息――アルバーオーリル=レイジュ殿の遺体、および遺品を、お届けに参った次第です」


 ――――。



 その……気の毒そうな声に、オーリル家の時が止まったように感じた。



「――――ッ!」


 だが、母の悲鳴じみた慟哭で我に返る。そんな。信じられない。確かめなければ。自分も行かなければ。そう思って慌てて立ち上がり、足がもつれてしまって、マリンフィアは床に倒れ込んだ。


「うぅ……」


 変な手のつき方をしてしまって、痛い。「ああ、そんな……!」「アルバー……」と両親の声が聞こえる。行かなければ!


 立ち上がって、壁に手を沿わせ、使い慣れているはずの階段をもどかしく一段ずつ下りていく――


 ああ……感じ取る……


 父と母の魔力が……淡い魔力の残滓を漂わせる、箱状のものに縋り付いて……


「お父さん……お母さん……」


 自分は、視えない。


 視えないのだ、『何』がそこにあるのか……!!


「マリン……!! アルバーが……!!」


 母が泣きじゃくりながら、手を引っ張ってきた。


 母に誘導されるがまま、『それ』に指を這わせる。まるで氷に触れたみたいで、思わずぎょっとした。何なのかがわからなかった。あまりにも、硬くて、冷たくて。



 でも――その、輪郭に覚えがあった。



 撫でて、確かめる。これは、頬だ。鼻だ。まぶただ。耳だ。



 ヒトの顔、だ。



「あ……ああ……!」



 そして――角。



「ああ……あああッ……!!!」



 あまりにも、あまりにも馴染みがある形。



「そんな……ッ! アルバーッッ!!」



 ぜんぶが知ってる形なのに――柔らかさも、温かみもなくて。



 まるで抜け殻みたいに、マリンフィアが知る弟の魔力も、感じ取れなかった。



 残酷なまでに、は、ただの『物体』だった。



 オーリル家の悲鳴を聞きつけ、近隣の住民たちも何事かと顔を出す。そして馴染みの好青年の『帰還』を悟り、みなが駆けつけてきた。


「アルバー……お前、ホントに……!」

「そんな! 嘘だ!! 兄貴ィィ!!」

「嫌だよ! 起きてくれよ! ……うぁっ、冷た……」


 周囲の声が、わんわんと鳴り響いて、どこか現実感がなかった。


 マリンフィアはへなへなと尻餅をついたまま、弟――だったもの――の顔に手を添え続けている。なぜだか、こうやって温め続けていれば、何事もなかったかのように起き上がるのではないか、という気がしていた。


 本当に、そんな気がしていたのだ。


 だって……弟が、あの元気で快活なアルバーが、死ぬわけないじゃない……



 ざわ、と。



 周囲の住民たちがどよめき、静かになった。



 ――来る。感じ取る。まるで巨人のような存在感が……強大な魔力の持ち主が。



 こちらにまっすぐ、向かってくる。



「殿下」


 先ほどの声の主、魔族の戦士と思しき者が、声をかける。


「……今、到着したのか」


 強大な魔力の主が、想像以上に年若い少年の声で答えた。この声には、聞き覚えがある。あるが……自分の知っている魔力の強さと、あまりに違う。


 レイジュ領を発ったときは、アルバーを見送ったときは――こんなに、強大な存在じゃなかったのに。


「はっ。昨日の大雨で足止めを食らいまして……」

「そうか」


 言葉少なに相槌を打った強大な魔力が、こちらに向き直る気配。


 皮肉なものだ、自分は何も視たことがないのに――それでも感じる。



 視線を。



 魔王子、ジルバギアス=レイジュの。



「ご子息については……誠に、残念だ」


 苦々しい口調で、ジルバギアスは言った。


「彼を、無事連れて戻れなかったことを、申し訳なく思う」


 そんな……


 そんなことを、言うくらいなら……


 最初から、戦争になんか……!!


 反射的に思ってしまった。志願したのは他でもないアルバーだって、そんなことはわかりきっているのに……


「……なんで! なんでだよ!!」


 と、横から幼い子どもの叫び声が聞こえた。


「なんでっ兄貴が! 死んじゃったんだよぉ! ビッグになるって、ビッグになっておれのことも、きたえてくれるって……言ってたのに……!」


 グスグスと、泣きじゃくりながら。


「……それに、なんでお前は! そんな平気な顔してんだよ!! うわぁぁぁ!」


 小さな小さな魔力の塊が、ジルバギアスに突っ込んでいく。周囲の住民が騒然として、戦士が「何をする小僧ッ!」と怒号を浴びせる。ドカッ、と肉を打つような鈍い音と、子どもの悲鳴。


「よせ! ……子どもがしたことだ。大事ない」


 ジルバギアスが、落ち着いた声で制した。


「……それに、気持ちはわかる。この子どもを、無謀にも俺へ挑みかからせるほど、慕われていたということだ……」


 打ち沈んだ口調。


「……で……殿下……」


 終始無言の父に寄り添われた母が、鼻をすすりながら、おずおずと声をかける。


「この子は……アルバーは……殿下の、お役に、立てましたか……?」



 ――ジルバギアスが、息を呑んだのを、マリンフィアは感じ取った。



「……ああ」


 絞り出すように答えたジルバギアスは、すぅっと深呼吸する。


「アルバーの戦いぶりは立派なものだった。俺の部隊は真っ先に砦を陥落させたが、その際もアルバーは森エルフ魔導師を仕留め――」


 ジルバギアスは語った。いかにアルバーオーリルが勇敢だったか。いかに獅子奮迅の活躍を見せたか。


「――そしてアルバーは……俺の危ういところを救ってくれた。剣聖の致命的な一撃を受けながらも、咄嗟の転置呪で全快し、聖属性を受けて治療が阻害されていた俺を援護してくれた。彼の助力がなければ、……今の俺はない……」


 話を聞いているうちに。


 氷漬けになっていたアルバーの頬が……少しだけとけたが。


 それでも、やっぱり、冷たいままだった。


「そうして、敵の精鋭部隊を壊滅させるに至ったが……アルバーはを受け、背後から心臓をひと突きにされた……」


 周囲のすすり泣きと悔しげなうめき声。「卑怯な……!」「許せん……!」とみなが怨嗟の言葉を漏らす。


「なんてこと……だから、こんなにも、この子は……きれいな、姿で……」


 母の言葉はぐちゃぐちゃで、ほとんどまともに聞き取れなかった。


 自分も……先ほどから、本来なら目のあるあたりが、熱く、じくじくと痛む。


 だけど、涙は出なかった。眼球も、眼窩も何もないから。涙を流す機能が、生まれつき備わっていないから……


「……森エルフ魔導師を複数、しかもうち1名は導師級。森エルフ弓兵、武装神官、剣聖など、アルバーは数多くの首級をあげ、さらには俺の窮地をも救った。この多大なる貢献と戦果を、魔王陛下もお認めくださり――」


 ごそっ、とジルバギアスが何かを取り出す音。


「――アルバーオーリル=レイジュは、魔王国侯爵位を授与された。こちらを」


 父が、受け取ったようだった。たぶん、侯爵位を表す勲章。ジャラッという音は、金貨が詰まった袋か。


「…………」


 受け取ってもなお、父は、終始無言だった。


「…………」


 ジルバギアスも、それ以上は何も言わない。



 ただただ、空気が痛々しい。



「ご子息の忠誠と勇戦に、上官として、魔王子として、最大級の賛辞を」



 ジルバギアスの鎧が擦れ合う音、彼が一礼したのがわかった。



「…………勇敢なる魂が、戦士の園で安らかならんことを。……これにて、御免」



 ザッザッと足音が、そしてジルバギアスの強大な魔力が遠ざかっていく。



 あとには、嘆き悲しむ縁者と、マリンフィアたちだけが残された。



「あ……」



 ただただ茫然と、アルバーの躯に手を添えていたマリンフィアは、ジルバギアスの存在が消えたことで、アルバーに残されたわずかな魔力の残滓に気づいた。



 手探りで、手を這わせていく。パキパキに凍りついたアルバーの服の、胸ポケットからだ……これは……



「…………」



 指が触れて、気づいた。



 母と自分が、一生懸命に加護の魔法を込めた、お守りのハンカチ。



 だがそれは、もはや血で凍りついて、それでもなお指先でわかるほどに、ズタボロで、ほとんど原型も留めてなくて……



 本当に、わずかに染み付いていた、自分たちの血統魔法の残滓で、かろうじてそれとわかる。



 ああ……



 だが、その残滓さえも。



 雨粒がぽたぽたとふりかかっただけで、消えてしまった。



 ざらぁ、と手の中で、ハンカチだったものが塵のように崩れ去り、消えていく。



「……いやよ」



 こんなの。



「……いやよ!! アルバーッ!!」



 認められない! 認められない!!



「アルバーッ! 起きてよ!! おうちに帰ってきたのよ!!」



 氷像のような弟に、マリンフィアは必死で縋り付いた。



「お願い! 目を覚まして!! アルバー! アルバァァァァァッッ!!」




 ――血を吐くような嘆願を背に。




 ジルバギアスは、唇を噛み締めながらレイジュ領都を歩く。




 まだ、オーリル家の弔問を済ませたばかり。




 残る部下たち7名の遺族も、それぞれ訪ねねばならなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る