195.懐かしい顔
――気がつけば、草木が生い茂る庭園に立っていた。
不思議に、どこか懐かしい。
暗いような、明るいような――
夕方だろうか、それとも早朝だろうか。
『ここは……?』
所在なさげに胸元に手をやって、その拍子に、服の手触りの良さに驚く。
ハッとして、体を見下ろせば可愛らしいドレスを身にまとっていた。
……昔、普段着にしていたもの。
『あっ!』
どうして忘れていたんだろう。この庭園、懐かしいはずだ!
実家だ。
ダ=ローザ男爵家の屋敷の中庭だ!!
たまらず、ドレスの裾を掴んで駆け出した。
生け垣の迷路。子どもの頃から何度も遊んで、目をつぶっていても抜け出せる。
だけど、身体の動きがまどろっこしい。1歩で1歩分の距離しか進めない、まるで昔みたいに――
それでも、どうにか迷路を抜け出せば。
『ああ……!』
焼け落ちたはずの屋敷が、そのままあって。
丸テーブルでお茶を嗜む、立派な口ひげを蓄えた紳士と。
中肉中背の、優しげな青年――
『お父様! お兄様!』
狂おしいほどの懐かしさに、涙が滲む。
『やあ、バルバラ。……久しぶりだね』
兄が立ち上がって微笑んだ。最後に見たときと、まったく変わらない笑みだった。
『――っ!』
もはや声にならない。自分でも何を言っているかわからない叫びを上げて、駆け寄って、そのまま兄に抱きついた。
昔みたいに、あやすように、ぽんぽんと優しく背中を叩いてくれて……
『ごめんなさい……!』
思わず、そんな言葉がこぼれた。
『お前が謝る必要はない。断じて』
ティーカップを置き、父が穏やかな声で言う。
『謝らなきゃいけないのは、僕たちの方だ』
兄は、心底申し訳無さそうな顔で。
『当主と跡継ぎがまとめて戦死。全てをきみに押し付けてしまった……』
『
沈痛の面持ちでうつむいた父は。
『すまない……辛かったろう……』
『本当に、ごめんね……』
頭を下げるふたりに、バルバラは涙を拭いながら、ふるふると頭を振った。
『いいんです……お父様も、お兄様も……』
死力を尽くした。……それでもなお、生還がかなわなかった。
『魔王軍が……強すぎたんです……!』
祖国に侵攻した魔王軍を迎撃して。
ふたりがどのような運命をたどったか。
語られるまでもなく、バルバラにはよくわかっていた。
……そう、
自分たちを残して先に逝くのが、どれほど無念だったか、辛かったか……!
『私は……悔しい……!!』
死んでも死にきれないとはこのことか。
自分の最期の戦いが、ありありと蘇る。
精鋭たちで、あれだけ死力を尽くしても、なお。
たったひとりの魔王子さえ討ち果たすことができなかった。
『このまま、ここで……この屋敷で……』
エヴァロティに残された親族や知人たちが、
悔しくて、申し訳なくて、せっかく拭ったのに涙がボロボロと溢れ続けた。
『そう……
そんなバルバラをいたわるように、優しく頭を撫でながら兄は言う。
『でもね、バルバラ。……きみはどうやら、違うらしい』
しかし不意に、兄の言葉に苦笑が混じる。
……なぜだろう? その声がどこか遠い。
顔を上げれば、兄が、父が、そして懐かしい屋敷と庭園が。
自分を置いて、急速に遠ざかっていく。
いや、違う……自分が、引っ張られているのだ!
どこかへ。遠い、世界の果てへ――
『バルバラ。今しばらくの別れだ。お前にはまだ――やるべきことがある』
席を立ち、こちらに敬礼する父。
『ごめんね。僕たちは力になれないけれど』
手を振る兄が、申し訳無さそうに、寂しそうに微笑んだ。
『――でも、きみのことをずっと見守ってる』
『お前は、私たちの誇りだ。バルバラ』
どうか――お前の行く先に幸あらんことを。
ふたりの言葉が、どんどん離れていって――
『お兄様! お父様――ッッ!!』
手を伸ばす。しかしその手は、いつの間にか、剣術かぶれの令嬢から、傷だらけの手甲を装着した剣聖の手に変わっていた。
世界が、裏返る。
バルバラは、自らの存在が、水面から
†††
暗い。
はっきりとわかる。
寒い。
ただの寒さとは違う。周囲が冷たいわけじゃない。
自分の存在があまりにもあやふやで、気を抜けば、ほのかな熱のように散り散りになって消えてしまう。
その危うさを、本能的にわかっていて、『寒さ』と認識している。
なぜかそれが理屈として理解できた。
理解できてしまった――
『ここは……?』
目を凝らして……いや、『目』なんて
だんだんと、自分以外の存在が、はっきりと見えてきた。
「…………」
固唾を呑んで見守る、白い肌の少女。金色の瞳がまるで太陽みたいだ。しかしよくよく見れば角が生えている。ただ、魔族たちの禍々しい曲がりくねった角と違って、直線的なもの。
「……わぅ」
その隣には……何? 息を呑むほど美しい……女性……? なのだろうか……? なぜか存在がはっきりと認識できなかった。……耳が尖っている? エルフ? でも肌が日焼けしていないし……
「ふむ……」
さらにそのかたわらには、おどろおどろしいほどの存在感を放つ、女と呼ぶには幼すぎ、幼女と呼ぶには艶のありすぎる、娘。腕組みして、静かな眼差しを向けてきている――こちらも角が生えているが、位置的に悪魔のそれだ。
怪しすぎる面子。
……自分がロクでもない場所にいるらしいことはわかった。
そして、何より、目の前には――
ひと目でそれとわかる、魔族が立っていた。
ゾッとするような、冷たく、整った顔立ち。銀色の髪から突き出る2本の禍々しい角、青い肌に真紅の瞳。人族の少年に相当する未発達の身体で、しかし圧迫感を覚えるほどに強烈な魔力……!
『貴様ァ……!!』
間違いない、こいつは!!
『ジルバギアス=レイジュ……ッッ!』
自分がバラバラになってしまいそうな、怒りと憎しみに襲われながらも。
心のどこかで、空恐ろしさも感じていた。
死んだはずの自分が、なぜ、こんなところにいるのか。
心当たりが、ひとつだけあった。闇の輩の、命を弄ぶ邪法……!
死霊術。
「バルバラ=ダ=ローザ……」
そして、魔王子の口からフルネームが呼ばれたことに、ますます恐怖する。
なぜ名前を知っている……!?
いったい、何をするつもりなのだ……!?
想定外の事態が連続し、もはやどうしていいかわからないバルバラに……
じりっ、と魔王子が迫る。
『なっ、何だ……何なんだ、お前はァァ!!』
悲鳴じみて絶叫するバルバラに、ジルバギアスは。
ダンッ! と。
伏せた。
いや、伏せたというより、両手を床について、ゴツンと額まで叩きつけて――
「誠に……申し訳ございませんでしたァァァ――ッッッ!!」
絶叫。
それは全身全霊を込めた――謝罪だった。
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