第5話〈病んでも止まれぬ〉
「今日は遅かったですね」
銀鏡小綿は言う。
その手に持つ包丁が、自身の心臓に突き刺さったかの様に威圧的だ。
「あ、あぁ……後輩と遊んでたから」
長峡仁衛は彼女の怒りの線に触れない様に慎重に言葉を選ぼうとした。
だがその話題自体が既に線に触れているとも知らず。
「門限は何時だと思いますか?」
白く、銀に輝く前髪が揺れる。
淡い緑色の瞳が、黒く濁っていた。
冷酷とも呼べるであろうその瞳に長峡仁衛は気づかず。
「門限とかあったのか、悪い、忘れてたよ」
記憶喪失であるから仕方が無いと、苦笑いを浮かべて言った。
しかし、そんな常套句の逃げ逃れな台詞は、彼女にには通用しない。
「忘れていた?」
「母とじんさん」
「お約束は」
「絶対に忘れてはならない事です」
「たかが」
「一時間や」
「二時間ていど」
「そう思う事でしょう」
「じんさんにとっては」
「些細な時間です」
「ですが」
「母は違うのです」
「母は」
「じんさんが全てです」
「じんさんの居ない世界など考えられません」
「たかが」
「一時間」
「十分」
「一分」
「十秒」
「一秒」
「ですら」
「じんさんが約束した時間内に来なければ」
「母は安堵も」
「呼吸一つ」
「満足に出来ない」
「それ程に」
「大事で」
「大切で……」
「あなたが居ない世界に居ると思うだけで……」
「………」
「あぁ」
「いっその事」
「この世界を壊してしまおうか……」
「などと」
「思ってしまうのです」
「ですので」
「じんさん」
「記憶喪失であるから」
「仕方が無い」
「とは思わないで下さい」
「貴方が消えれば」
「悲しむ人間は」
「泣いてしまう人間は」
「此処に居るのですから」
「……母に」
「この世界を」
「貴方諸共に愛させて下さい」
銀鏡小綿が近づく。
面と向かって長峡仁衛に言葉を綴る。
迫力のある彼女の言葉。
それを恐怖だと長峡仁衛は思わなかった。
ただ、その言葉は。
長峡仁衛にとって。
それ程に、彼女に愛されていると言う事だった。
「わ、分かった、分かったよ」
長峡仁衛は俯いた。
その視線に耐えられなかった。
彼女の目に浮かぶ怒りに顔を合わせる事が出来なかった、などではない。
「俺が悪かった、だから……」
銀鏡小綿は怒って無かった。それが目前に迫る事で理解した。
「そんな悲しい顔をしないでくれ」
だから、その目に宿る感情は、怒りでは無く、悲哀だったから。
悲しみを見せつけられて、長峡仁衛は目を逸らす事しか出来なかった。
「怒ってくれた方が、まだマシだったよ……」
銀鏡小綿は、長峡仁衛の言葉を聞いて、ゆっくりとその場から離れていく。
「……母の事を想って下さるのなら」
そして手に持つ包丁を置いて銀鏡小綿は長峡仁衛にさらなる願望を舌に乗せた。
だが、それは。
「なら……もう、他の人とは……いえ、これは、出過ぎた願いでしょう」
それは、長峡仁衛と言う存在を殺す行いだ。
銀鏡小綿は長峡仁衛と言う存在の魂を愛している。
長峡仁衛と言う魂の生き方を縛る様な真似は、出来る限りしたくはない。
逆を言えば、その頓着さえなければ。彼女は長峡仁衛を雁字搦めにしてしまうだろう。
銀鏡小綿は台所へと向かい、冷蔵庫に手を伸ばす。
「ごはんは食べますか?冷蔵庫に、じんさんの料理が残ってますので」
長峡仁衛は、なんとなく許しを得たのだと思った。
多少は苦々しい表情ではあるが、それでも、困り眉で笑みを浮かべて銀鏡小綿に聞く。
「あぁ……そういえばさ、小綿、包丁使ってたけど、何を作ってたんだ?」
「包丁……あぁ、これは」
銀鏡小綿は、其処らに置いた包丁を見て言う。
「ただの練習です。素材は、ありませんよ」
ただ、それは威圧の為にやった。のだろうか。
長峡仁衛は真意を知りたかった、だが、それを追求すれば戻っては来れないと思った。
だから、それ以上考えるのを止めた。
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