第8話

気配を感じる。

目を瞑る長峡仁衛はそう思った。

何か、眉間に違和感を感じる様な不快感。

ゆっくりと長峡仁衛は目を開く。

長峡仁衛の顔を見る、二つの翡翠。

じぃっと。熱くも無く寒くも無い、人の生気しか感じない様な視線が長峡仁衛の顔を直視していた。最初は、猫が見ているのかと思ったが違う。それは人であり、顔立ちの良い女性だった。


「……ん、あ」


「おはようございます、じんさん」


機械の様な口調に感情は無い。

挨拶の後に微笑む彼女の姿は紛れもなく人のものだった。

目を開き、長峡仁衛は顔を上げる。

其処に居たのは銀鏡小綿だった。


「え……あ、えぇと、銀鏡……さん?」


長峡仁衛は上半身を起こしながら彼女の名前を言う。

銀鏡小綿は立ち上がると同時に首を横に振って、彼の呼び方を否定する。


「いいえ、母です」


「あ、え?」


それが冗談なのかよく分からない。

けれど確か、永犬丸詩游が言うには彼女、銀鏡小綿は自分が母親であると本気で思っているらしい。

真面目な表情をする彼女は、口元を少しだけ緩めて笑う。


「冗談です。流石に呼び方までは強要してませんよ。けれど、記憶を失う前の貴方は、私の事を小綿と呼んでくださいました」


さりげなく銀鏡小綿は呼び方の訂正を求めるのだった。

それに応じた長峡仁衛は頷いて。


「え、じゃあ……小綿」


と、彼女の名前を呼び直す。

その言葉に、銀鏡小綿は目尻を寄せた。嬉しそうに笑みを浮かべてその呼び方に応じる。


「はい、どうかされましたか?」


「いや、……おはよう」


呼んだは良いものの、何を喋るべきか分からない。

起きたばかりの長峡仁衛には、なにを告げるべきか分からず、結果挨拶を交わすと言う選択をする。

銀鏡小綿は頷いてその挨拶を返した。


「はい、おはようございます」


銀鏡小綿を見て。

長峡仁衛はそう言えばと頭の中を巡らせた。

確か、眠る前は休憩室のベンチに居た。

そして数分ほど眠った筈なのだが……何故、この見知らぬ部屋に居るのだろうか。


「……俺、確かベンチで寝てた筈……」


そう呟くと、彼の疑問を回答する為に銀鏡小綿が答える。


「はい、寝てましたね。あの後、永犬丸さんが部屋まで送って下さいました」


永犬丸詩游が長峡仁衛が眠った後、仕方なくこの長峡仁衛の部屋にまで運んでくれたらしい。


「あ、そう、なんだ……」


彼によく世話をかけるな、と長峡仁衛は申し訳なさそうに思う。


「母が感謝の言葉を告げましたが、一応はじんさんの方でも言った方が良いかも知れませんね」


と。アドバイスをするように銀鏡小綿が言ってそれに長峡仁衛は頷く。


「そう、だな……えっと、学校に行けば良いんだっけ?」


この自室から学校までは何キロ程あるのだろうか。

そう思う長峡仁衛だったが、銀鏡小綿はその心配はないと長峡仁衛に告げた。


「この部屋は学園の施設、〈あさがお寮〉です」


「そう、なんだ」


ついでに、と銀鏡小綿は壁に向けて指を指した。

それは一体何の意味があるのだろうかと思う長峡仁衛。


「ちなみに永犬丸さんは隣の部屋です」


「そうなんだっ!?」


まさかの隣部屋。

長峡仁衛と永犬丸詩游は奇縁が続く。

そう長峡仁衛は深々と思った。


「じゃあ、朝の挨拶がてら……連れて来てくれてありがとうって言うか……」


ベッドから身を乗り出す長峡仁衛。

即座に銀鏡小綿が彼の体に手を添えて立ち上がるのに付き添いを行った。


「そうですね、その前に……身嗜みを整えなければなりません」


そう言いながら、長峡仁衛のシャツの上から、胸元から腹部に掛けて軽く撫ぜる。


「ん、そうだね……えっと、服、服……」


寝間着のシャツから外出用の衣服に変えようとしてタンスに目を向ける。

そしてそのタンスに向かうよりも早く、銀鏡小綿がタンスを開けて服を見繕って出してくれた。


「どうぞ、じんさんのシャツとズボンです。はい、バンザーイ」


そう言って長峡仁衛の両手を上げさせてシャツを脱がそうとする銀鏡小綿。

流石の長峡仁衛もそれはおかしいだろうと思ってその真似をする事は無く。


「バンザーイって……いや、一人で服は着れるから。昨日まで入院しててもさ、傷を負ってるの頭だし」


そう言って頭を指差した。

未だに彼の頭部には包帯が巻かれていて、片目も同じように包帯が巻かれている。

見た感じ頭部は重傷そうに見えるが、あまり痛くは無かった。

だから、着替えくらいならば自分で出来ると主張するが。


「いえ、怪我は関係ありません、母は母としてじんさんの服を着替えを手伝っていますので」


「えぇ…」


じゃあ。記憶を失う前の長峡仁衛はわざわざ銀鏡小綿の手を借りて衣服の着替えをしているのかと、自分自身に若干引きを感じていた。

が、銀鏡小綿は溜息を入れて頬に手を添えて悩ましいポーズをする。


「ですが、最近は着替え、歯磨き、お食事の御供、これらをご一緒させて貰えませんでした。これが親離れと言うものなのでしょうか」


少し寂しいです。と長峡仁衛に向けて言う。

いや、流石に高校生くらいになれば人の手を借りずとも着替えくらいは出来るから。

親離れと言うよりかは常識、と言うものだろう。


「ですが、今回は正当な理由です。じんさんは怪我人です、なのでこれからは母が世話をさせて頂きますので」


しかし、怪我をしたと言う事実を提げて、銀鏡小綿は長峡仁衛の世話をする権利を主張する。


「いや、大丈夫だよ。さっきも言ったけど、怪我してるの頭だけだし」


それでも長峡仁衛は一人で大丈夫だと告げる。

すると銀鏡小綿は残念そうな表情を浮かべて長峡仁衛を見つめる。


「そうですか……」


「うん、…………」


じぃ、と。長峡仁衛の顔を見る。

服を着替えようとする長峡仁衛は、彼女の視線を気にしながらシャツを脱ぐ。


「………」


そして銀鏡小綿はふと、ならば、と考えを口に出す。


「では両手足が怪我をしていたら……」


おぞましい言葉だった。

学生用のシャツを着込んだ長峡仁衛は彼女の言葉に冷や汗を浮かばせる。


「え?」


彼女にその言葉の意味を問う。

じぃ、と見つめる彼女は目を瞑り、首を横に振った。


「……折れば母だけがお世話出来ます。と、考えてました。ですが実行する気はありませんので、大丈夫です」


大丈夫、と言われても。

長峡仁衛は苦笑いを浮かべて言いかけた言葉を飲みこんだ。


「え、あぁ……そうか……」


代わりに彼女の言葉に頷いて、その話を流す。

そして服を着替え終わった長峡仁衛は其処で言いかけた言葉を脳裏に浮かばせた。


(いや、納得は違うだろ……)


どうすれば折ると言う選択肢が出るのか。

長峡仁衛はそれを言おうとしたが、やっぱりやめるのだった。

だって怖いから。



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