第2357話

「はぁ、はぁ、はぁ……さすがに疲れるわね」


 地中にあった精霊の卵を地上まで移動させただけで、アナスタシアの呼吸はかなり乱れていた。

 それだけ、精霊の卵を動かすのに精霊魔法を酷使したのだろう。

 勿論、それは魔力的な意味だけではなく、精神的な消耗も多分に含まれている。

 精霊の卵は濃密な精霊の力を放っているのだ。

 それを動かすとなると、それこそ下手な真似をすれば一体何が起きるのかも分からない。

 ……場合によっては、この集落の存在そのものが消滅してもおかしくはなかった。

 レイにしてみれば、それこそ爆発物を解体する警官や軍人の専門家といったようなイメージか。

 あくまでもそれはレイのイメージであって、実際にそれが合ってるのかどうかは、また別の話だったが。


「大丈夫か?」


 服が汚れるのも気にした様子がなく地面に座り込むアナスタシアに、レイはミスティリングから取り出した果実水を渡して尋ねる。

 余程喉が渇いていたのだろう。アナスタシアは受け取った果実水を貪るように飲み干すと、もう一杯欲しいと、無言でレイに向かって木のコップを差し出してくる。

 レイもまた、果実水を飲むことでアナスタシアが少しでも落ち着くのならと、再度ミスティリングから果実水を取り出す。

 冷えた果実水は、極度に集中していた為に身体が火照っているアナスタシアの身体に染みこむように消えていく。

 また、ただの冷えた水ではなく果汁が含まれているので、飲みやすいということもあってか、アナスタシアにとって果実水は非常に美味いものだった。

 それでも数杯も飲めば、それ以上は身体が受け付けなくなるが。


「……疲れたわね……」


 コップをレイに返すと、しみじみといった様子でアナスタシアが呟く。

 実際、その言葉は聞いていた者にとってアナスタシアが具体的にどれだけ疲れていたのかというのを示すには十分だった。

 精霊魔法……いや、魔法については殆ど何も知らない多くのケンタウロスであっても、地中から掘り出され、現在は地面の上に置かれている精霊の卵を見れば、そこから一体どれだけの力が発せられているのかというのは理解出来たのだから。

 ……ましてや、ケンタウロスの中でも魔法に特化した一族のドルフィナにしてみれば、精霊の卵が発する魔力に動けなくなってすらいた。

 魔法に強い関心を抱くドルフィナだけに、当然のように精霊魔法についても興味はある。……いや、この場合はあった、と表現すべきか。

 目の前に存在する精霊の卵を見れば、とてもではないが今の状況で自分がどうこう出来る存在ではないというのは、理解出来た。……出来てしまった。

 もしここにドラゴニアスが来れば、それこそ今のドルフィナは精霊の卵の影響でろくに身動きも出来ず、一方的に喰い殺されてしまうだろう。

 本来なら、ドルフィナの魔法ならドラゴニアスを複数纏めて相手に出来るにも関わらず。

 他のケンタウロスも何人もいるので、もしドラゴニアスが襲ってきても、本当にそのようなことになるとは限らなかったが。


「それで、これからどうすればいいんだ? 地中から採掘するだけでここまで疲労したとなると、これを動かすのもまた大変なんじゃないか?」


 何人かのケンタウロスがドルフィナを気遣っている光景を見ながら、レイはアナスタシアに尋ねる。

 今のアナスタシアの様子を見る限りでは、とてもではないがすぐに精霊の卵をどうこう出来るようには思えなかった。

 だからこそ、今の状況でどうするべきか? と、そう尋ねたのだ。


「そうね。ちょっと疲れてしまったから、出来ればもう少し休みたい所なんだけど……今の状況を考えれば、そんな余裕はないんでしょ?」


 少し落ち着いた様子のアナスタシアの言葉に、レイは頷く。

 実際、今までならドラゴニアスが林の木を折らないようにしていたので、林の中にあるこの集落は、強力な防壁に守られていると言ってもいいような場所だった。

 だが……それはあくまでもドラゴニアスが林の木を折らないということが前提の話で、今の状況を思えば、もう林を防壁として使うことは出来ない。


「取りあえず、それでも林の木がある程度残ってるから、多少なりとも余裕があるのは間違いないが……出来れば、早いところその精霊の卵をどうにかして欲しいし、ドラゴニアスの本拠地を殲滅して、この騒動に一段落つけたい」

「でしょうね」


 レイの言葉に、アナスタシアは頷く。

 同意しながら、その表情には残念そうな色もある。

 好奇心旺盛なアナスタシアにしてみれば、精霊の卵やドラゴニアスの本拠地と、どちらも非常に興味深い存在なのだろう。

 だが、双方共に迂闊に手出し出来るような存在ではない。

 精霊の卵は、それこそ迂闊に手を出せばこの周辺に漂っている濃い精霊の力によって、この集落が消滅してしまう可能性すらある。

 また、ドラゴニアスの本拠地をどうにかしたくても、精霊の卵によってかなり疲労してしまっているアナスタシアでは、一緒に行っても足手纏いになるだけだろう。


「とにかく、ドラゴニアスの本拠地をどうにかすれば、ひとまずこの騒動は終わる。……大体の場所は分かってるって言ってたよな?」

「ええ。でも、今はもっと正確な位置を割り出せそうよ。……この子のお陰でね」


 そう言い、アナスタシアは自分の近くに存在する精霊の卵を撫でる。

 そんな真似をしてもいいのか? とレイは思わないでもなかったが、見たところではアナスタシアが精霊の卵に触っても特に問題ないように思えた。

 それどころか、レイの気のせいでなければアナスタシアの疲れている様子が多少ではあるが回復しているようにすら思える。


「本当にか?」

「本当によ。考えてみてちょうだい。ドラゴニアスは、この精霊の卵を欲していた。それはつまり、精霊という存在に対して何らかの関係がある……と、そう考えられない?」

「そう言われてみれば、納得出来るような気もするが……ただ、精霊魔法について詳しくない俺が見ても、この精霊の卵は大きな力を持っているのが分かる。そうである以上、ドラゴニアスも精霊云々じゃなくて、純粋にこの精霊の卵の力に惹かれたんじゃないか?」


 ドラゴニアスという存在を知っているだけに、レイはそのように思ってしまう。

 飢えという本能によって暴走しているドラゴニアスのことを考えれば、精霊の力だからという訳ではなく、純粋に力だからと。


「正直なところ、その辺は分からないわね。けど……力だけを求めるというのなら、この精霊の卵以外にあってもおかしくはないんじゃない? 具体的にどんな力があるのかというのは、ちょっと分からないけど」

「……その辺も、今回の一件を解決すれば、ある程度判明するかもしれないな。ともあれ、悪いけどアナスタシアにはもう少し頑張って貰う必要がある。出来れば、今日のうちにドラゴニアスの本拠地のある場所を判明させて……そして、可能なら今日のうちに殲滅を終えたいしな」


 レイも、アナスタシアに無理をさせているということは理解している。

 だが、今日……それこそ、もし何も手を打たなければ、精霊の卵の力を感じたドラゴニアスが、今……とは言わないが、数時間後、場合によっては今夜にも大量のドラゴニアスがこの集落に精霊の卵を求めてやってきかねない。

 不幸中の幸いなのは、今のドラゴニアスは林の木々に配慮することがなくなったので、近付いてくればその存在を察知するのは難しくはないということか。

 ただし、今の状況であってもドラゴニアスが林の中に入ればセトがあっさりと察知出来るので、その辺はあまり意味がないのかもしれないが。


(あ、そう言えば……二頭の鹿と、それを守っていたケンタウロスはどうしたんだ? すっかり忘れてたけど。……後で様子を見に行ってみるか)


 頭の片隅でそんなことを考えたレイだったが、今はそれよりもやるべきことが多かった。


「アナスタシア、今すぐとは言わないけど、どれくらい休めばドラゴニアスの本拠地を探せる?」

「正直なところを言わせて貰えば、今日はもう休みたいんだけど……それが無理なのは分かってるから、そうね少し……一時間くらい休ませてちょうだい。そうすれば体力的にも、精神的にも、魔力的にも、三割くらいにまでは回復する筈よ」


 一時間で三割まで回復と聞けば、人によってはそれしか回復しないのかと思う者もいるだろうし、あるいはたった一時間でそこまで回復するのかと驚くような者もいるだろう。

 その点では、レイは後者だった。


「分かった。一時間だな。そのくらいなら、多分新しいドラゴニアスが襲ってくるような事はない筈だ。……取りあえず、俺は林の外に行って鹿とケンタウロスの様子を見てくる」

「っ!?」


 レイの言葉で、アナスタシアはようやく鹿のことを思い出したのか、目を大きく見開く。

 アナスタシアの隣で邪魔をしないように待機していたファナも、ここで鹿のことを思い出したのか、慌てたようにレイの方を見る。

 そんな二人を安心させるように、レイは頷く。


「取りあえず、鹿もケンタウロスも基本的にはドラゴニアスよりも走るのは速い。それを考えれば、ドラゴニアスが来ても逃げることは出来る筈だ。……あまり林からは離れないと思うけど」


 二頭の鹿は、レイから見て野生動物だというのが信じられないくらいに、アナスタシアとファナに懐いていた。

 だからこそ、ドラゴニアスから逃げる為に一時的に林から離れるようなことがあっても、すぐにまた林の近くに戻ってくるだろうという予想は出来た。……いや、これは最早予想ではなく確信と言ってもいいだろう。

 とはいえ、実際にその目で見た訳ではない以上、それを確認する為にもレイが林の外に行く必要がある。


「それに、ドラゴニアスが結構林の木を折ったから、鹿を連れてここまで来ることも可能かもしれないな」


 元々、鹿が中に入ってこられなかったのは、あくまでも木がドラゴニアスに対する防壁として役立つからであった。

 だが、木が防壁として役に立たないのなら、それこそ林から外に出る利便性を重視した方がいいというのがレイの判断だ。


「いいの? ……じゃあ、お願い」

「ああ。……セト、行くぞ。ヴィヘラは念の為に集落の護衛を頼む」


 そんなレイの言葉に、一人と一匹は揃って頷く。

 ヴィヘラは鹿を迎えにいくのだから戦闘になる可能性は少なく、それならもしかしたらどこか別の場所からドラゴニアスが襲ってくるかもしれない集落にいた方がいいと判断し、セトは単純にレイと一緒にいられればそれで嬉しいので問題ないのだろう。


「あ、でもセトを連れていく必要があるの? 鹿がセトを怖がっていたじゃない」


 アナスタシアの言葉に、レイは残念そうにするセトを撫でながら口を開く。


「セトが真っ直ぐに邪魔な木を折りながら進めば、鹿がこの集落まで移動出来る道になるだろ」

「……なるほど。そういうことね」


 レイの説明に納得した様子のアナスタシアは、後は任せると言うとその場で横になる。

 一応布を敷いてあるとはいえ、そのすぐ下は地面……それも掘り返している地面だ。

 当然のように寝心地はよくないのだが、それでもアナスタシアにしてみれば、精霊の卵に何か異変があった時、すぐに対処出来るように準備しておく必要があった。

 そんなアナスタシアの側では、ファナが待機する。

 レイに向かって頭を下げてきたのは、鹿のことをよろしく頼むと挨拶をしたかったのだろう。

 ファナにしてみれば、アナスタシアの側にいるのが重要だったが、同時に鹿達のことも気になっていたのだ。

 そういう意味では、レイのおかげで助かったと思え、その感謝の意味を込めてファナは頭を下げたのだ。

 そんなファナに軽く手を振ると、レイはセトと共に集落を出る。

 メリ、バキ、ボキ……セトが林の中を歩くと、そんな音が聞こえてくる。

 その音の全ては、セトが歩いた影響で木々から伸びた枝が折れている音だ。


「グルゥ、グルルゥ、グルルルルゥ」


 木々を折りながらではあるが、セトはレイと一緒に林の中を歩けることが嬉しいのか、機嫌よく喉を鳴らしながら林を進む。


「うーん、これは……改めて凄いな」


 セトが通る場所を邪魔しようとする木の枝はあっさりと折られる。

 折られない枝もあったが、それは細い……歩くのにそこまで邪魔にならないような枝だ。

 鹿が通る上でも、その程度の枝であれば問題にならないだろうというのは、レイにも理解出来た。

 そうして林の中を進み続け……途中でドラゴニアスの死体を見つけつつも、それを回避して進み、やがてレイとセトは林の外に出るのだった。

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