第2158話
幸いなことに、もしくはレイの言葉通りにか、マリーナの家の敷地内にアナスタシアとファナが入っても、精霊が特に何かをする様子はなかった。
大丈夫だと言っていたレイだったが、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、見るからに怪しい仮面を被ったファナに対しては、精霊が敵だと判断して攻撃をする可能性がなかったとは言えないと、今更ながらに安堵していた。
精霊が上手い具合にファナを友好的な存在……とまではいかなくても、敵ではないと判断してくれたのは、助かった。
もっとも、レイと一緒にいた時点で敵だと判断はしないのではないかという予想はしていたのだが。
ともあれ、アナスタシアとファナの二人を引き連れ、レイはセトと共にマリーナの家の中庭に向かう。
セトがいるという理由もあって、基本的にマリーナの家ではその中庭こそが居間と同じような感じで使われているのだ。
とはいえ、アナスタシアはそんなレイの行動に疑問を懐き……だが、次の瞬間には驚きに目を見開く。
何故なら、その中庭はアナスタシアから見ても驚く程の精霊が集められていたのだから。
「こ、これは……精霊魔法をこんなに長時間維持し続けるなんて……」
「取りあえず、すごしやすい場所なのは間違いない。……ほら、入るぞ」
そう言い、レイはアナスタシアを引っ張りながら、そしてセトはファナを押しながら、中庭に入っていく。
中庭の中に入ると、途端に涼しくなる。
春ではあっても、日中の天気がよければ、夕方にはまだ暑さが残る。
だが、中庭に入った途端、その暑さは消えたのだ。
涼しく、すごしやすい環境に保たれているマリーナの家の中庭に、アナスタシアが出来るのはただ驚くだけ。
自分も精霊魔法の扱いにはそれなりに自信があったし、同時にレイからマリーナがどれだけの精霊魔法の使い手なのかは聞かされており、何よりこの家を見た瞬間にマリーナの実力を思い知らされていた。
だが、それでもこの中庭に入るまでは、しっかりとマリーナの実力を理解出来ていなかったのだと、そう理解してしまった。
アナスタシアの実力では、とてもではないがこのような中庭を作るような真似は出来ない。
精霊魔法でこのような状況を作るとすれば、一体どれくらいの実力があればいいのか。
そんな疑問を懐きつつ、アナスタシアは中庭を見る。
……と、中庭の中にはテーブルが存在しており、そこには美女と呼ぶべき……いや、美女としか表現出来ない、圧倒的な美を持つ人物がそこにいた。
その美女は、テーブルに置かれている書類を読んでいたのだが……人の気配を感じたのだろう。
ふと、顔を上げ……レイとセトの姿を見て、少し驚きながらも嬉しそうな笑みを浮かべて、続いてアナスタシアとファナに視線を向けると、訝しげな表情を浮かべる。
アナスタシアはともかく、ファナのように仮面を被っている女を見てもその程度の反応ですんだのは、レイという存在で色々と……そう、本当に色々と慣れていたからだろう。
「あれ? エレーナだけか? アーラはどうした?」
「ああ、アーラなら紅茶を淹れに……どうやら戻ってきたみたいだな」
マリーナの家から紅茶のポットを持ったアーラが姿を現したのを見て、エレーナがそちらを向く。
レイもそんなアーラの姿に気が付き、同時にアーラも中庭にエレーナ以外の面々がいることに気が付く。
とはいえ、レイとセトの姿を見たので、特に騒ぐようなことはなかったが。
……ただし、アナスタシアはともかく、仮面を被っているファナに対しては胡乱げな視線を向けていたが。
「レイ殿、そちらは?」
「あの地下空間を調べて貰う学者とその助手だ。アナスタシアとファナ。アナスタシアはエルフで精霊魔法も得意としてるから、マリーナとちょっと会わせようと思ってな」
「……なるほど」
レイの言葉にアーラも完全に納得した訳ではなさそうだったが、それでも取りあえずあからさまに怪しむのは止めて、エレーナ以外の者達の分も紅茶を用意する為に家の中に戻っていく。
(これだけでも、随分と成長したよな)
アーラの後ろ姿を見て、レイはしみじみと思う。
最初にアーラに……そしてエレーナに会った時は、レイとエレーナがお互いがお互いに目を奪われているのを見て何かレイにされたと誤解したアーラは、いきなりレイに襲い掛かったのだ。
その時に比べれば、随分と穏便な対応なのは間違いないだろう。
とはいえ、アーラも最初に会った時とは違って、現在はエレーナの護衛騎士団の団長なのだから、迂闊な行動をしないのは当然だろう。
……もっとも、騎士団の団長が肝心の騎士団を副長に任せて、自分はこうしてギルムでエレーナと一緒にいるのは、正直なところどうなのかと、そう思わないでもなかったが。
「ほら、アーラが紅茶をご馳走してくれるみたいだし、マリーナが帰ってくるまでずっとこうしている訳にもいかないだろ。なら、座ってゆっくりとした方がいいんじゃないか? ……ファナも限界そうだし」
レイの言葉にアナスタシアがファナに視線を向ける。
するとそこでは、見知らぬ相手……それも圧倒的なまでの美人だったり、それ以外にも自分に一瞬であっても鋭い視線を向けてきたアーラの姿に、知らず震えているファナの姿があった。
顔こそ仮面で見ることは出来ないが、もし仮面がなかったら蒼白になっている姿を見ることが出来ただろうと、会ったばかりのレイであっても予想出来る。
「そうね。このままだとファナが倒れかねないし、お邪魔させて貰おうかしら」
アナスタシアは小さく首を横に振って自分は行きたくないと態度で示すファナを半ば強引に引っ張ってテーブルの方に進む。
エルフというのは基本的に膂力が弱いというのが一般的なのだが、ファナを引っ張って行くアナスタシアの腕力は、レイから見てエルフの域を超えているように思える。
そうしてファナを無理矢理椅子に座らせたアナスタシアは、ファナを逃さないようにと自分もファナの隣に座る。
レイは取りあえず自分の場所ということで、エレーナの隣に座った。
全員が椅子に座ったのを確認すると、エレーナが笑みを浮かべてアナスタシアに声を掛ける。
「ようこそ、と言うべきかな?」
「そうね。歓迎してくれるのなら、嬉しいわ。けど、まさか姫将軍がギルムにいるとは思わなかったわね。ダスカーも何も言ってなかったし」
「ふむ、そう言えば王都にはアナスタシアという名前の、優秀な研究者がいたと思うが、そのような者がギルムにいるというのも、驚きだよ」
「あら、初対面よね?」
「アナスタシアという名前は有名だからな。何度かその活躍を聞いたこともある」
エレーナとアナスタシアの会話を聞いていたレイは、それでアナスタシアが有名な人物なのだと理解する。
今までのレイの感想としては、アナスタシアはあくまでもダスカーが世話になった相手ということだった。
もっとも、有名ではあっても誰にも顔が知られているような有名人ではなく、恐らく知る人ぞ知るといったところのなのだろうというのも、予想出来る。
「私の名前を知って貰えて、光栄ね」
「うむ、特に以前学会で発表したゴブリンの上位種や希少種に関する論文は見事だった」
「……また、随分と人気のない論文を読んだのね。普通なら、もっと別の論文に目を通したりすると思うんだけど」
「へぇ、ゴブリンの論文か。それはちょっと興味あるな」
二人の会話に、レイが割って入る。
それはお世辞でも何でもなく、間違いのない事実だ。
何故なら、ゴブリンというのは一番身近な脅威と言ってもいい。
どこにでも現れ、いつの間にか増え、女子供を奪っていく。
一定以上の技量の持ち主なら何の問題もないだろう。
だがそれだけに、その一定以上の技量がない者にしてみれば数が多いだけに最悪の存在なのだ。
そんなゴブリンの上位種や希少種についての論文となれば、少なくてもレイにとっては興味深い。
「ダスカーが取り寄せて図書館に入れていた筈だから、気になるなら後で見なさい」
ぶっきらぼうに……だが、自分の論文に興味があると言われたのが嬉しかったのか、少しだけ頬を緩ませながらアナスタシアがそう告げる。
そこからお互いに会話が進むが……内向的な性格のファナは、落ち着かなさそうに周囲を見回す。
ファナにしてみれば、顔見知りで自分と同じ研究者のアナスタシアはともかく、エレーナという有名人……それも周辺諸国にまで名前が知られているような人物と一緒のテーブルに着いているというのは、驚きであり、ある意味で恐怖でしかない。
そうして戸惑っている様子のファナだったが、戻ってきたアーラがテーブルの上に紅茶を置くと少しだけ愕いた様子でそちらに顔を向ける。
……もし視線だけを向けたのなら、仮面を被っているので分からなかっただろうが。
「どうぞ。その仮面を被って飲めるかどうかは分かりませんが」
ファナにそう告げると、アーラはレイとアナスタシアの前にも紅茶を置き、冷めていたエレーナの紅茶も交換する。
最後に空いている席……自分の席に紅茶を用意すると、そこに座る。
「それで、あのウィスプについては何か分かったのか?」
「いえ、まだ殆ど何も分かってないわね。ただ、ファナを助手として連れていくから、ある程度は進展する筈よ」
そう言いながら、ファナに視線を向けるアナスタシア。
エレーナもその視線を追ってファナを見るが、ファナは紅茶の入ったカップを掴んだまま動く様子はない。
「その、大丈夫なのか、彼女は? そもそも、何故そのような仮面を?」
「ええ。研究者としての能力は高いんだけど、もの凄く人見知りで内気な性格をしてるのよ。この仮面を使って、ようやく人と話せるようになるくらいにね。……研究者としての能力は高いんだけど」
大事なことなので二度言いましたといった様子のアナスタシアに、それを聞いたエレーナは何と言えばいいのか迷い……やがて、少しだけ控えめに口を開く。
「そんなに内気な性格で研究者としてやっていけるのか?」
「難しいでしょうね。だからこそ、能力があってもギルムで目立つことはなかったんだし。けど、私の助手としてなら問題はないわ」
アナスタシアの言葉に、ファナは照れたように身体を動かす。
……もっとも、それが本当に照れからきているものなのかどうかは、レイにも分からなかったが。
「なるほど。……正直なところを聞かせて欲しい。あのウィスプは一体何だと思う?」
「何だと言われても、少し困るわね。それこそ希少種だからとしか言えないわ」
「だとすれば、それはウィスプの希少種だから、異世界から転移させるような能力を持っているのか? それとも、希少種であればどのようなモンスターでもあのウィスプと同じような能力を持つ可能性が?」
「そこは分からないわね。それこそ、もっとしっかりとウィスプを調べてみない限りは。ただ、そうなるとウィスプに無理をさせる訳にはいかないというのが痛いのよね」
「……まぁ、あのウィスプに何かあったら、間違いなく大きな問題になるだろうしな」
アナスタシアの言葉に、レイが即座に同意する。
今のところ、異世界から何かを転移させる能力を持っているのは、あのウィスプだけだ。
下手にあのウィスプに危害を加えたり……場合によっては殺してしまったりした場合、ダスカーにとってそれは許容出来ないことだろう。
もっとも、アナスタシアには恩のあるダスカーであり、そんなアナスタシアに無理を言ってウィスプの研究をして貰っている以上、アナスタシアが故意にウィスプを殺すような真似をしなければ、手荒な対応はしないとレイには思えたが。
「そうなのよね。だから、何とかしてウィスプに危害を加えないように調べなければならないのだけど……そうなると、当然のように研究の進みは遅くなる。だから、これはあくまでも私の個人的な予想だけど、それでも聞きたい?」
「うむ」
アナスタシアの言葉にエレーナは即座に頷き、それ以外の面々もそれに同意するようにアナスタシアが口を開くのを待つ。
ファナですら、アナスタシアが何を言うのかと楽しみにしているように思えた。
「ウィスプだから、あのような希少種になったとは思えないわ。恐らく、他のモンスターであっても驚く程の低確率……それこそ、奇跡のような可能性であのような希少種になったんだと思うわ」
「……奇跡のような、ね。まぁ、そのくらいの確率じゃなきゃ、今までにも同じような能力を持った希少種が生まれてもおかしくはないか」
アナスタシアの言葉にレイがそう呟き、他の者達もそれに同意するように頷くのだった。
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