第2107話
「これが、異世界の湖……ですか」
「凄いですね、先生。まさか、理論上でしか存在しないと思われていた異世界が、本当にあるなんて」
湖を見ながら、二十代後半の男と十代半ばの女が会話を交わしている。
少し離れた場所では、また別の学者達がそれぞれ自分の興味が赴くままに湖を調べていた。
中には未だに燃え続けているスライムを観察している者もいる。
本来なら誰とも知らない相手が来れば、それを止める役目を負っている騎士も、相手がダスカーからの要望を受けて派遣された学者ともなれば、それを止めるようなことは出来ない。
「とはいえ……本当に大丈夫なのか? 湖にはあのアメンボとかまだいるかもしれないし、それ以外にも別のモンスターがいる可能性はあるんだぞ」
レイが見た、水を弾く毛を持った動物の正体も、まだ分かっていない。
そうである以上、好き勝手に動き回るようなことをすれば危険なのは間違いなかった。
……もっとも、そんな学者達の護衛もレイ達の仕事として追加されたのだが。
「おーい、そこの冒険者。この湖で獲れた魚を食べたという話を聞いたのじゃが、身体に異常はないかね? 味は? 身の食感はどのような具合だった?」
湖で獲った魚を食べた冒険者に色々と聞いている学者の姿もあったが、それを見たレイは取りあえず自分は魚を食べなくてよかったと、しみじみと思う。
魚を食べた者達は、全員が普通に美味いと感想を言っていたし、食べてから少し経っても特に具合が悪そうな者もいないので、その辺りの心配はいらないのだろうが。
「ああやって湖の中に入らない学者は、お守りをするのにも楽なんだけどな。……あっちは大変そうだな」
湖の中に入って周囲の様子を調べている学者の近くには、何かあった時すぐに対処出来るようにと冒険者が待機している。
冒険者だけではなく、ゾゾやガガからの指示でリザードマンの中でも手の空いている者の中にも、そんな学者達の護衛に回っている者はいた。
……ただ、学者によっては湖よりも友好的なリザードマンの方に興味津々だった者もいたが。
「おおっ! これを見てくれ! この貝は見たことがない新種だぞ!」
学者の一人が両手でその貝を持ちながら、叫ぶ。
そう、両手でとあるように、その貝はかなり巨大だった。
それこそ両手でようやく持てるような、そんな大きさの貝。
形としては、タニシに似ている巻き貝だ。その大きさだけは、色々と規格外だったが。
レイにとっても、タニシという貝は馴染み深い。
日本にいる時、家の近くを流れている川に生息していたのを何度も見たことがある。
とはいえ、あれだけ大きなタニシというのは見たことはなかったが。
レイの知っているタニシといえば、それこそ指先サイズ程の大きさのものなのだから。
「ちょっ、おっさん。そんな巨大な貝は危険が……」
学者の側で護衛をしていた冒険者が、巨大な貝を持った学者に向かってそう告げ……次の瞬間、冒険者は手に持っていた槍の石突きで巨大な貝を吹き飛ばす。
「何をっ!?」
いきなり持っていた貝を吹き飛ばされた学者が、それを行った冒険者を睨み付ける。
だが、睨み付けられた冒険者は、手にした槍で吹き飛ばした貝を示す。
「見てみなよ。俺がもうちょっと叩き落とすのが遅ければ、おっさんの手がどうなってたか……分かるだろ?」
そう言われ、学者が吹き飛ばされた貝に視線を向けると……貝から鋭い針が突き出されていた。
針の長さそのものは十cm程だろう。
もし学者が先程のように貝をずっと持ったままであれば、掌を貝から伸びた針が貫通していたのは間違いない。
「これは……」
いきなり針を伸ばした貝をじっと見つめる学者。
「分かっただろ? その辺にあるのを迂闊に手に取るような真似は……」
「素晴らしい。この貝はこうして獲物を獲るのか? だとすれば、この貝は肉食と考えた方がいいな」
えー……と。
自分が怪我をする寸前だったにも関わらず、学者はそれを全く気にした様子もなく針を伸ばした貝を興味深げに見ている。
学者にしてみれば、未知の存在というのはそれだけ興味深いものなのだろう。
それこそ、自分の知的好奇心を満たす為であれば、自分の血肉を与えるくらいは何とも思っていないかのような、そんな様子。
それを見ていたレイだけではなく、他の者達もまたそんな学者の様子に微妙に引いていた。
「この魚は……生のはもういないのか?」
と、巨大な貝を持った学者の様子は全く気にした様子がなく、学者の一人が焼き魚を食べた冒険者に尋ねる。
魚がどのような味だったのかといったことを根掘り葉掘り聞かれていた冒険者は、その言葉に若干うんざりとしながらも、口を開く。
「その魚は結構簡単に獲れるから、獲ろうと思えばすぐにでも獲れるぞ」
そう言いながらも、冒険者の顔には若干嫌そうな表情が浮かぶ。
先程までであれば、それこそ特に何も気にせずに湖の中に入って魚を捕っていただろう。
だが、先程の学者が持っていた巨大な貝を見れば、同じ貝が湖の中で生息しているのは確実である以上、出来れば湖に入りたくないというのが、正直なところだ。
しかし、学者はそんな冒険者の様子など関係ないと言わんばかりに、口を開く。
「では、魚を獲ってきてくれ。出来れば生かしたままでな。この世界の魚と比べてみたい」
この世界? と冒険者は首を傾げる。
学者達には、もしかしたら……本当にもしかしたらだが、この世界と違う世界からこの湖が転移をしてきた可能性をダスカーから知らされており、だからこそ今回の調査には強い興味を持っていた。
だが冒険者にはそのことを知らされていないので、その言葉の意味が理解出来なかったのだろう。
とはいえ、今の冒険者にとっては世界がどうこうというよりも、湖の中に入って魚を獲らなければならないことが問題だった。
(釣り竿とかがあればいいんだけどな)
港街や近くに大きな川のあるような場所であれば、釣り竿はそれなりに持っている者がいるだろう。
一応ギルムの近くにも川はあるが、それはかなり小さな川で、おまけに辺境であるが故にモンスターも多く、釣りをする者はそう多くはない。
探せばギルムの中にもそのような物好きはいるかもしれないが、残念ながら今の状況でそのようなことが出来る筈がない。
まさか、今からギルムに行って釣り竿を持っている人を探して借りてくるので、魚を獲るのをここで待っていて下さいなどとは言えないし、もし言っても間違いなく学者がそれを却下するだろう。
そんな訳で……
「貝は大抵は動かないものだ。だとすれば、湖のどこかに貝がいるのを見れば、何とかなる筈だ。……頼むぞ、頼むからいるなよ」
そう自分を励ますように、そして慰めるように言いながら、冒険者は魚を捕る為に湖の中に入っていく。
その手にもつのは、長剣。
本来なら魚を捕るには長剣よりも槍の方がいいのだが、生憎男は槍を持っていなかった。
……レイに言えば、それこそ以前手に入れた銛を貸して貰えたかもしれないのだが。
ともあれ、冒険者は湖の中に入っていき……長剣を振るう。
魚は生きたままということを希望されている以上、長剣を鞘から抜くことはない。
そして魚を鞘で潰して殺さないように、上手い具合に手加減すらしていた。
殴るというよりは、鞘ですくうといった感じで湖の中から放り出された魚は、そのまま水辺の地面に落ちると、元気に暴れ回る。
それが魚の活きのよさを示していた。
「ほう、凄いな。すまないが、他にも何匹か頼む」
学者のその言葉に、こうなればもう自棄だとでも思ったのか、冒険者は続けて何度も鞘を振るう。
そうしてあっさりと魚を獲ることが出来るのは、やはり腕利きの冒険者だという証か。
二匹、三匹、四匹、五匹。
続けて冒険者によって鞘で地面に放り出された魚は、当然のようにまだその全てが生きており、地面を元気に跳ね回る。
そんな複数の魚を、喜んで捕まえる学者。
(生かして捕らえても、水槽とかバケツとかそういうのがないんだから、生きたままギルムに連れていくのは無理じゃないか? ましてや、今すぐ帰ると言っても他の学者達はまだここに残りたいと言うだろうし)
魚を捕まえて喜んでいる学者を見ながら、レイはそんな風に思う。
レイの視線の先では、他にも色々と冒険者達を振り回している学者達の姿があった。
湖の周囲を歩き回りながら、地面に落ちている石を拾っては、何かを書いて集めているといった者もいる。
(鉱石の調査でもしてるのか? ……湖に鉱石があるのかどうかは、分からないけど)
正確には、鉱石という点では様々な鉱石があるだろう。
だが、それが売り物になるくらいの鉱石かと言われれば、大抵は否だ。
とはいえ、この湖は異世界から転移してきた湖である以上、場合によってはこの世界に存在しない鉱石の類があっても、おかしくはないのだが。
「グルゥ?」
どうしたの? と、周囲の様子を見ているレイに、セトが尋ねる。
セトにしてみれば、何が理由でこうして黙って周囲の様子を見ているだけなのか、それが分からないのだろう。
……実際には、レイも別に何か明確な理由があってそのような真似をしている訳ではないのだが。
「いや、何でもない。ただちょっと周囲の様子を見ていただけだよ。俺の予想以上に学者達が多かったし」
ダスカーに学者を寄越して欲しいと希望したのは、レイだ。
それでも、まさかここまで大勢の学者を送ってくれるとは、思ってもいなかった。
ダスカーの素早い行動は嬉しいのだが、それでもこうして学者達を見ていると……何だか微妙な気分になってしまうのは、仕方がない。
湖を調べている学者達は、どこか錬金術師達を思い出させる。
トレントの森で伐採された木を持っていくと、それを求めて集まってきたり、レイに冬に倒した巨大な目玉のモンスターの素材を譲ってくれないかと言ってくるような、そんな錬金術師達を。
(錬金術師達に比べると、まだ結構大人しい感じなんだけどな)
少なくても、自分に何らかの素材を渡せといったように言ってくることはない。
実際には、レイのミスティリングの中にどれだけの素材が入っているのか、分からないだけかもしれなかったが。
「レイさん、ちょっといいですか?」
そんな学者のうち、二十代後半程の女がそう話し掛けてくる。
湖の水を調べていた人物だ。
「ああ、構わない。それでどうかしたのか? 何か分かったとか?」
「ええ。もっとも、本格的な調査という点ではまだまだですが。……ただ、取りあえずこの湖の水は人が飲んでも問題はありません」
「へぇ」
生水というのは、基本的に危険なものが多い。
だというのに、この湖の水は飲んでも問題ないというのだから、レイが驚くのは当然だった。
「それは間違いなくか?」
「はい」
再度のレイの問いにも、女はそう断言する。
それだけ自信があるのだろうが、それでもこの短時間で本当に全てを調べられるのか? という思いがレイにはあった。
とはいえ、そこまで言うのであればと、頷く。
「分かった。一応俺達が使うときは一度沸騰させてから使うけど、それでもいいよな?」
「そうですね。私は自分の分析結果に自信はありますが、万が一のことを考えるとそうした方がいいかと」
自分の分析結果を完全には信用されなかったというのに、まさかそれを許容するようなことを言うとは、レイにとっても驚きだった。
そんな思いが表情に出たのだろう。女は不思議そうに尋ねる。
「どうしました?」
「……いや。自分の検査結果を完全に信用していないと言われたのに、まさかそれを肯定するようなことを言うとは思わなかったからな」
「調査はしましたが、それはあくまでも私が知る範囲での調査です。それも比較的簡易的なもので、致命的な毒の類ではないというのは分かりましたが、もっと詳しいことは詳細な調査をしないと分かりませんから。だからこそ、飲料水として使うなら一度沸騰させた方がいいかと。……もっとも、本当に安全に気を配るのなら、わざわざ湖の水を使わなくてもいいと思いますが」
その言葉は正論だった。
実際に食料の類を馬車で持ってくる時に、樽に詰められた水も運ばれてくる。
それがあれば、飲み水に困るということはないのだから。
「それでも、こうして目の前に大量の水があると、どうしても勿体ないと思うんだよな。もしこの水が飲料水として使えるのなら、馬車で運んでくる飲料水分が他の物に出来るし」
本来なら、飲み水というだけあればレイには流水の短剣がある。
レイの魔力によって生み出された水は、天上の甘露とでも呼ぶべき美味さを持つ。
……とはいえ、その水の味を知れば他の水を飲めなくなる……訳ではないが、それでも暫くは味気なく感じてしまう。
それを思えば、やはり水は普通の水を飲んだ方がいいのは間違いなかった。
レイは女と水について少しの間会話を交わすのだった。
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