第2090話
ごぽり、と。湖の底で空気の泡が生まれて水面に向かって浮き上がる。
その光景を見て、周辺を泳いでいた魚や動物は、即座にその場から離脱しようとするが……不意に伸びてきた触手が身体に巻き付き、その瞬間に身体が動かなくなる。
触手に捕まった中でも最も大きな魚……体長一m程もあるその魚は、この湖の中では強者と言ってもよかった。
肉食の魚だけに、この湖に存在する多くの魚は、その魚にとって自らの餌でしかない。
この湖の王でもあると自覚していただけに、自分よりも圧倒的に上の存在に対して怒りを覚えもするが……現在抱いているのは、このままでは自分は死ぬという本能的な恐怖だけだ。
誰よりも早く泳げたその身体は、しかし自分の身体に巻き付いている触手から逃げ出すことが出来ず、次第に引っ張られていく。
そして……やがてその魚は、触手の主によってあっさりと身体を溶されて消化される。
触手に捕まっていた他の魚や動物も消化した触手の主は、それでもまだ空腹が収まらないのか触手を周囲に伸ばす。
だが、手当たり次第に近くに存在する魚や動物を喰いつくした結果、周囲には魚や動物の姿はなくなる。
ごぼり、と、
再度湖の底から空気の泡が浮かび上がるも、それで何がどうなる訳でもない。
触手を水の中に漂わせて獲物を探すも、結局飢えを満たしてくれる獲物は見つからない。
このままここにいても獲物を見つけることが出来ないのであれば、やるべきことは一つ。
獲物がいないのなら、いる場所に向かうしかない。
そうして湖の底からふわりと浮かんだその存在は、獲物を求めて水面に向かって浮かび上がっていく。
自我というものはなく、ただ本能的に飢えを満たす為だけの行動。
しかし、それ故に余計な考えを抱くことはなく、本能に忠実であるが故に、答えに真っ直ぐ辿り着く。
水面のかなり上の方まで移動したその存在が、ふと自分からそう離れていない場所に強大な魔力の存在を感じた。
その強大な魔力は、間違いなく自分の中にある飢えを満たしてくれるだろうと判断し、本能に従ってそちらに向かう。
そして、獲物との距離が近くなればなる程に、その巨大な魔力の存在を察することが出来る。
そちらに向かっていた触手の主だったが、ふとその存在が動いたのに気が付く。
いつの間にか、自分の真上に存在していた相手に疑問を抱くようなことはなく……ただ、自らの飢えを満たす為に水面を突き破って触手を伸ばす。
喰う、喰う、喰う、喰う、喰う、喰う、喰う、喰う、喰う、喰う。
そんな飢餓感に襲われる中、水面を突き破って伸ばされた触手は……不意に存在が消失する。
自分が攻撃されたということにも気が付かず……いや、気が付いてはいるのだろうが、それを気にするよりも上をどうにかする必要があると触手を伸ばしていく。
……正確には触手ではなく、その存在の身体の一部を細く伸ばしているのだが、客観的に見た場合、それは触手と表現されても間違いではなかった。
そんな触手を何本も、何本も破壊され……それでも、飢えによる動きは止まらない。
本能に動かされるまま、触手を伸ばし続けていたのだが、時間が経っても飢えを満たす存在を捕らえることが出来ない。
やがてこのままでは、いつまで経っても餌を手に入れることは出来ないと判断したのだろう。
水の中にいた存在は、触手ではなく自分が相手を直接食らおうと本体が水面目掛けて浮き上がっていくのだった。
時は戻り、レイとセトが湖で遊んでいるリザードマンの子供達を眺めていた頃、不意にセトが鋭く鳴いて湖を睨み付ける。
「グルルルルルルルルルゥ!」
その声は、何かを警戒しているように、レイの耳には聞こえた。
「セト? どうした?」
「グルゥ、グルルルゥ、グルルルルルゥ!」
レイの呼び掛けに、セトは喉を鳴らしながら湖を睨み付ける。
そんなセトの様子を見れば、何かが……それも危険な、セトが警戒すべき相手が湖の中にいるのだろうというのは、レイにも理解出来る。
そもそもの話、上空から湖を見た時、そこには見たことがないような……湖の中にいるのに、全く毛が濡れていない尻尾を持つような動物を目にしていたのだ。
……勿論、レイにとってこの世界は生まれ育った日本とは違うし、そもそもこの湖は恐らく異世界から転移してきた存在だ。
であれば、レイの知らない何かが存在してもおかしくはない。
「ゾゾ、子供達を湖から上げて、生誕の塔に避難しろ!」
レイの呼び掛けに、少し離れた場所で待機していたゾゾはすぐに行動に移す。
リザードマンの子供達も、言葉は分からないまでもゾゾとレイの様子を見て、そして湖から上がるようにと言ってくるゾゾの剣幕に、急いで湖から上がって、生誕の塔に向かって走り出す。
そんな光景を横目に、レイはゾゾに何があってもすぐ対応出来るようにと指示を出し、セトに乗って湖の上空を飛ぶ。
岸から見るよりも上空から見た方が分かりやすいと、そう判断しての行動。
そう思って湖の上空を飛ぶセトと、その背に跨がったレイだったが、上空から見た限りでは特に何かがあるようには思えない。……少なくても、最初のうちはそう思っていた。
「グルルゥ!」
空の上を飛んでから、数分。
不意にセトが鋭く鳴き声を上げる。
一体セトが何を警戒しているのか、最初はレイにも理解は出来なかった。
だが、幸いなことに……と表現してもいいのかどうかは不明だが、ともあれすぐにその理由は理解出来た。
湖の水面から、半透明の何かが伸びてきたのだ。
それも、高度百m程の位置にいるセトに届くかのように伸びてきたのだから、レイもそれに気が付かない訳がない。
半透明の……それこそ水の触手とでも表現すべき何かが一本、二本、三本……最終的には、十本以上。
それらが湖の水面から伸びてきたのだ。
「セト、お前が危険だと思ったのは、あれか?」
「グルゥ!」
レイの呼び掛けにセトが答え、そのついでと言わんばかりに自分に向かって伸びてきた触手を前足の一撃で砕く。
セトの一撃が強力だったというのもあるのだろうが、それ以上に水の触手はそこまで強靱な代物ではなかった。
「脆いな」
「グルゥ」
レイの呟きに、セトは短く喉を鳴らしながら、それに同意する。
とはいえ、脆い触手ではあってもその数はそれなりに多い。
先程までは十本程度だったのが、今では三十本を超え、更に数を増している。
その様子を見る限り、一体触手がどれだけの数になるのかは、レイにも理解出来ない。出来ないが……その触手に触れられれば一体どうなるのかは、考えたくもなかった。
呆気なく破壊出来る程度の触手ではあるが、考えようによっては、その触手はその程度で十分な力を持つとも思える。
であれば、実際に自分に触手が触れるよりも前に破壊してしまうのが最善の選択なのは間違いない。
「飛斬!」
セトの背に跨がったまま、レイはミスティリングから取り出したデスサイズを振るい、飛斬を飛ばして触手を切断する。
やはりレイが予想した通り、その触手は脆い。
レイの放った飛斬は、触手の一本をあっさりと切断し、それでも殆ど威力を弱めた様子を見せることなく、切断した触手の背後にあった別の触手を切断し、それでも威力は弱まらずに次の触手を切断し……といった具合に切断していく。
飛斬はレベルが五になった影響で、それ以前と比べると威力が極端に上がっている。
魔獣術の特性として、スキルのレベルが五になると、そのスキルの性能が跳ね上がるというのがある。
飛斬もそれによって威力が上がっているのだが、それでもこうまであっさりと触手を切断するような真似が出来るとは思えなかった。
(つまり、この触手は相手を縛って捕らえるとかじゃなくて、何か別の方法で相手を捕らえるのか? いや、そもそもこうして攻撃してるけど、実は敵意がないなんてことは……)
少しだけそう考えたレイだったが、すぐに飛斬を放って自らの考えを否定する。
自分とセトの周囲に存在する触手は、紛れもなく自分達に向かって……いや、触手の向かう先を思えば、レイではなくセトに向かって伸びている。
この触手がどのようにして相手の場所を察知しているのかは、レイにも分からない。
だが、触手がセトを狙っているということだけは、間違いのない事実だった。
そんな相手が、友好的であるとはレイには思えない。
「グルルルルルルゥ!」
セトが鳴き声を上げると同時に、その周囲に風の矢が何本も生み出され、一斉に発射される。
放たれた風の矢は、容易く触手を砕いていく。
それ以外にもセトは土の矢や、氷の矢、衝撃の魔眼を使って、次々と触手を破壊していく。
その中でも圧巻だったのは、ファイアブレスだろう。
セトのクチバシが開いて放たれたファイアブレスは、それこそ十以上の触手を纏めて燃やしつくす。
(いっそ、俺も炎の魔法を使って触手を一気に焼いてしまうか? いや、けど今の状況を考えると、俺の魔法だと湖にも被害がいくしな)
飛斬を使いつつ、近づいてくる触手はデスサイズと黄昏の槍を使って切断し、砕いていく。
転移してきたばかりの湖である以上、ここで下手に刺激を与えた場合、一体どうなるのかレイには分からない。
それこそ、下手をすればレイの魔法が切っ掛けとなって湖の近くに存在する生誕の塔が致命的な被害を受けないとも限らないのだ。
生誕の塔には、現在もリザードマンの卵が大量に安置されている。
もし生誕の塔が倒れるようなことになった場合、最悪卵が全て破壊されるという可能性も否定は出来なかった。
もしそうなったら、とてもではないがリザードマンはレイを許さないだろう。
レイに忠実なゾゾであれば、あるいは許すかもしれないが。
少なくても、現在レイと気の合う友人という立場のガガは、レイを殺しに掛かってきてもおかしくはない。
「セト、少し時間は掛かるけど、この触手の主が諦めるまで頑張るぞ」
「グルゥ!」
レイの言葉に、任せて! と鳴き声を上げるセト。
そんなセトに、レイは悪いなと小さく呟く。
(それにしても、あの冬に戦った目玉も触手を持っていたのに、今回もまた触手か。何というかこう……俺、妙に触手に好かれすぎじゃないか?)
もしかして、これからも何かある度に触手を持つモンスターと戦うことになるのか? と若干嫌な思いをしながら攻撃をすること、十数分。
それだけの間、触手を切断し、破壊し続けても触手は一向に減る気配がなく、それどころか増えてすらいた。
このままだと、今は大丈夫でもいつか体力切れになる。
そう思った瞬間、不意に水面から出ていた触手が一斉に湖の中に戻っていく。
「え?」
「グルルルゥ?」
レイとセトは、揃って疑問の声を上げる。
今の戦い、勝っていたのはレイ達だったが、それでも延々と伸びてくる触手は厄介な相手だった。
どのような能力を持っているのかは分からなかったが、それでもあのまま戦い続けていれば、いつかはその能力を知ることになっただろう。……自分達の身体で。
最悪の場合は湖の上から逃げればいいのだが、そうなると湖の近くにいるリザードマンや冒険者、騎士といった面々に被害が及ぶ可能性もある。
その辺りの事情を考えると、やはりレイとセトが……いや、触手が狙っているのがセトなので、セトがこうして湖の上空で戦い続ける必要があったのだが……何故か、向こうは持久戦を捨てて、触手を湖に戻したのだ。
だが、レイとセトが触手の行動に抱いた疑問は、すぐに解ける。
何故なら、巨大な何かが水面に浮かび上がってきたのだ。
それは、触手と同じように半透明な存在。
外見としては、半透明でちょっとした山や丘と表現してもいいような、そんな大きさの楕円形の存在。
「……スライム?」
そう、レイの口から言葉が漏れる。
実際、それは大きささえ考えなければ、普通にレイが知っているスライムと同じような外見をしている。
ただし、その大きさこそが普通のスライムとは明らかに、比較にならない程に、圧倒的なまでに違っていた。
それこそ、普通のスライムをどれだけ集めればレイの視線の先にいるスライムのような大きさになるのかと考えた時、考えるのが馬鹿らしくなるくらいには。
「グルルルゥ」
スライムが相手でも油断をしないでと、そうセトが喉を鳴らしながらレイに警戒を促す。
レイはそんなセトに頷いて大丈夫だと声を掛ける。
セトが警戒を必要とする程の強さを持つ相手である以上、そのような相手を侮るつもりは一切なかった。
「とにかく、相手はこっちを攻撃してきた以上、ゾゾ達とは違って話して分かる相手じゃない。……いや、ゾゾも最初はこっちの話を聞かずに襲い掛かって来たけど」
呟くレイの言葉に、セトは喉を鳴らし……そのまま、巨大なスライムが次にどのような行動に出ても対処出来るようにしながら、相手の行動を待つのだった。
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