第2046話
レイ一行がダスカーや他の部下と共にやって来た場所は、領主の館の中でも大規模なパーティが開かれる大ホールだった。
現在そこでは、緑人やリザードマン達が共同生活を行っている。
元々は緑人達を弾圧していたリザードマンと、弾圧されていた緑人達。
普通に考えれば、とてもではないがその共同生活が上手くいく筈がない。
だが、実際には予想以上にその生活は上手くいっていた。
緑人達は基本的に穏やかな性格をしており、自分達を弾圧したリザードマン達を恨むといった真似はしていない。
リザードマン達の方も、ゾゾからの命令によって緑人達に危害を加えることは禁止されていた。
ゾゾの兄たるザザがいれば、あるいはそんなゾゾの命令を無視し、他のリザードマン達を率いて緑人達に攻撃し、ダスカー達にすら攻撃をしたかもしれない。
だが、ゾゾに負けてロープで縛られたザザは、現在地下牢に入れられている。
ゾゾと同格の存在だということが分かっていたので、さすがに今となってはロープは解かれているが……幸い、ゾゾに負けたのが効いたのか、もしくは今はチャンスを窺っているだけなのか、無意味に暴れるような真似はしていなかったが。
そんな訳で、現在大ホールでは不思議な程に穏便な時間が流れており、緑人やリザードマン達はこの世界の言葉や文字を勉強していた。
そこにレイ達がやってきたのだから、講師役の者や緑人、リザードマンといった者達が驚かない訳がない。
「ダスカー様、一体何をしにここへ?」
そんな中で一番驚き、それでいながら最初に我に返ったのは講師役の男の一人だった。
講師役の中でも一番年長……五十代のその男は、それこそかなり前からダスカーのことを知っている。
だからこそ、ダスカーが突飛な行動をしても、すぐに対応出来たのだろう。
「いや、レイの師匠が今回の一件に役立つマジックアイテムを用意してくれてな。それを使ったところ、ゾゾと意思疎通が出来るようになった」
『おお』
講師役としてこの場にいた全員が、ダスカーの言葉に驚愕の声を漏らし、次にレイに視線を向け、最後にゾゾに視線を向ける。
そうなると、当然のようにゾゾが手に持つ石版に目が行く。
「その石版が?」
「そうだ。この石版は、こっちの言葉をゾゾに理解出来る文字にゾゾの言葉を俺達に理解出来る文字にしてくれる」
ダスカーの言葉に、講師は全員が嬉しそうな声を出す。
言葉や文字を教える為にここにいる講師達だが、中には純粋にダスカーの部下という者も多い。
……貴族や大商人といった者の子供に勉強を教える家庭教師といった者もここにはいるのだが、やはり子供に文字を教えるのと、緑人やリザードマン達に言葉や文字を教えるのでは、意味が違う。
特に大きいのは、やはり勉強を教える時は子供達は既に言葉は覚えているのに、緑人やリザードマン達は言葉から教えなければならないということだった。
ましてや、初めて見る緑人という種族や、普通ならモンスターという扱いのリザードマンだ。
当然のように、教える側としても戸惑ってしまう。
「その、ダスカー様。早速試してみてもいいですか? その石版があれば、勉強がかなり捗ると思うのですが。何しろ、今は殆どが手探りの状態でして」
「待て。ここに来たのは、その前に確認することがあったからだ。このマジックアイテムは、最初に使った者……この場合はゾゾだが、そのゾゾしか使えなくなっている」
「え? でも文字なんですよね? なら、ゾゾ以外の者であっても普通に読める筈じゃ?」
「ああ、俺もそう思う。だから、ここにやって来たんだ」
そう言われれば、ダスカーと話していた男も、すぐに何故ここに来たのかというのを理解する。
つまり、それが本当なのかどうかの実験をしてみたかったのだろうと。
「分かりました。では、お願いします」
そう言いながら、男は若干祈るような表情になっている。
出来れば石版が他の者にも効果があって欲しいと、そう思っているのだろう。
文字や言葉の勉強をするにも、まず意思疎通が出来なければ難しい。
だが、ここではその意思疎通の段階で躓いているのだ。
その意思疎通が簡単に出来る方法があるとなれば、それに期待しない訳がない。
ダスカーも、言葉や文字を教えるのに手間取っているという報告は受けているので、その言葉に頷くとレイに視線を向ける。
「レイ、頼む」
「分かりました。……ゾゾ」
石版を持っているゾゾに声を掛けると、すぐにゾゾは頷いて石版に視線を向ける。
「俺の言葉が理解出来たら、右手を挙げろ」
その言葉に、ゾゾは素直に右手を挙げる。
『おお』
しっかりとレイの言葉が理解出来ていることに、見ていた者達からは驚きの声が上がる。
「こんな感じだな。……なら、レイ、次にその石版を他の者に渡すように言ってくれ。そうだな、ロロルノーラがいいか」
ここでダスカーの口からロロルノーラの名前が出たのは、やはりロロルノーラが緑人を代表する立場になっているからだろう。
最初にレイと接したのが原因だったのだが、ロロルノーラ本人も代表扱いされるのを嫌がっている様子もないので、今のところは特に問題がない。
リザードマンに渡すように言わなかった理由は、レイにも分からなかったが。
「ゾゾ、その石版をロロルノーラに渡せ」
石版の文字でレイが何を言ってるのかを理解したゾゾは、少し離れた場所にいるロロルノーラに向かって近づいていく。
不思議なことに、ロロルノーラやそれ以外の緑の亜人達も、ゾゾが近づいてくるというのに警戒した様子はない。
リザードマン達に致命傷……とまではいかないまでも、十分に重傷と呼べるだけの傷を与えられたにも関わらず、だ。
これがロロルノーラを含めた緑人としての性格からなのか、それとも単純にゾゾがレイに従っているから問題ないと判断したのか。
その辺りの事情はレイにも分からなかったが、ともあれ面倒が起きなくて楽なのは間違いなかった。
ゾゾが、相変わらずレイに殆ど理解出来ない言葉でロロルノーラに石版の使い方を教えている。
だが、当然のようにゾゾとロロルノーラの間で会話は通じ、ロロルノーラは渡された石版を手にして、レイに視線を向けた。
別に石版の効果を確認するのであれば、レイでなくてもよかっただろう。
だが、ロロルノーラにとっては、レイこそがその相手に相応しいと、そう判断したのだ。
それを理解したレイは、小さく頷いてから口を開く。
「俺の言葉が理解出来たら、一歩横に動いてくれ」
レイが告げると同時に石版に文字が表示されるが、それを見たロロルノーラは首を傾げるだけだ。
何だ? と、それを見ていたレイだけではなく、他の者達までもが揃って不思議そうにロロルノーラに視線を向ける。
レイもまた疑問に思い、ロロルノーラに近づくと持っていた石版を見た。
そこに表示されている文字を、レイは正確には理解出来ない。
それでも、ゾゾが石版を使っていた時に表示されていた文字と同じような文字だというのは理解出来た。
つまり、ゾゾと同じ文字、同じ言葉を使っているロロルノーラも、本来ならこの文字を読めなければおかしい。
だというのに、ロロルノーラは全くその文字を読めないといった表情を浮かべている。
それが嘘でも何でもないのは、周囲にいる他のロロルノーラの……そして、集まってきたリザードマン達の様子を見ても明らかだ。
「ゾゾ」
レイが短く告げる。
ゾゾも、レイが自分の名前を読んだのは分かったので、ロロルノーラから石版を受け取って一瞥すると口を開き、その言葉が文章となって石版に表示される。
『どうやら、この文字は私にしか読めないようです。レイ様の言葉が理解出来たら、一歩横に動けと書いてあります』
「……なるほど」
レイの口調に込められているのは、やっぱりなといった思いだ。
グリムから、一人しか使えないという話は聞いていたのだから、この展開は予想して然るべきだった。
「その文字はゾゾ達が使っている文字で間違いないのか?」
『はい。緑人達も使っている文字で間違いありません』
「つまり、同じ文字であるにも関わらず、その文字はゾゾしか読めないと。……師匠が言っていた、初めて使った者しか使えないというのが、こういうのだとは思わなかったけど」
レイの言葉に、エレーナ、マリーナ、ヴィヘラの三人……グリムを知っている者達は納得の表情を浮かべるものの、それ以外の者達は残念そうな、それこそ心の底から残念そうな表情を浮かべる。
まだ試したのはロロルノーラだけだが、元々ゾゾ以外には使えないと言われていた状態でこうして試してみたところ、駄目だったのだ。
そうである以上、他の者に使わせても恐らく駄目だろうというのは容易に予想出来たことだった。
「これは……ある意味で予想通りと言ってもいいのかもしれんが……」
ダスカーもまた、目の前で行われたやり取りに大きく息を吐く。
石版をゾゾ以外も使えるのであれば、今ここで行われている勉強に関しても劇的に進むのは間違いなかったのだが。
「ダスカー様、そのゾゾといいましたか。出来れば、あのリザードマンをお借りしたいのですが」
先程までダスカーと話していた講師役の男がそう告げるが、ダスカーは一瞬の躊躇もなく首を横に振る。
ゾゾがレイに忠誠を誓っており、その側にいると決めているのは明らかだった為だ。
もしこの状況でゾゾにここに残れと言っても、本人が承知しないのは間違いない。
レイが命令すれば、あるいは……とも思うが、そのような真似をすれば、ゾゾは間違いなくダスカーに不満を持つ。
これからのことを考えると、グラン・ドラゴニア帝国の皇子たるゾゾとの関係は、出来るだけ悪くしたくはなかった。
ましてや、ゾゾの兄たるザザとの関係は既に最悪に近いのだ。
そんな状況で、ゾゾの機嫌を損ねるような真似はしたくない。
どうしてもゾゾをこの場に留めるというのなら、それこそゾゾが仕えているレイもまたここに残す必要がある。
だが、トレントの森に頻繁に緑人やリザードマンが転移してくるとなると、セトに乗って高速で移動出来るレイには、出来るだけトレントの森にいて欲しい。
また、ゾゾがいるおかげでリザードマンが無条件――ザザのような者がいる場合は除く――で従えることが出来るというのは大きかった。
一応トレントの森にはレイ以外にも高ランク冒険者を派遣しているので、どうにか出来ないこともないのだが、ゾゾがいるのといないのとでは、リザードマンが受ける被害が……そして何より、心証が違ってくる。
「駄目だ。ゾゾはレイに従っている身だ。そうである以上、こちらの都合で命令は出来ん」
『そうですね。私に勝ったレイ様は、私の主となりました。私の心情としては、レイ様……そして、エレーナ様、イエロ様以外の指示にはあまり従いたくありません。レイ様の部族……いえ、パーティと言いましたか。その人達であれば、話は別ですが』
石版の力で、ダスカーが何を言っているのかを理解したのだろう。
ゾゾが何かを喋り、その言葉が石版に表示されてダスカーにゾゾの意志を伝える。
そんなゾゾとダスカーのやり取りを眺めていたレイは、石版の力に若干の疑問を抱く。
(石版に表示された文字は、ゾゾなら読める。だが、ゾゾの言葉が翻訳された文字は、俺達……この世界にいる者なら、誰でも読むことが出来た。この違いはなんだ? やっぱり、ゾゾが石版の使用者、もしくは所有者と認識されているからか? まぁ、この石版の使い方がイレギュラーなのは間違いないだろうけど)
本来の使い方……何らかの理由で言葉を喋ることが出来ない者が使うのであれば、このようなことにはならなかったのか。
若干その辺が気になるレイだったが、ともあれこれで石版の効果ははっきりとした。
「ゾゾしか使えないというのは痛いですけど……」
「分かっている。レイから無理に離すような真似はしないから、安心してくれ」
レイの呟きを聞いたダスカーが、確約するようにそう言う。
ダスカーにしても、今の状況でレイやゾゾから恨みを買うといった真似は絶対に避けたいというのが正直なところだった。
「ありがとうございます。……それで、取りあえず今日はどうします? このままトレントの森に向かうか、それとも……」
この場に残って勉強の手伝いをするか。
そう尋ねるレイに、ダスカーは数秒考えた後でトレントの森に行くように告げる。
「ゾゾがいれば勉強は捗るだろうが、勉強は今日だけで終わる訳ではない。であれば、トレントの森に行って貰った方がいい」
「分かりました。じゃあ、そうしますね。……エレーナ達はどうする?」
「私は何人かの貴族と会う予定がある」
「増築工事で怪我をした人の治療は必要でしょうしね」
「ビューネと一緒に見回りかしら」
結局、そういうことになる。
……講師役の者達は、残念そうにしていたが。
尚、この石版と同じようなマジックアイテムがないかどうかを、ダスカーは探すことを指示するのだった。
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