第1893話
夕暮れの小麦亭……それは、レイがギルムで定宿にしている宿だ。
……最近は食事をマリーナの家で食べることも多く、部屋の数もそれなりにあるので、引っ越してきて一緒に住まないかと冗談っぽく言われたこともあるが、今のレイはまだ夕暮れの小麦亭から泊まる場所を移そうなどという考えはなかった。
それだけ、夕暮れの小麦亭の居心地が良かったというのもあるし、レイが初めてギルムに来た時から泊まっている宿ということもあって、愛着もある。
また、セトが入っても問題のない厩舎があるというのも、大きい。
マリーナの家はそれなりに広いのだが、セト用の厩舎といった物は存在しない。
もっとも、マリーナの家の場合はマリーナの精霊魔法によって庭がすごしやすくなっているので、そのことを考えれば、厩舎は特にいらないのかもしれないが。
「おや、お帰りなさい。戻ってきたんですね」
夕暮れの小麦亭の女将、ラナがレイの姿を見て笑みを浮かべつつ、そう声を掛けてくる。
ラナにとっても、レイは良い客なのは間違いない。
……何度か問題を起こしはしたが、それはレイ以外の者に問題が多いこともあった。
また、料理を美味そうに食べてくれるというのも、ラナにとっては嬉しい客となる。
「何でも、アネシスに行ってたとか。どんな場所でした?」
そう言いながらも、ラナは受付で素早く手続きを済ませ、部屋の鍵をレイに渡してくる。
基本的に長期契約を結んでおり、前金として宿泊料を払っているだけに、特に複雑な手続きといったことは必要ない。
ましてや、何だかんだとレイがアネシスに行っていたのは一ヶ月にも満たない期間なのだから。
「そうだな。大きかった。ギルムも増築工事をしているけど、あそこまでの大きさには……ちょっと難しいだろうな。もっとも、アネシスはミレアーナ王国第二の都市って呼ばれているくらいなんだから、当然かもしれないけど」
「へぇ、そこまでですか。ギルムも今やっている増築工事でかなり広くなるという話なんですけどね」
「ああ、それだ。最近コボルトの群れが現れてるんだろ? 今日も、さっきセトと一緒に空を飛んでいる時に、増築工事をやってる方で冒険者がコボルト達と戦っているところが見えたけど」
その言葉に、ラナは少し嫌そうな表情を浮かべる。
もっとも、それはレイを嫌がっているという訳ではなく、コボルトがギルムに侵入してきているという現在の状況を嫌がっているが故の表情だ。
ラナもギルムに住んでいる以上、ここが普通の街に比べると危険だというのは理解している。しているのだが……だからといって、自分の住んでいる街にコボルトのようなモンスターが入り込んでくると聞いて、面白い筈もない。
「そうですね。少し前から、どこからともなくコボルトが増築工事をしている場所から入ってくるようになったみたいで。今のところは、冒険者の人達が守ってくれてるので、問題はないんですけど……コボルトだけならまだしも、この先に他のもっと強力なモンスターが来たらと思うと……」
心配ですね、と告げるラナ。
その気持ちは、レイにも分かった。
現在来ているのはコボルトだけで、ギルムの冒険者の実力から簡単に対処出来ているが、もしここで高ランクモンスターが入ってくるようなことがあれば、冒険者の方にも被害は出るだろう。
ここは辺境で、それこそひょっこりとランクCやランクB……場合によってはランクAモンスターが姿を現しても、不思議ではないのだから。
(うーん、そうなると……セトを増築工事をやっている方に放すとかする方がいいのか? そうすれば、普通のモンスターならよっぽどの馬鹿じゃない限り、セトの存在を感じれば近づいて来ないだろうし)
もっとも、それを冒険者達の全員が望むかと言われれば、答えは否だろう。
冬越えの資金が足りていなかった者にしてみれば、危険の少ない――あくまでもギルムの外と比べてだが――街中、それも増築工事をしているので、人が殆どいないような場所でコボルトと戦えるというのは、ボーナスステージと言ってもいいようなものなのだから。
コボルトの素材や魔石、討伐報酬はどれもかなり安いが、それでも金がない状況の者達にしてみれば、一匹で得られる報酬は少なくても、それは数で稼げばいいだけだ。
そのような場所にセトを連れて行ってコボルトを出てこないようにすれば、当然不満に思うだろう。
(あ、やっぱりエレーナと一緒にダスカー様に会いに行った方が良かったか? 領主として現在の状況をどうしたいのか、聞いておきたかったし)
そちらの方で話を聞いておけば、悩む必要はなかったのではないか。そんな風に思いつつ、レイはラナから鍵を受け取り、自分の部屋に向かう。
(そう言えば、ヴィヘラとビューネはどうしてるんだ?)
扉の鍵を開けつつ、ふとレイはパーティーメンバー二人について考える。
ヴィヘラとビューネの二人も、現在はこの夕暮れの小麦亭に泊まっている筈だった。
少し疲れを癒やした後で、会いに行ってみてもいいかもしれない。
そんな風に思って扉を開け……
「……何でいる?」
目の前に広がった光景、つい数秒前に思い浮かべていた二つの顔がそこにあるのを見て、数秒の沈黙の後にそう尋ねる。
そう、その部屋には何故かつい先程までレイが考えていたヴィヘラとビューネという二人の姿があったのだ。
ヴィヘラは、そんなレイの姿に少しだけ驚きの表情を浮かべ……やがて、笑みを浮かべて口を開く。
「あら、お帰りなさい。もう少し時間が掛かるかと思ったけど」
レイの驚きを全く気にした様子も見せずに告げるヴィヘラに、レイはこれ以上何を言っても意味はないだろうと判断する。
(鍵は掛かっていた筈……何て言っても、ビューネがいる時点で考えるまでもないしな。いや、夕暮れの小麦亭の鍵を開けることが出来るようになったってことは、その手の技量が上がっている証拠なんだろうけど)
夕暮れの小麦亭は、ギルムの中でも高級な宿の一つだ。
そうである以上、当然のようにセキュリティの類は厳しく、鍵も一見普通の鍵に見えるが、かなり高度な技術が使われている……と、レイは以前ラナから聞いた覚えがあった。
そのような鍵を開けることが出来たのだから、間違いなくビューネの盗賊としての技能は上がっているのだろう。
以前までは戦闘に特化した盗賊だったのだが、レイがアネシスに行っている間、ビューネも遊んでいただけではなかったということなのだろう。
……もっとも、こういう形でそれを知ることになったのだから、レイも素直に喜んでいいのかどうか分からなかったが。
「あー……まぁ、うん。そうだな。ただいま」
色々と思うところはあるレイだったが、それでもおかえりと言って迎えて貰い、ただいまと返すのは、どこかほっとするものを感じる。
「それで、わざわざ俺がいない間に部屋に入って何をしてたんだ? 面白いものなんか何もないだろうに」
普通の冒険者であれば、長期……それも数年単位で滞在している部屋であれば、多くの私物が転がっていてもおかしくはない。
だが、レイの場合はミスティリングという便利な、便利すぎるものがある為、私物は基本的にそこに収納されている。
そうである以上、部屋の中に私物は全くない……訳ではないが、一般的に見た場合はかなり少なかった。
そのような場所にいるというのは、それこそ普通の空き部屋にいるのと変わらないのだから、何が面白くてこの部屋にいるのかというのは、素直なレイの疑問だった。
(これで漫画とかなら、ベッドの下とかを漁ったりってこともするんだろうけど……この世界にそういうのはないしな。いや、あるのかもしれないけど、見たことがないというのが正しいか)
いわゆる、思春期になった男にとってのお宝は、この世界にはない。
もっとも、代わりという訳ではないが娼館があったり、個人で娼婦をやったりとしている者も多いので、どちらが幸せとは断言出来ないのだが。
「ちょっと暇だったから、レイの部屋に遊びに来てたのよ。……まさか、ちょうど帰ってくるとは思わなかったけど」
「俺の部屋なんかに来ても、特に何か面白いものはないだろ? それは分かってたと思うが」
ヴィヘラやビューネがレイの部屋に来るのは、別にこれが初めてという訳ではない。
それこそ、今まで何度もやって来ているのだから、特に何か面白い物が置いてないのは、考えるまでもなく分かっていてもおかしくはない筈だった。
にも関わらず、何故? と、尋ねるレイだったが……ヴィヘラは笑みを浮かべて口を開く。
「あら、愛してる人の部屋に興味を持つのは当然でしょう?」
率直なまでのその言葉に、レイは一瞬何と言うべきか迷い……
「そうか」
結局は短くそう答えるだけにする。
そんなレイの態度が面白かったのか、ヴィヘラは笑みを浮かべて話を逸らす。
「それで? エレーナはどうしたの?」
「ん? あー……ああ。ちょっとダスカー様のところに顔を出してくるって言ってたな」
唐突に変わった話題に若干戸惑うレイだったが、それでも何とかそう返すことには成功する。
「ああ、エレーナの立場を考えればそうしないといけないのね。……それに、エレーナはマリーナの家に泊まってるんだから、こっちに来なくてもおかしくないのかしら」
「そうだな。……で、ヴィヘラはコボルトの討伐にいかないのか? 今も増築工事をしている場所で戦ってたみたいだけど」
「また来たの?」
レイの言葉に、先程まで浮かべていた笑みを消し、嫌そうな表情を浮かべるヴィヘラ。
ビューネの方はそんなヴィヘラの態度に表情を変えることはないが、不満そうな雰囲気を発している。
(なるほど。ヴィヘラはコボルトとの戦いを好まないけど、ビューネは戦いに行きたいと、そう思っていた……といったところか)
ビューネは少しでも金を稼ぎたいと、そう思っているのをレイも知っていたので、そのことは不思議に思わない。
寧ろ、戦いを好むヴィヘラがコボルトとの戦いに参加しないのは……そう考え、コボルトが低ランクモンスターであるのなら、ヴィヘラの性格上このような態度を取っても仕方がないと思い直す。
戦いを好むヴィヘラだが、それは弱い相手を蹂躙したいというのではなく、強敵との戦いを楽しむというものだ。
だからこそ、コボルトのような低ランクモンスターを相手に、食指が動かなかったのだろう。
「やっぱりコボルトはお気に召さなかったのか? まぁ、低ランクモンスターだからしょうがないけど」
「そうね。一応何度か顔を出してみたけど……上位種や希少種がいるのなら、まだ多少は楽しめたんでしょうけど、いるのは普通のコボルトだけだったわ」
それが不満の種か、とレイは納得する。
とはいえ、それを聞けば疑問が湧く。
「けど、コボルトが攻めてきてるのは、一日二日じゃないんだろ? そんな真似をするとなると、そのコボルトの群れは相当の数だろうし、それを率いているコボルトなら上位種か希少種と考えるのが自然だと思うけどな」
「そうね。私もそう思うし、他の戦いに参加している冒険者の人も同じように感じていたわ。けど……残念ながら、それらを探しても見つけられないのよ。ビューネも頑張ったんだけど……ね?」
「ん」
ヴィヘラの言葉に、ビューネはいつものように短く一言で返す。
「具体的に毎日コボルトがどれくらい倒されているのかは分からないけど、それも十匹や二十匹って数じゃないだろ? それを考えると、色々と不審な点が多そうだけどな」
「私もそう思うわ。けど、いない以上は見つけようがないのも事実なのよ。……戦闘に参加している盗賊の多くが、その件で悔しがっているわよ」
ビューネもだけどね、と。ヴィヘラはビューネの柔らかそうな頬を突く。
そんなヴィヘラの指を嫌がる様子もなく、ビューネは自分が持っている鍵を開けようと頑張っていた。
「なるほど。……で、マリーナは? 精霊魔法とかを使えば、コボルトの群れを率いてる奴を見つけ出すようなことも出来るんじゃないか?」
「ううん。マリーナが試してみたけど、駄目だったわ」
「……本当か?」
ヴィヘラのその言葉に、嘘だろ? といった思いを抱いてしまう。
レイにとって、マリーナの使う精霊魔法というのは自分の魔法と同じように規格外といった印象が強い。
実際に他の精霊魔法を使っている者を何度か見たことがあったが、マリーナの使う精霊魔法に比べると圧倒的に見劣りしていた。
精霊を自由自在に使って起こすその現象は、それこそ精霊魔法の極みに達してるのではないかとすら、思ってしまう程だ。
そんなマリーナでも、コボルトの群れを率いている者を見つけられないとすると……
(恐らく、物理的にマリーナの探索可能範囲の中に、そのコボルトはいなかったんだろうな。そんな状況で、どうやってコボルトを率いてるのかは分からないけど)
そう考え、レイは単なるコボルトの襲撃と思っていたのが、少しだけ面白そうだと笑みを浮かべるのだった。
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