第1872話

 夜の闇の中、スラム街を多くの兵士達が進んでいた。

 その中には騎士の姿もあり、剣呑な気配を周囲に漂わせている。

 もしこれが明るい時であれば、ここまで移動してくるだけでも相応の騒ぎにはなっただろうが、既に時刻は午後十時近く。

 冬で日が暮れるのも早いということもあって、多くの者は既に眠っている。

 中には酒場でまだ騒いでいたり、娼館に行ったりとする者もいるが、割合的には眠っている者の方が多いだろう。

 あるいは、少し前……新年を迎えたばかりであれば、まだはしゃいでいる者もいたかもしれないが、既に新年になってからある程度経っている。

 新年のパーティー云々というのは、もう殆ど行われていなかった。

 ……とはいえ、スラム街の住人にしてみればまだ起きている者も多く、自分達の住処に兵士や騎士といった者達が来れば、当然のように警戒する。

 それでも直接何者なのかといった風に問い質したりしないのは、今の状況で何かを言えば、下手をすると兵士や騎士達に殺されかねないというのを本能で察知しているからだろう。

 そんな兵士や騎士達の中には、セトを隣に連れたレイとエレーナ、アーラの姿もある。


「悪いな、セト。こういうのに付き合わせてしまって」

「グルゥ!」


 レイの言葉に、セトは問題ないよと喉を鳴らす。

 セトにしてみれば、レイと一緒に出かけることが出来るという時点で嬉しいのだ。

 例え、それがこんな夜中であっても……そして、レイがどこかを襲撃する為の行動であっても。


「エレーナから聞いた話によると、襲撃する場所は普通の家らしい。いや、スラム街に建ってるって時点で普通の家だとは思えないけど」


 スラム街に普通の家があれば、まず確実に盗みに入る者がいる。

 いや、盗みにではなく襲うといったことを考える者もいるだろう。

 だが、その家がアネシスにある裏の組織で、最も高い影響力を持っている者の家であればどうか。

 普通なら、そのような危険な相手の家を襲うような真似はまずしないだろう。

 ……その辺りのことも判断出来ずに襲うといった者もいないとは言えないのが、スラム街なのだが。

 ともあれ、家が建っている場所は特殊だが、家の大きさそのものは普通の一軒家……よりは多少大きいものの、屋敷とは呼べないくらいの広さだと、レイは聞いている。

 そうである以上、体長三mを超えるセトが入るというのは、まず不可能なのは間違いなかった。


「グルルルルゥ!」


 気にしてないよ、と喉を鳴らすセト。

 そんなセトに癒やされたレイは、そっと頭を撫でてやる。

 レイの手が気持ちよかったのだろう。セトは機嫌良さそうに喉を鳴らす。


「……レイ殿、その……ほんわかとしてるところ、申し訳ないのですが……セトとのやり取りで緊張感がなくなってしまうので、出来ればその辺にしておいて下さい」


 アーラが、微妙に言いにくそうにしながらもそう言ってくる。

 レイやエレーナ、アーラのように戦いというものに慣れているのであれば、それこそ戦いの前に緊張しすぎないようにするというのは、当然のことだった。

 だが、兵士達の中には戦いそのものは経験していても、レイ達のように戦闘経験が豊富という訳ではない者も多い。

 そのような兵士達にしてみれば、ここでほんわかとした雰囲気を作られてしまうと、いざ実戦という時に上手く力が入らない可能性もあった。

 レイもアーラの視線や、周囲にいる兵士達の様子からそのことに気がついたのだろう。

 セトの頭を撫でるのを止める。


「悪いな」

「グルゥ……」


 謝るレイだったが、セトはもっと撫でてとレイに頭を擦りつける。

 そんなセトの様子に、レイは仕方がないなと、セトの頭を軽く撫でてやる。


「悪いけど、今はここまでだ。この襲撃が終わったら……いや、もう夜だし明日になるけど、一緒に遊んでやるから」

「グルルルルゥ? グルゥ!」


 少しだけ残念そうではあったが、それでもレイが明日遊ぶと約束したことで十分に満足したのか、セトはそれ以上撫でてと甘えることはなくなった。

 そんなセトの様子を見ていたエレーナは、自分の右肩でじっとしているイエロに視線を向ける。

 いつもであれば、セトが構って貰っているのを見た瞬間、自分も一緒に遊ぶ! と鳴き声を上げてもおかしくはないのだ。

 にも関わらず、今はそのようなことをしていないのを疑問に思っての行動だったが……イエロを見て、納得の表情を浮かべた。

 何故なら、イエロはエレーナの右肩で、器用に眠っていた為だ。

 元々イエロは子供ということもあり、夜にはそこまで強くない。

 人間の子供よりは無理が出来るが、それでもまだこの世に生み出されてから数年くらいしか経っていないのは、間違いないのだ。

 そんなイエロだけに、夜になれば眠くなるのも当然だった。

 ましてや、レイやエレーナ、それにここにいる殆どの者は知らなかったが、今日の日中にはセトとイエロは厩舎の中で鬼ごっこのように追いかけっこをしており、それでイエロもかなり疲れていたというのが大きい。


(目的地に到着するまでは、このままでいいか)


 今の状況で無理に起こすこともないだろうと判断したエレーナは、襲撃する場所に到着するまでは眠らせておいてやろうと判断する。

 元々、イエロは今回の襲撃に関してはそこまで戦力として期待されている訳ではないというのも、この場合は大きい。

 イエロはまだ小さく、純粋な戦力としてはセトには遠く及ばない。

 並の刃は通さない鱗や、周囲の景色に溶け込むといった能力、自分が見た光景をエレーナに追体験させるといった能力はある。

 だが、それはあくまでも直接的な戦闘で役立つ能力ではない。……防御力という点では、盾になるという方法もあるのかもしれないが、イエロを可愛がっているエレーナがそんなことをさせる筈もない。

 今日ここに一緒に来たのも、セトと一緒にいたい、エレーナと離れたくない、レイに構って貰いたい……といった気持ちが強い。


「エレーナ様、見えてきました」


 イエロを見ていたエレーナは、前方からやってきた兵士の言葉で我に返る。

 先の様子を見に行かせていた兵士が、報告にやって来たのだ。

 だが、その兵士の顔が妙に焦っているのを見て、疑問を抱く。


「ふむ、どのような具合だ? 私達が近づいているというのは、当然向こうも知ってるだろうが……その焦りようから考えて、戦力を揃えてこちらを待ち構えでもしていたか?」


 幾らアネシスにある裏の組織の中でも一番大きいとはいえ、ここに揃っているのはケレベル公爵家の持つ軍事力だ。

 ましてや、そこにレイやセトも追加されている以上、たった一つの組織が正面から戦って勝てる筈もない。

 だが、それでも自分達の本拠地に向かって兵士達がやって来ているのであれば、それを迎撃しようと考えてもおかしくはない。

 大人しく指示に従って武装解除をしたりするというのも一つの手段ではあるのだが、そのような真似をすれば間違いなく他の組織に侮られる原因となってしまう。

 これが普通の商会といった組織であれば、それでも問題はなかったのだろう。

 だが、裏の組織である以上、当然周囲に侮られるような真似をする訳にはいかない。

 エレーナもそれを知っていたからこそ、向こうも戦力を用意してこちらを待ち構えているのではないかと、そう思ったのだが……兵士はエレーナの言葉を首を横に振って否定する。


「いえ、違います。目標の家の周囲には、私達とは所属が違う兵士や騎士といった者達が集まってました」

「それは、向こうの戦力という訳ではないのか?」

「はい。兵士や騎士達は、今にも家に向かって突入しそうでしたので」

「セイソール侯爵家か」


 エレーナは、兵士の説明でその戦力がどこに所属している者達なのかを予想する。

 元々テレス達からセイソール侯爵家の戦力が動いているというのは聞いていた。

 聞いていたが……それでも、まさか自分達と同じ場所を襲撃する為にやってくるというのは、エレーナにとっても予想外だった。


(いや、黒狼を雇ったのがガイスカだとすれば、セイソール侯爵家がここにやってくるのは、そうおかしな話ではないのか? 黒狼が死んだという情報を察したのかどうかは分からぬが、その辺りの事情を有耶無耶にするべく手を打ってきた……という可能性は否定出来ない)


 ガイスカが黒狼を雇ったというのは、既にほぼ確信を得ている。

 だが、まだ契約書や関係者の証言といったような、明確な証拠がある訳ではない。

 そうである以上、セイソール侯爵家がそれを抹消する為に動き出しても、疑問を抱くことはなかった。

 もっとも、それはガイスカを罪に問わせない為……であるのは間違いなかったが、別にガイスカの為を思っての話ではなく、あくまでもセイソール侯爵家の名前を落とさせない為だ。

 その理由がどうであれ、黒狼を仲介している組織を攻撃しようとしているのだ。

 そうである以上、エレーナとしてもセイソール侯爵家を放っておく訳にはいかなかった。


「どうしますか?」

「行くぞ。セイソール侯爵家に好きなことをさせる訳にはいかん。今回の一件は、こちらで仕切る必要がある」


 セイソール侯爵家の影響力を多少なりとも削ぐ必要が出来れば、それが最善の結果だろう。

 ただし、この時に注意する必要があるのは、セイソール侯爵家の力を削ぎすぎるのは駄目だということだ。

 その辺りのバランスをどうにかする必要があり、結果としてさじ加減が難しいという点が大きい。

 それでもこのままセイソール侯爵家の戦力をそのままにしておくということは出来ない。

 目的の家に向かい、急ぐ。

 そんなエレーナに率いられるように、ケレベル公爵家の戦力も進む。

 普通なら女に率いられるというのは気に入らないと思う者もいるのだが、それはケレベル公爵家軍。

 姫将軍の異名を持つエレーナに率いられるのは慣れており、現状ではどこにも違和感はなかった。

 この辺りが、ケレベル公爵家の優れているところなのだろう。

 そうして進み続けていると、やがてセトが何か聞こえてきたのか小さく首を動かし、それから少ししてレイもまたセトが何に反応したのかを理解する。


(ああ、なるほど。そう言えばもう突入してるって話をしていたしな。だとすれば、この音は戦いの音か)


 そう、聞こえてきたのは金属音や悲鳴。そして漂ってくるのは血の臭いたる鉄錆臭。

 それを考えれば、何が起きているのかは考えるまでもなく明らかだった。

 レイから少し遅れてエレーナもそれを感じたのか、道を進む足が更に速度を増す。

 当然そうなれば他の者達も同様で、自然と一行が進む速度が上がっていく。

 やがて……


「何者だ!」


 不意に、そんな声がスラム街の暗闇に響く。

 声を発したのが誰なのかは、それこそ考えるまでもなく明らかだった。

 何故なら、この先ではセイソール侯爵家と黒狼との仲介役をしているアネシスで最大規模の裏組織が戦っているのだから。

 ここにいるのは、その戦いに余計な者を参加させない為……具体的には、向こうの組織の援軍を止める為の防波堤の役割をされている者なのだろう。

 だからこそ、暗闇の中を近づいてきたエレーナ達に対し、過敏に反応した。


「私はエレーナ・ケレベル。ケレベル公爵家の者だ。この先に用があるので、通して貰おうか」

「エレーナ・ケレベル……姫将軍っ!?」


 兵士は目の前にいるのが最初は誰だか分からない様子だったが、それでもエレーナ・ケレベルの名前と、その異名たる姫将軍は知っていたのだろう。驚きも露わにしながら、動揺した様子を見せる。


「そうだ。ケレベル公爵家として、この先にある家に用事がある。大人しく通して貰おうか」

「なっ!? いや、けど……」


 絶対にこの場所を通してはならないと言われている為か、エレーナにそのように言われてもその場所から動く様子はない。


「どうした? このアネシス……ケレベル公爵家の領地たる場所で、このエレーナ・ケレベルの指示が聞けないと?」

「それは……いえ、ですが……私では判断出来ませんので、もう少々お待ち下さい。すぐに上の者を呼んできますので。おい!」


 その兵士の言葉に、近くにいた別の兵士が慌てたようにその場を走り去る。

 何をする為にそうしたのかは、それこそ考えるまでもないだろう。

 だが、エレーナはそんな相手の行動を待つつもりはなかった。

 そもそも上官が来ると言うが、その上官が少しでもセイソール侯爵家の為にと時間稼ぎをするという可能性も捨てきれないのだ。

 そうである以上、ここで大人しく待っているというのは悪手でしかない。


「悪いが、悠長に人を待っている時間はない。このまま通らせて貰う」


 そう告げ、エレーナは兵士の横を通る。

 兵士は咄嗟にそんなエレーナに手を伸ばそうとしたが……


「エレーナ様の言葉に、何か問題でも?」


 パワー・アクスを手にしたアーラが、それこそ睨み殺せるのではないかと思える程の視線で兵士を見る。

 そんなアーラの視線に、兵士は結局それ以上は何もすることが出来なくなるのだった。

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