第1834話
「レイさん、起きて下さい。レイさん!」
そんな声が聞こえ、レイの意識は急速に覚醒していく。
薄らと目を開けるも、目の前にいるのが誰なのかはレイには理解出来ない。
いや、理解しようという考えすらも、今のレイの頭の中にはなかった。
「あー……んー……えーっと……」
レイを起こしに来たメイド、ミランダは目の前であーあー言っている人物がレイであるとは、最初信じられなかった。
ミランダが知っているレイというのは、それこそ何があってもすぐに対処出来るように、油断なく構えている人物だったのだから。
また、その実力はケレベル公爵騎士団との模擬戦で全戦全勝しているというのを見れば明らかだ。
それだけに、こうして目の前にいる人物が無防備な姿を見せているのが、最初はちょっと信じられなかった。
何より、レイがこの屋敷にやって来てから、今まで何度も朝に起こす為にやって来はしたのだが、その時は毎朝決まって声を掛ければしっかりとした返答があったのだ。
だが、今日に限っては完全に寝惚けている状況で、そんなレイの様子がミランダの目には可愛らしく映る。
……もしこの世界にカメラの類があれば、それこそ今のレイを写真に撮って残しておきたいと思う程には。
だが、ミランダの役割はあくまでもレイを起こすということ。
出来ればこのままじっとレイの姿を見ていたかったが、今日は新年のパーティーが行われる日だ。
当然そのパーティーに参加するレイにも、準備をして貰う必要がある。
惜しい、本当に惜しいと思いながらも、ミランダはレイに声を掛ける。
「レイさん、起きて下さい。今日はパーティーの日ですから、色々と準備をする必要がありますよ。レイさん、聞いていますか?」
そんな風に声を掛けること、数分。
寝惚けていたレイの目に、次第に意思の光が宿ってくる。
「ミランダ? あー……朝か」
「はい。それにしても、今日は起きるのが遅かったですね。いつもは、起こしに来ればもう起きてるのに」
「昨日はちょっと遅かったからな」
その一言で、ミランダもレイが何を言ってるのかを理解する。
昨日のミランダは、レオダニスと一緒にパーティーを楽しめと言われ、それ以降はレイと全く会わなかった。
だが、それでも昨日何があったのかというのは、恐らくケレベル公爵邸の者であれば誰でも知っているだろう。
ましてや、ミランダもセトを可愛がっている一人だ。
そんなセトの眠っている厩舎にカセレス伯爵の手の者が襲撃を仕掛けたと聞けば、それは決して許せないと思ってしまう。
「昨日はセトちゃんの件で寝るのが遅くなったんですか?」
「それもあるし、他には偶然今日は眠りが深かったってのもあるんだと思う」
そう告げながら、レイはベッドの上から起き上がり、ミランダに朝の身支度をするように頼む。
もっとも、身支度はそこまで時間のかかるものではない。
特にレイの場合は男だということもあり、それこそ数分であっさりと済ませてしまうことが多かった。……もっとも、それはあくまでも普通の時であれば、の話だ。
今日は新年のパーティーとして、貴族が大勢集まる。
そのような場所にレイもまた出席する以上、当然のようにいつも通りという訳にはいかない。
いつも以上に丁寧に顔を洗い、歯磨きをし、髪をとかし……
「なぁ、ここまで丹念にやる必要があるのか?」
ようやく身支度が終わったのは、いつもよりかなり長く……二十分くらい経った後のことだった。
そのことが若干不満だったのか、そう尋ねるレイにミランダは笑みを浮かべ、自信満々に頷く。
「はい。必要です。というか、今の時点で出来るところはやっておかないと、いざ準備の本番になった時に大変ですよ?」
準備の本番という言葉にどこか矛盾したような思いを感じないでもなかったが、ここで何かを言っても恐らくは無意味だろうと判断し、それ以上は口にしない。
「そんなにか?」
「はい。幸いレイさんは髭とかが生えてないので、その辺りの手入れは必要ないでしょうけど……もしこれで髭の濃い人であれば、パーティーに参加する前にしっかりと髭を剃る必要が出てきますし」
「……なるほど」
ミランダの言葉に頷きつつ、レイは自分の顎に手を伸ばす。
その手に伝わってくる感触は、滑らかな皮膚の感触。
髭の一本も生えておらず、チリチリ、ザラザラといった感触はない。
普通なら十代半ばというレイの年齢では、多少髭が生えていてもおかしくはない。
いや、場合によってはかなり髭が濃い者すらいる。
しかし、レイは今のところ髭がどうこうといったことは一切なかった。
それこそ、エルジィンにやって来てから髭を剃ったことはない。
それは、ある意味でゼパイルの親心――微妙に違うが――のようなものなのだろう。
このエルジィンにおいて、髭を剃るのに使われるのは専用のナイフだ。
だが、当然それは日本にあったような鋭いカミソリの類でもなく、剃る者が下手であれば顎や頬、場合によっては喉にも傷がつく。
貴族の類であれば、専門の人員を用意することも出来るだろうが、普通はそうはいかないので、自分でやるしかない。
当然のことだが、首筋近くで刃を使うのだから、貴族にその役目を任されている者は信頼されている相手に限る。
貴族に仕えたばかりの相手にそのような役目を任せれば、場合によってはそれが暗殺者で、首筋を斬り裂かれて殺されることもあるのだから当然だろう。
そのような面倒なことをレイがしなくてもいいようにと、ゼパイルはレイに髭が生えないようにしたのかもしれない。
(だとすれば、一応感謝した方がいい……んだよな?)
何となくそんな風に思いつつ、レイは身支度を終えてから立ち上がる。
わざわざここまで身支度をした後で朝食を食べるというのは、今の状況を考えると色々と間違っているような気がしないでもない。
とはいえ、今の状況で何を言っても意味はない。
そんな風に思いつつ、レイは食堂に向かう。
その途中でも、多くの使用人達が忙しそうに働いており、今日がパーティーの日であるとレイに実感させる。
「本当に忙しそうだな。……ミランダはいいのか?」
「私も、レイさんの案内が終わったらそちらに回りますよ」
「……大変だな」
「ええ。もっとも、このパーティーは毎年のことです。それに、昨日はあれだけパーティーで楽しんだのですから、今日はそれだけ頑張らないといけませんしね」
「そういうものなのか?」
レイであれば、あれだけ大規模なパーティーをやって騒いだのだから、当然のように翌日はゆっくりしていたいと思う。
だが、ミランダの様子を見る限りでは、昨日パーティーをやったからこそ、今日は元気なようにも見える。
「そうですよ。レイさんは違うんですか?」
「俺なら、もう少しゆっくりしてたいと思うけどな」
「……まだ若いのに、随分と面倒臭がりなんですね」
若干呆れの混じった様子で告げてくるミランダに対し、レイはそうか? と首を傾げる。
そんなやり取りをしている間に、やがて食堂に到着した。
「え?」
だが、食堂の中に入ったレイは、その食堂に誰もいないのに気がつく。
いや、正確には食堂を担当しているメイドは――いつもより人数は少ないが――いるのだが、エレーナ、リベルテ、アルカディアといった面々がいなかったのだ。
「あれ? エレーナ達は?」
「お嬢様達はもう食事をすませて、パーティーの準備を行っています」
「あー……なるほど。俺が最後だった訳だ」
正確には、今日に限ってレイが寝坊したということなのだろう。
「これだと、部屋に朝食を運んで貰った方が良かったんじゃないのか?」
「どうでしょう? それも良かったかもしれませんが、そうなればそうなったで、また何か別の問題が生じていた可能性もありますけど」
「……そうか?」
ミランダと言葉を交わしつつも、こうしてもう食堂にやってきた以上は今から部屋に戻るのも面倒だということで、大人しく食堂で朝食を食べることにする。
用意されたのは、昨日のパーティーの残り……という訳ではなく、きちんと今朝作られた料理の数々。
柔らかなパンに、様々な具が入っているスープ、サラダ、ベーコンステーキ、干した果実……それ以外にも色々と料理はあるが、そのどれもがしっかりと手を加えられている料理だ。
「パーティーの日だってのに、朝食にここまで力を入れてもいいのか?」
「これくらいならそこまで大変でもありませんし、何より今日これからやる料理に対する腕慣らしといった意味もあるかと」
食堂のメイドが、レイの呟きにそう告げる。
ミランダはそんな食堂のメイドの隣で、笑みを浮かべつつ頷いていた。
「腕慣らし、ね。……まぁ、俺は美味い料理を食べられればそれでいいから、文句はないけど」
そう言いながらも、レイは恐らく料理長のゲオルギマはラーメンの研究が出来ないことを残念に思っているんだろうな、と考える。
ゲオルギマにとって、ラーメン……いや、正確には未知の料理というのは、かなり興味深い筈だった。
それを作れるのであれば、それこそ幾らでもそちらに意識を集中してもおかしくはない程に。
だが、それを今のゲオルギマの立場が許さない。
今のゲオルギマは、あくまでもケレベル公爵家に雇われている料理人でしかなく、つまりはその役目を全うする必要がある。
仕事がない時、もしくはそこまで忙しくない時であれば、ゲオルギマもある程度自由にすることは出来るのだろうが……新年のパーティーは、一年で最も忙しくなる日の一つだ。
そうである以上、パーティーの料理を優先するのが雇われた料理人として当然だろう。
(まぁ、今日一日は忙しくても、明日からはまた暇になってラーメンの研究とかが出来るんだ。それなら、問題はない……か?)
残っていたパンの最後の一口を食べ終わると、レイは朝食を終える。
実際にはまだ食べようと思えば食べられるのだが、そのような真似をすれば、それこそ幾らでも食べ続けたくなってしまう。
今日これから、レイもまたパーティーの準備をする必要がある以上、食事を続ける訳にはいかなかった。
そうして食事が終われば、ミランダが言っていたようにパーティーの準備となる。
こんな朝から、俺がやることがあるのか? というのがレイの純粋な感想だったが。
これが女であれば、それこそ化粧やら何やらで色々と準備が必要なのは分かるのだが、レイの場合はあくまでも男だ。
オーダーメイドで作って貰ったパーティー用のスーツも、既に出来上がっており微調整も終わっている。
そうである以上、それこそパーティーの始まる一時間前くらいに準備をすればいいのではないかと、どうしてもそう思ってしまう。
だが、ミランダにその辺りの事情を言えば、間違いなく突っ込まれる。
いや、突っ込まれるどころか、派手に怒られてしまうだろう。
それが分かっているだけに、レイは大人しくパーティーの準備に連れていかれるのだ。
(ドナドナだっけ?)
何となく、本当に何となくではあるが、そんな風に思いながらレイはミランダに連れていかれる。
そうしてやって来たのは、とある部屋。
中に入れば、そこでは何人かが化粧をされている。
「ここは……」
「今日のパーティーに参加する男の人の化粧をする為の部屋です。……すいません、レイさんの化粧をお願い出来ますか?」
何人かの男女が、部屋に入ってきたレイとミランダに視線を向ける。
(スタイリスト……だったか? そういうのをやる人って、エルジィンにもいたんだな)
驚くレイだったが、その間にも話は進んでいく。
「あら、ミランダじゃない。そちらの方を整えればいいのね?」
ミランダと顔見知りなのだろう女が、レイを見ながらそう告げる。
だが、フードを脱いでいるレイの顔を見て、女の顔には驚きが浮かぶ。
レイについての情報は当然知っていたので、そのことに驚きはしなかった。驚いたのは、レイの顔を見たからだ。
シミの類もなく、髭も生えていない。それでいて皮膚は滑らかで瑞々しい。
とてもではないが、深紅という異名の噂とは違った印象を受けてしまう。
そして同時に、女は自分の中でレイに化粧をしたいと思った。
化粧の乗りがいいレイだけに、是非自分の実力を発揮したいと、そう思うのはプロとして当然だったのだろう。
「ね、ミランダ。レイさんの化粧は私にやらせてくれる? 腕によりを掛けて、最高の出来に仕上げてみせるわ!」
「え? まぁ、レイさんには化粧をして貰うつもりで来たんだから、それはいいけど……でも、やりすぎないでよ?」
「誰に言ってるのよ。私に任せておきなさい」
プロとしての自信に満ちた笑みを浮かべ、そう告げる女の言葉に、レイは自分の意思が介在しないままに化粧をされることになるのだった。
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