第1825話
セイソール侯爵家の屋敷の中で、ガイスカは飲んでいたワインのグラスをテーブルの上に置くと、目の前にいる男……黒狼との仲介をした男に視線を向ける。
その目は、とてもではないが機嫌が良くはなく、この屋敷で働いている者であれば、自分から近づくようなことはないだろう。
仲介役の男は、そんなガイスカの前に立ってへりくだるような視線を向けていた。
もっともガイスカは気がついていなかったが、仲介役の男がそのような態度をとっているのは、あくまでも見せ掛けだけにすぎない。
仲介役の男にとって、ガイスカというのはそれで誤魔化せるだろうと、そう思われている相手なのだ。
そして、実際にそれは間違ってはいない。
「それで、今日起きたあの騒ぎはなんだ? 俺が雇うように命じたのは、あくまでも黒狼だけだった筈だ。……あんな下らない連中で、レイがどうにかなると思っているのか?」
レイを見下し、憎悪すらしているガイスカだったが、その力は認めなければならない。
それだけの力を、レイは今日の模擬戦で見せつけたのだから。
だが、それだけにレイに対する憎悪は増すばかりだった。
そんなレイが再び活躍し……それを行ったのが恐らく黒狼の仕業と思われると隣に立っているデオトレスに聞かされたガイスカは、こうして仲介役の男を呼び出して話を聞いていた。……いや、問い詰めていたという表現の方が相応しいだろう。
「それをあっしに聞かれましても、答えようがないんですけどね。今回の依頼は、既に黒狼に頼んでやす。そうなると、もうこっちで仕事に関わるようなことは出来やせんよ。それこそ、仕事に全く無意味な行動をとっているならまだしも、今回はそういう訳でもないと思いますが?」
「何故だ? レイの力は、今日の模擬戦で十分に理解した筈だ。であれば、もう様子見をする必要はないだろう。とっとと殺すように言え」
そう言ったガイスカに、仲介役の男は一瞬、ほんの一瞬だったが、軽蔑の視線を向ける。
もっとも、その視線に気がついたのはデオトレスだけで、ガイスカは一切気がついた様子がなかったが。
「さて、あっしにはその辺の理屈はちょっと分かりかねますが……結局、模擬戦は模擬戦でしかないと、そう判断したとしてもおかしくないと思いやすが」
「それでは、何の為にあのような茶番をわざわざすることになったのだ!」
不満も露わに、ガイスカは飲んでいたワインの入ったグラスを、テーブルの上に叩き付けるように置く。
普段であれば、それこそ仲介役の男に投げつけるといった真似をしていてもおかしくはなかったのだが、それをしなかったというのは多少なりとも我慢を覚えたからか、それとも単純に目の前の男にそのような真似をする価値もないからか。
「あれだけの根回しをしておいて、結局やったのはレイの名声を高めただけだと!?」
「落ち着いて下さい。別にあの模擬戦が無意味だったとは、あっしも思ってやせん。そもそもの話、あの模擬戦でレイの力を見極めたからこそ、その仕上げとしてああいう騒動を引き起こしたという可能性もあるんじゃないですかい?」
「……模擬戦の相手には、冒険者ども以外にも、貴族が雇っている騎士や兵士がいたのだぞ。それどころか、レイと同じ異名持ちすらいた。もっとも、レイを相手にろくに戦うことも出来ずに負けたところを見ると、異名持ちってのも正直本当かどうか怪しいがな」
心の底から不愉快そうに告げるガイスカに、仲介役の男は呆れの感情を表に出さないように注意する。
結局のところ、今日行われたのは模擬戦でしかないのだ。
本当の意味での真剣勝負という訳ではなかったし、お互いに舞台の外に影響が出るような攻撃は極力避けていた。
そんな簡単なことが分からないのかと、そんな風に思ってしまうのは止められなかった。
それでも何とか意思の力でそれを隠し、会話を続ける。
このような馬鹿とまともに会話するのは難しいのだが、これも仕事なのだと自分に言い聞かせながら。
「取りあえず、黒狼の行動に関しては納得して貰ったと。そう考えてもよろしいのでしょうか?」
このままガイスカと話していても、無駄に時間を浪費するだけだ。
そう判断した仲介役の男は、話を終える為にそう告げる。
とはいえ、そう簡単に自分の言うことを理解するとは、仲介役の男も思ってはいなかったのだが。
だが……そんな仲介役の男の予想とは裏腹に、ガイスカは面倒臭そうに手を振って、もう出て行けと示す。
てっきりもっと色々と言われるのかとばかり思っていた仲介役の男は、少しだけ意外に思いつつ……このままここにいて、またいらない難癖をつけられるのはごめんだと言わんばかりに、部屋を出ようとし……
「おい」
ガイスカの口から出た言葉に、その動きが止まる。
面倒臭そうな表情を浮かべているが、幸い仲介役の男は後ろを向いているのでガイスカから顔は見えない。
そんな仲介役の男の背中に、ガイスカは苛立ちのこもった声を掛ける。
「いいか? お前達には高い金を払ってるんだ。決してしくじるような真似はするなよ」
その声に、仲介役の男は振り向き、へりくだりながら頷く。
「勿論でさぁ」
仲介役の男の返事に満足したのか、ガイスカはそれ以上は何も言わず、さっさと消えろと態度で示す。
それはまさに、野良犬を追い払う時にやるような仕草だった。
実際、ガイスカにとっては仲介役の男など野良犬に等しい存在なのだろう。
仲介役の男は、それが分かっていても、やはり面白くないと思ってしまう。
それでも最後までガイスカにそれを悟らせなかったのは、仲介役の男がその手の技術を持っているというのもあるが……何より、ガイスカにとって仲介役の男は気にするべき相手ではなかったということなのだろう。
ふんっ、と。仲介役の男が消えた扉を見て、面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「愚物めが。全く役にたたん。これなら、もっと有能な奴を探した方がよかったのではないか?」
ガイスカはデオトレスを見ながら、不機嫌そうに呟く。
元々貴族でも何でもない人物を相手にするというだけでも不愉快だというのに、その人物が無能となれば面白い筈がない。
だが、不愉快そうにしているガイスカに、デオトレスは落ち着かせるように口を開く。
「坊ちゃん、少し落ち着こう。そもそも、今日レイに倒された連中は別に坊ちゃんの手の者って訳じゃないでしょう?」
「それは当然だろう。薬物中毒になるような奴が、俺の部下にいる筈がない」
先程と同じく鼻を鳴らすガイスカ。
だが、そこに含まれている感情は大きく違う。
先程は直接仲介役の男と会っていたので、その苛立ちが不満となって口に出た。
しかし……薬物中毒の者達が自分の部下であるという仮定は、苛立ちを覚えるのは間違いないが、まだ仮定ということもあって仲介役の男に感じている苛立ちよりはまだ小さい。
「でしょう? なら、今日の件で坊ちゃんがそこまで怒るようなことはないんじゃないですか」
「そう言われればそうだな。だが……今日のように無駄に戦力を使い捨てて、その結果レイと戦う時に戦力が足りないなんてことになったらどうする?」
「あー……坊ちゃん。一応今回の件は、レイの暗殺ということになっていた筈じゃ? 別に正面から戦う必要はないんだから、戦力が足りなくなるといったことは気にしなくてもいいと思うんですが」
元々、レイと正面から戦うとなると、レイに勝つのは難しい……いや、難しいという表現ですら希望的な観測によるものだ。
普通に考えて、レイをどうにか出来るだけの実力を持つ者がいないとまでは言わないが、そのような人物を探し出すのがそもそも難しい。
万が一そのような人物を見つけたとしても、雇えるかという問題もある。
そもそも、黒狼を雇うという時点で既に相当の無理をしており、新たに刺客を雇うといった真似は今のガイスカには到底出来ない。
(本当に黒狼で良かったのか? 同じ金を使うのであれば、それこそもっと有効な使い方があったんじゃないか?)
今回の一件で、しみじみとそんな風に感じてしまう。
もしこのままレイを殺すことが出来なければ、どうなるのか……それは、間違いなくガイスカにとっては致命的だ。
そもそも、この屋敷ですら報酬を集める為に使っているのだ。
そんな無理をして雇った黒狼が、実は役立たずではないのか。
ガイスカの考えは、強烈な不安をもたらす。
「……」
それなりにガイスカと付き合いの長いデオトレスは、当然現在のガイスカが何を考え、どのような不安を持っているのかが分かっている。分かっていながら……それでも、デオトレスはガイスカに向かって特に何か声を掛けるといった真似をしない。
デオトレスにとってみれば、ガイスカが情緒不安定になるのは寧ろ望むところだ。
それどころか、もっと不安にならないかとすら思ってしまう。
とはいえ、それを表に出すような真似は一切しないが。
「坊ちゃん、取りあえず落ち着きましょう。今は特に出来ることがない以上、黒狼を信じるしかないんですから」
内心を一切表情に出さずに告げるデオトレスの言葉に、ガイスカはまだ若干不満そうだったが、それでも自分の信頼する部下が言うのであれば、と半ば強引に気分を切り替える。
「ともあれ、模擬戦という馬鹿騒ぎはこれで終わった。……そうなると、次の舞台は新年を祝うパーティーだな」
「レイがどういう格好で出てくるか、楽しみじゃないですか?」
「それは否定しない。貴族の出る場に、冒険者風情が出てくるのだ。一体、どんな騒動を見せてくれるのか、非常に楽しみだよ」
デオトレスの言葉に、ガイスカは嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑いながら、ワインを口に運ぶのだった。
「えーと、こうか?」
「違う。足の運び方はこうだ。右足の方に意識を集中しすぎているぞ」
エレーナの指摘に、レイは右足だけではなく身体全体に意識を集中する。
……とはいえ、身体全体に意識を集中するということは、当然ながら顔にも意識を集中するということであり……つまり、自分のすぐ前にあるエレーナの顔を間近で見ることにもなる。
レイとエレーナは今まで何度かキスをしているが、それでもこうしてエレーナの美の女神の如き美貌が自分の顔のすぐ近くにあるのを見れば、どうしても照れというものが出てしまう。
意識しているレイとは違い、意識されているエレーナの方はそんなレイの思いに気がついた様子もなく、次々にレイに指示を出してくる。
ダンスというのは、パーティーでは当然行われるものだ。
そのパーティーに参加するのだから、当然のようにレイにもダンスをする機会はある筈だった。……もっとも、エレーナがレイとダンスをしたいと思っているのも、間違いのない事実なのだが。
エレーナにしてみれば、新年のパーティーでレイとダンスをするというのは色々な意味がある。
恋する乙女として、好きな相手と一緒にダンスをしたいと思うのは当然だろうし、レイと一緒にダンスをしていれば有象無象の男達に口説かれる心配もない。
同時に、可能であれば自分とレイは特別な関係なのだと、そう周囲に見せつけたいという思いもあった。
エレーナ程ではないにしろ、レイもまた顔立ちは整っている。
年齢的に十代半ばと、場合によっては年下は趣味ではないと思う者もいるかもしれないが、逆に年下に対して強い興味を持つ者もいる可能性があった。
そのような相手に対する牽制という意味では、エレーナの美貌は大きな力となる。
だからこそ、エレーナはレイとのダンスの特訓に力を入れていた。
食後の運動と呼ぶには激しすぎる運動だったが、それでもレイはエレーナとの急接近に戸惑いながらもダンスの練習を続ける。
そうなれば、元々運動神経の良いレイだ。
ダンスの技術は急速に上がっていき、次第にエレーナから注意される回数も減ってくる。
一体、どれだけの間ダンスの練習をしていたのか……休憩すらせずに続けていたダンスは、気がつけば誰が見てもダンスの初心者だとは思えない程に上手くなっていた。
音楽も何もなく、お互いのリズムだけが頼りのダンスではあったのだが、元々レイとエレーナは相性が良いこともあって、それでも全く何の問題もなくダンスを続けることが出来ていた。
激しく踊っているその様子は、もし何も知らない者が見れば、一瞬ここが舞踏会の場ではないかとすら思ってしまうだろう。
そのように踊りつつ、それでも二人の息は全く切れる様子はない。
いや、それどころか汗すら薄らと掻いているだけにすぎない。
そんな状態で、二人はいつまでも……アーラが迎えに来るまで、踊り続けるのだった。
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