第1794話

 ざわり、と。

 いや、それどころではない程に、その模擬戦を見ていた者達はざわめく。

 ケレベル公爵騎士団に所属している者にとって、フィルマ・テジールという騎士団長は最強の象徴だった。

 実際には個の力よりも軍勢を率いる方を得意としているのは間違いないが、それでも個としての戦いでも今まで決して誰にも負けたところは見たことがなかったのだから、それも当然だろう。

 もっとも、エンシェントドラゴンの魔石を継承するよりも前のエレーナとほぼ互角といった強さだったのを考えると、今のエレーナを相手にしては勝ち目はなく、実際に何度か一対一で模擬戦を行い、負けた経験もある。

 だが、フィルマという人物の負けるようなところなど、そう簡単に人に見せられるものではない。

 それこそ、今回のように人前で模擬戦をやるということはなかった。

 それだけに、周囲で様子を見ていた騎士達はただ唖然とするしかない。

 レイが強いというのは、最初の二人との模擬戦で十分理解している。

 だがそれでも、フィルマならレイに勝てると思っていたのだ。

 そんなショックを受けてざわめいている騎士達を見ながら、レイは自分の方に近づいてくるフィルマを見る。


(もっとも、これが全力という訳じゃない筈だ。間違いなく、向こうは何らかの奥の手を幾つも持っている筈だ)


 それはレイも同様に奥の手を使っていなかったからこその確信。

 結局のところ、この戦いはあくまでも模擬戦であって、双方共に本気を出していた訳ではない。

 いや、訓練という意味でなら本気を出したので、手抜きをしたという訳ではないのだが。


「さて……そんな訳で、俺と以前どこで戦ったのか、それを聞かせて欲しいんだけど?」


 突きつけていたデスサイズをフィルマから離し、尋ねるレイ。

 フィルマはそんなレイの言葉で、そう言えば……と、思い出す。

 模擬戦をやっている時は、本当にそちらだけに集中していた為に、アゾット商会の一件でレイと遭遇したことなど、すっかり忘れてしまったのだ。


「すまないが、その件についてはケレベル公爵に話してからになるが……それでも構わないか?」


 一応アゾット商会の時の一件は、上司……ケレベル公爵からの命令であった以上、フィルマだけの判断で言う訳にはいかない。

 ましてや、エレーナと接触したレイがどのような人物なのかを確認する為にそのような真似をしたというのは、出来れば部下の前で話したくはないだろう。

 当然ながら騎士の中にもエレーナのファンは多いので、寧ろ納得する者が多くなる可能性もあるのだが。

 そんなフィルマの様子を眺めていたレイは、少し考えた末にその言葉に頷く。

 出来ればこの場で色々と話を聞きたいという思いがない訳でもないのだが、考えてみれば、どうしても知りたいという情報でもない。

 可能なら知りたい、そんな程度の疑問なのだ。

 また、フィルマとの模擬戦が十分刺激的だったのも、レイが考えを変えた理由の一つだろう。


(出来れば、また模擬戦を頼みたいけど……騎士団長って地位を考えると、そう簡単に受けて貰えるようなことはない。なら、ここで少しでも恩を売っておいた方がいいだろうしな)


 ギルムにいる時は、それこそエレーナやヴィヘラといった十分にレイとやり合えるだけの模擬戦の相手がいた。

 だが、ケレベル公爵領にはレイとエレーナ、アーラだけで来ており、貴族派におけるエレーナの地位を考えると、迂闊に模擬戦の相手を頼むことも出来ない。

 エレーナ本人であれば、そんな周囲の様子を気にするようなことはなく……それどころか、レイとの模擬戦は望むところというのが、正直なところだろう。

 しかし、周囲の状況がそれを許さない。

 結果として、レイはエレーナ以外に模擬戦を出来る相手を見つけることになったのだ。


「分かった。じゃあ、後で教えてくれ」

「うむ。それで……どうする? 私達はまだ模擬戦をやっていくつもりだが、レイもまだやっていくか?」


 最初はレイ殿と呼んでいたフィルマだったが、いつの間にか呼び方がレイと呼び捨てになっていた。

 何故そうなったのかはレイにも理解出来なかったが、それでも堅苦しい呼び方をされるよりは今の方が良かった。


(普通に考えれば、模擬戦で俺に負けたからか?)


 お互いが幾つも奥の手を隠している状態での模擬戦ではあったが、それでも負けを認めてレイに対しての壁を一枚取り払った……といったところなのだろう。

 そう判断したレイだったが、若干普通なら自分に勝った相手だからこそ丁寧に接してくるのでは? と、そう思わないでもなかった。


「いや、遠慮しておくよ。今日は結構身体を動かせたし。それに……分かるだろ?」


 最後まで言わないレイだったが、フィルマはそんなレイの言葉を理解したのだろう。少し誤魔化すように、視線を逸らす。

 言うなれば、フィルマは最上のご馳走。

 それを食べたすぐ後に、適当なレトルト料理を食べるのかと言われても、はい分かりましたという気分にはならない。


(いやまぁ、最近はレトルト食品もかなり美味かったけど)


 日本にいる時に食べたレトルト食品……特に冷凍チャーハンの類は、母親が作るチャーハンより……場合によっては下手な店のチャーハンよりも美味いものもあった。

 お好み焼きやたこ焼きにも具がしっかりと入っており、夜店の屋台で売っているキャベツだけのお好み焼きや、たこの入っていないたこ焼きよりも確実に美味かった。


(あ、たこ焼きか。海鮮お好み焼きはゲオルギマも作れるし、たこ焼きを……あれ? たこ焼きってどうやって作るんだ? お好み焼きと同じ生地でいいのか? というか、たこ焼きを作る為には、たこ焼き用の鉄板が必要になる訳で……それにアネシスだとたこ焼きのタコをどうやって用意するのかってのもあるか)


 レイの頭の中がたこ焼き一色になりつつあったが、結果としてハードルが高いということで、すぐに諦める。

 ゲオルギマに言えば、料理のことなのである程度どうにかしてくれそうな気がしないでもなかったが、レイとしてはたこ焼きも食べたいが、純粋にラーメンを食べたいという思いの方が強い。

 手間が掛からないのであればまだしも、たこ焼きを説明して実際に作って貰うとなると、確実に手間が掛かる。


「レイ? どうした?」

「あー、いや。何でもない。ちょっと小腹が空いたなと思って」


 そう告げるレイの言葉にフィルマは納得したが、模擬戦を見ていたメイドは軽く驚きの表情を浮かべる。

 レイが今日の朝食にどれだけの料理を食べたのか、それは用意したメイドが一番知っている為だ。

 五人分の朝食を一人で食べたのだから、それがセトと遊んで少し模擬戦をしたくらいで……


(あら? そう考えると、そこまで不思議じゃないのかしら)


 セトやイエロと遊ぶ為に厩舎の中をかなり走り回ったし、模擬戦も最初の二戦はともかく、フィルマとの模擬戦ではメイドの目からは何がどうなっているのか分からない程に激しい戦いだった。

 ……というか、ケレベル公爵家に仕えるメイドとして、まさか模擬戦でフィルマが負けたというのはちょっと信じられなかったという思いもある。

 実際にはレイもフィルマも奥の手の類は使わずに戦っていたのだが、騎士達ですら理解出来ない者がいるようなことをただのメイドが理解出来る筈もない。

 とはいえ、それでレイを恐れるといったことにならなかったのは、エレーナとの関係を理解しているからだろう。


「小腹か。なら、厨房に行ってみるといい。料理人が何か適当につまめるものを作ってくれる筈だ」

「あー……厨房か。多分、今はまだそこまで……」


 厨房に行けば何か食べられるだろうと言うフィルマに、レイは言葉を濁す。

 ラーメンについて教えた以上、恐らく今頃は必死になってラーメンの試作を行っている筈だった。

 それも、レイが教えたのはきちんとしたレシピではなく、こういう料理だというふんわりとした内容でしかない。

 それだけに、スープ、麺、具と、それぞれに色々と試すべきことは多々あり、あれだけ料理に対して強い意欲を持っていたゲオルギマに、ちょっと何かを作ってくれと言っても、それが聞き入れられるとは到底思えない。

 だが、フィルマはラーメンについては知らない以上、不思議そうに首を傾げ……


「ゲオルギマは色々と忙しいかもしれないが、他の料理人に作って貰うというのはどうだ?」


 取りあえず、そう告げる。

 ゲオルギマが色々と気難しい性格をしているというのは、フィルマも十分理解している。

 だからこそ、ゲオルギマ以外の他の料理人に作って貰えばいいのでは? と、そう思っただけだったのだが、レイはその言葉に納得の表情を浮かべる。

 ゲオルギマの印象が強かったので、ケレベル公爵家の料理人と言われればゲオルギマという印象しかなかったが、実際にはゲオルギマの弟子とも呼ぶべき者達もいたのだ。

 ラーメンの説明をした時は当然他の料理人もいたのだが……それだけゲオルギマの印象が強かったと、そういうことなのだろう。


「なら、他の料理人に……」

「エレーナ様!?」


 他の料理人に頼んで、何か軽く作って貰う。

 そう言おうとしたレイの言葉を遮るように、騎士の一人が思わずといった様子で叫ぶ。

 客人たるレイの言葉を遮るというのは、明らかに不作法な行為だ。

 だが、エレーナが姿を現したというのは、それだけ多くの衝撃を騎士達に与えていた。

 レイもそこまで礼儀に拘る訳ではないので、その叫びを特に気にした様子も見せずに視線を訓練場の入り口に向ける。

 そこには確かにエレーナの姿があり、何人かのメイドとアーラ、そしてレイが厩舎に行く前に遭遇した貴族の令嬢と思しき姿もあった。


「ふむ、少し様子を見に来たのだが……どうやら、一番の見物は既に終わってしまったようだな」


 エレーナは訓練場の中に漂っていた雰囲気や、レイとフィルマの様子から楽しみにしていた模擬戦が終わってしまったのだろうと見当をつける。

 実際にその模擬戦は既に終わっているのは事実なのだが、騎士やメイド達は何故分かったのかといったようにエレーナに視線を向けていた。


「あら、そうなの。残念ですね。出来れば噂の深紅の力を自分の目で見てみたかったんですけど」


 エレーナと一緒に訓練場までやって来たテレスは、残念そうな表情を浮かべる。

 レイが異名持ちの冒険者だというのは当然知っていたのだが、テレスの目から見たレイは、到底そこまで強いようには思えない。

 これでテレスが一定以上の強さを持っているのであれば、レイの身のこなしからどれだけの強さを持っているのかというのは理解出来ただろう。

 だが、テレスは頭が良くても、本人の強さはそこまででもない。

 結果として、レイを見てもその強さをはっきりとは理解出来ないのだ。

 ……もっとも、見た目だけで強さを理解出来ないというのであれば、それこそエレーナだって見た目は公爵令嬢としか呼べないような姿をしているのだが。

 しかし、テレスがエレーナと会ったのはそれこそずっと前のことで、エレーナがどれだけ強いのかというのは、訓練等で見たこともある。

 それだけに、レイの強さも実際に自分の目で見てみたかったというのが、正直なところだろう。

 だが、それでも自分の見ている前で新たに模擬戦をやってみて欲しいと言わないのが、テレスの優れているところだろう。

 これがもし他の貴族……それこそ、何かを勘違いしているような貴族であれば、自分の前で模擬戦を行って見せろと命令する者すらいるだろう。

 そして結局レイの機嫌を損ね……それどころかエレーナの機嫌までをも損ねるようなことになる。

 そうならない為には、やはりテレスのような態度をとるのが最善の選択なのは間違いない。


「残念だけど、模擬戦はまた今度だな。フィルマとの模擬戦で充実した一時をすごせたし。それに、ちょっと腹も減ったし」

「ふむ、では私達と一緒にお茶でもどうだ?」

「……エレーナ様、ついさっきまで紅茶を飲んでいたと思うのですが」


 少しだけ呆れた様子でアーラが告げるが、エレーナは特に気にした様子はない。


「それでも別に構わないだろう? 結局ただ話していただけなのだから」

「それはそうですけどね」

「あら、私はそれでも構いませんよ。レイと話が出来るというだけで、色々と得をしたという感じがしますし。それにこうして寒い中を外に出たのだから、温かい紅茶も飲みたいし」


 笑みを浮かべながらテレスがそう告げれば、アーラもそれ以上反対するようなことはなく、レイと共に屋敷に戻って紅茶を楽しむことにするのだった。

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