第1776話

「……で? 結局レイは何も話を聞かないで戻ってきた、と?」


 夜、いつものようにマリーナの家の庭で食事をしている最中、ヴィヘラがレイに向けて呆れの視線を向ける。

 マリーナの精霊魔法によって、冬になったにも関わらず庭で食事をしていても快適なのだが……ヴィヘラに呆れの視線を向けられたレイは、そこまで快適ではない。


「そう言ってもな。俺の顔を見ただけで気絶するんだぞ? 一度だけならまだしも、二度、三度と続けば、俺がいる時点で情報を得られる訳がないと判断されてもしょうがないだろ」


 そう、意識を失って医務室にいた女は、医務室に入ってきたレイの顔を見た瞬間に気絶したのだ。

 それが一度だけであれば偶然として片付けることも出来ただろうが、二度、三度と連続して起こればそれを偶然で片付ける訳にはいかない。

 結果として、レイの相手をしていた警備兵から今日は帰るように言われ……自分の顔を見る度に気絶している女を見れば、レイもそれに文句を言う訳にもいかず、結局そのまま帰ってきたのだ。

 おまけに女が目を覚ますまで待っている必要があったので、結局今日は赤い布を巻いた者達を捕らえるということも殆ど出来ていない。


「レイ殿、一応聞いておきますが……明日、エレーナ様や私と一緒にケレベル公爵領に向かうのは間違いないですよね? その赤い布の件でもう少しここに残りたいとかは……」


 アーラが若干心配そうにレイに尋ねる。

 赤い布を巻いてる者達の件を、レイがかなり気にしているのを間近で見ているだけに、もしかしたら……と。そう思ってしまったのだろう。

 エレーナも、そんなレイの様子を気にしないようにしていながらも、横目でレイの様子を窺っていた。

 そんな視線を向けられているというのに気が付いていないレイは、躊躇ったり考えたりする様子も見せずに頷きを返す。


「ああ、そっちは問題ない。赤い布の件はちょっと気になるけど、エレーナの方が先約だったしな」


 レイの言葉に、エレーナは表情に出さないようにしながらも安堵する。

 レイと一緒にケレベル公爵領に戻るというのは、エレーナにとってもかなり楽しみにしていた出来事だったのだ。

 今回の件で上手くいけば、自分に求婚してくる相手がいなくなる……ことはないだろうが、間違いなく数は激減する筈だった。

 当然最初は、何らかの騒動が起きるのは間違いないだろう。

 ベスティア帝国の戦争に参加した者達であれば、レイに対して貴族の権威は全く通用しないと理解している。だが、戦争に参加しなかった者達にしてみれば、レイの話はあくまでも人伝でしかない。

 直接自分の目で見た訳ではないので、レイがそのような人物だと知っていても、自分は大丈夫だと無意味に思い込む者が多いのは確実で……いや、レイの評判を聞いてるからこそ、それを押さえつけることによって、貴族派の中で存在感を発揮したい、もしくはエレーナに良いところを見せたいと思う者が出てくるのは、ほぼ確実だ。


(もっとも、そのような者は自らの浅慮を後悔することになるだろうがな)


 魚がたっぷりと入った海鮮スープを味わいながら、エレーナは考える。


「そうですか、良かった。……ただ、聞いた私が言うのもなんですが、その赤い布の者達はどうするんですか? レイ殿がギルムにいない間、好き放題に暴れるようなことになるかもしれませんが」

「俺を目当てにして暴れているなら、俺がいなければ暴れても意味がないと考えるんじゃないか?」

「そうかしら」


 レイの言葉に、ワインを飲んでいたマリーナが言葉を挟む。

 その言葉を聞いたレイやアーラ、他の面々も視線を向けると、マリーナはワインの入ったグラスをテーブルの上に戻してから言葉を続ける。


「もしレイがいないのなら、それこそレイが戻ってくるよう、余計に騒ぎを大きくするんじゃない?」

「そうなったら、ヴィヘラ……頼めるか?」

「ええ、任せておいて。警備兵には知り合いも多いから、その手の情報も一足早く入ってくるし。もしかしたら、赤い布の連中の一件は、レイが戻ってくるまでに解決してるかもしれないわよ?」


 基本的に見回りの依頼を多くこなしていたヴィヘラだけに、当然のように警備兵と接することも多かった。

 ……もっとも、ヴィヘラの容姿や格好から絡まれることも珍しくなく、そちらで警備兵と親しかったというのもあるのだが。

 そんなヴィヘラだけに、レイがいない間に赤い布の者達の件を解決するというのは決して強がりでもなんでもない。

 それが出来るだけの実力はあるし、情報も警備兵の方から得られるとなれば、十分に可能なことだった。

 ヴィヘラの言葉を聞いたレイは、若干悔しそうな表情を浮かべる。

 赤い布という、ほぼ間違いなく自分を狙ってきたのだろう今回の件は、出来れば自分で解決したかったのだ。

 しかし、エレーナとの約束がある以上は、そのような真似も出来ない。

 そんなレイの顔を見ながら、全員が揃って食事をする最後の夜――あくまでも今年の話だが――はすぎていくのだった。






 翌朝、もう冬になっているだけあって、午前六時の鐘が鳴っても外はまだ暗い。

 そして冬だけに、ギルムから出ようとする者の数も少なくなっており、ギルムを出る手続きをしているのはここで合流したレイ、エレーナ、アーラ以外には、十人に満たない数だった。

 当然ながら警備兵も少し前までに比べると大分少なくなっており、人数が少ない割には手続きに若干時間が掛かる。


「レイ、今日はどのくらい進む予定だ?」

「どのくらいと言われてもな。取りあえず行けるところまでってところか」


 セトとイエロが戯れている光景を見ながら、レイはエレーナの問いに答える。

 当然ながらエレーナがこのような場所に、馬車に乗っている訳でもない状況でいれば目立つのだが、人数が少ない為にそこまで騒ぎになるようなことはなかった。


「レイ殿、一応こちらでも弁当の類は用意してきましたけど……」


 そう言うアーラだが、その手には特に荷物を持ってはいない。

 いや、パワー・アクスは背負っているのだが、それだけだ。

 そんなアーラを見て、レイは弁当の類はエレーナのマジックポーチの中にあるのだろうと判断する。


「なら、今日はそれを食べてもいいのかもな。もっとも、今は冬だからすぐに悪くなったりはしないだろうけど」


 マジックポーチはアイテムボックスと違って収納してあっても時間が流れる。

 だからこそ、夏であれば最悪その日のうちに悪くなってしまうのだが、今は冬である為にその心配はいらない。


「うむ。マリーナが作ってくれた料理だから、私はそれで構わない」

「ああ、マリーナの料理なのか」


 エレーナとアーラは、今日までマリーナの家に泊まっていた。

 だからこそ、マリーナはエレーナとアーラの為に弁当を作ったのだろう。

 そんな風に会話をしている間にもギルムを出る手続きは進んで行き、やがてレイ達も手続きを終える。

 レイやエレーナが街を出るということに警備兵は少しだけ驚いたが、レイがギルムを出るというのは今まで何度となく行ってきた。

 エレーナとアーラが一緒だったのに驚いたが、そういうこともあるのだろうと考え、手続きは特に問題が起こることもなくスムーズに終わる。

 そうしてギルムの外に出ると、レイはセト籠をミスティリングから取り出し、そのまま立ち去っていくのだった。






 レイがギルムを旅立ってから数時間……その部屋には重い沈黙が漂っている。


「それで、チェリッシュはどうなったのかな?」


 尋ねるカルレスの言葉に、一人の男が口を開く。


「警備兵の詰め所にいるから、赤い布の連中だと無理だろうな」

「そうだよね。あの連中、数だけは多いけど弱すぎるから。ね、じゃあ僕が行ってもいい?」


 小柄な男が鋭い短剣を手に、カルレスに尋ねる。

 だが、カルレスはそんな男の言葉に少し考え、やがて首を横にふる。


「いえ、ここがギルムでなければそれでも良かったでしょうが、ここはギルムです。警備兵はかなりの練度を誇っているので、止めておいた方がいいでしょう」

「ええええっ! ちょっと、それってもしかして、僕が警備兵なんかに負けるって思ってるってこと!?」

「そうは言いません。ですが、そもそも私達の目的は、あくまでも深紅の性格の調査です。ここで下手に警備兵に被害が出れば、これから色々とやりにくくなりますからね」


 そう言われれば、カルレスに反論は出来なくなる。

 小柄な男が納得した様子を見て、カルレスは別の男に尋ねる。


「それで、深紅は現在どうしています?」

「あー……今日の朝早くに、ギルムを出ていったらしい。姫将軍とそのお付きも一緒だったとか」


 そう聞かされても、カルレスは特に動じた様子もなく頷くだけだ。


「そうですか。深紅の今までの行動から考えると、恐らくモンスターを狩りに行ったんでしょうね。魔石を集める趣味があるとの情報もありますし」


 ここでレイがすぐ帰ってくるとカルレスが判断したのは、大荷物を持って移動しているという情報がなかった為だ。

 それと、貴族派の象徴たるエレーナが馬車も使わないでいたというのが大きい。

 当然レイのことを調べているカルレスは、セト籠のことも知っていた。

 だが、ケレベル公爵令嬢のエレーナが、まさか馬車も使わずにケレベル公爵領に戻ろうとしているとは思わなかったのだ。

 もしもその件が街中で噂になっているのであれば、カルレスもエレーナ達の行動の意味に気が付いたかもしれないが、残念ながらエレーナの帰郷は噂になっていなかった。

 一応エレーナはダスカーや知り合いの貴族といった者達にはその辺りの事情を説明していたのだが、カルレスにはその情報は届いていない。

 だからこそ、カルレスはレイ達がモンスターか何かを狩りに出掛けたと判断したのだ。

 カルレスにとっての不運は、レイ達があまりに常識外の存在で、そのような行動をとったということだろう。

 普通であれば、公爵令嬢という立場の者なら豪華な馬車で移動するのだから。

 そんな常識的な判断から、カルレスはレイとエレーナの行動を見逃し……最終的には、今夜になっても、翌日になっても明後日になっても、更にその先になってもレイとエレーナがギルムに戻ってくるようなことはなく、それでようやく異常に気が付くことになるのだが、それはもう少し先の話。

 まさかそのようなことになっているとは思わず、カルレスは今日にでもレイは戻ってくると考えていた。

 いや、レイがマジックテントを持っていることは知っているので、もしかしたら冬であっても泊まってくるという可能性も否定は出来なかったのだが。


「じゃあ、これからどうするんだ? 深紅のことを調べるにしても、肝心のレイがいないと……」


 男の一人がそう告げるが、カルレスは黙って首を横に振る。


「深紅のことを調べるにしても、別に本人がいなければならない訳ではありません。いえ、寧ろ客観的な意見を得ることが出来るというのは貴重です」

「となると、今まで地味に聞き込みをさせていた連中の方を活発に動かすのか?」

「はい。代わりに、赤い布の者達は動きを抑える……のは、難しいですか?」

「難しいだろうな。そもそも、あの連中は別に俺達が操ってる訳じゃなく、ただそういう風に動くようにちょっとした刺激を与えたにすぎない。それは、今回の一件を考えたカルレスが一番知ってるだろ?」


 その言葉に、カルレスは苦笑を浮かべる。

 正直なところ、赤い布の一件を考えたのがカルレスなのは間違いなかったが、まさかここまで上手くいくとは思ってもいなかったのだ。

 一人では犯罪行為を出来ないような者でも、皆で纏まって一緒に行動すればそれが出来る。

 そのような者達が集まったことにより、寧ろより過激な犯罪が行われていく。

 恐らくそうなるだろうと予想はしていたし、以前似たような手を使った時にも同じような結果が出た。

 だが……そんなカルレスにとっても、今回の一件は予想以上だった。


「そうですね。予想以上に血気盛んな者が多かったということでしょうか」

「これが普段のギルムであれば、カルレスの狙い通りになったのかもしれないけどな。やっぱり、増築工事で余計な連中が増えすぎたってことか」

「増築工事をしていなければ、赤い布という仲間の証を配ってもここまで上手く行かなかったのは間違いないでしょうね。これは、あくまでも今だからこそ出来たことなんですから」


 そう締めるカルレスの言葉に、それ以上は誰も不満を口にしない。

 もっとも不満を口にしないからといって、赤い布を巻いている者達をどうにかするつもりはないので、その辺りは警備兵に期待……というのがカルレス達の正直な気持ちだったが。

 また、赤い布の連中のおかげで警備兵が忙しくなれば、警備兵の詰め所に囚われているチェリッシュを助け出すなり……最悪、口封じもしやすくなるのだから。

 カルレスはそう判断し、大人しくレイの情報を集める為の手筈について指示を出すのだった。

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