第1618話
「……予想外だったよな。てっきり、もう何日かはあそこで足止めをくらうと思ってたんだけど」
街道を歩きながら、レイは視線を空に向ける。
そこに広がっているのは、夏らしい、抜けるような青空。
昨日は結局一度も雨が止むことなく降り続けていたのだが、それがまるで嘘のような、そんな天気だ。
とてもではないが、今のこの状況を予想出来るような者はいなかっただろう。
「そうだな。夏の天気は変わりやすいらしいが、まさにその通りの結果となった。……もっとも、こちらとしては、予想外に嬉しい出来事だったのだから文句を言う筋合いではないのだが」
セトを挟んでレイの隣を歩いているエレーナが、セトの背の上で日向ぼっこをして眠っているイエロを撫でながら、そう告げる。
実際、昨日の天気が嘘のようにからりと晴れたことに対し、レイに不満はない。
もっとも……街道は日本のようにしっかりとしたコンクリートで作られている訳ではない。
色々な場所にへこみがあり、昨日の雨で水たまりを作っている場所も多い。
また、千人近い集団である以上、当然全員が街道を歩いている訳ではなく、街道から少し外れた場所を歩いている者もいる。
そのような者達は、街道よりも更に水たまりの多い場所を歩く必要があった。
昨日作った服を着ている者も多く、娼婦の服装をしている者は一昨日に比べるとかなり減っていた。
「布と服はゾルゲー商会に頼まなくてもいいかもな」
「貰っておいたら? 服も布も、持っていて困る物じゃないでしょ?」
少し離れた位置を歩いていたマリーナが、レイの呟きにそう返す。
普通であれば、それこそ千人分の服やら布やらを貰っても、置く場所に困るだろう。
だが、レイの場合はミスティリングという存在がある。
千人分でも二千人分でも……それこそ、一万人分の布や服であっても、容易に収納出来るのだ。
ましてや、ミスティリングの中では時間の流れがない。
つまり、年月による劣化といったことも起こらないのだ。
そうである以上、将来的に何かの役に立つ可能性はあるのだから、貰えるのなら貰っておいた方がいいというマリーナの言葉に、レイは後ろを見る。
「こういうのが何回もあるってのは、正直なところ面白くないんだけどな」
数十人程度ならまだしも、千人近い人数――それも殆どが素人――を引き連れて移動するというのは、レイにとっても負担が大きい。
(ベスティア帝国との戦争の時はもっと大勢で移動したんだけどな。……ただ、あの時は皆が相応に腕が立ったし、体力もあったから楽だったんだよな)
移動速度に関しても、今よりも早かった。
そうである以上、どうしても今の移動速度は遅いと考えざるを得ない。
「まぁ、何十回、何百回とまではいかないでしょうけど、もう何回かくらいは同じことがある可能性はあるんじゃない?」
「あまり嬉しくないな」
今回は半ば成り行きでこの一行を引き連れているレイだったが、このような面倒なことを何度もやれと言われて、はいそうですかと頷ける筈もない。
出来ればこれを最後にして欲しいというのが、正直なところだった。
「私もレイに同感。巨人はそこそこ強かったけど、満足出来る程じゃなかったし。……出来れば、もっと強敵と戦えればいいんだけど」
続いて口を挟んできたのは、ヴィヘラ。
今回の依頼に関しては、元からレーブルリナ国という小国の闇の組織が相手だけに、そこまで強力な敵と戦える……とは、思ってもいなかった。
だが、それでももしかしたらという思いはあったのだろう。
そんなヴィヘラにとって、巨人との戦いは今回の依頼で唯一の収穫ではあったが……それでも、質を量で補ってようやくといったものだ。
とてもではないが、ヴィヘラが心から満足するような戦いは出来なかった。
「グルルルゥ!」
そのように話しつつ進んでいると、不意にセトが鳴き声を上げる。
視線の先には、何故か草原を走る猪の姿がある。
勿論街道の近くを猪が走ってはいけないという決まりない。ないのだが……それでも、普通なら猪は林や森といった場所を移動するのが一般的な筈だった。
何故なら、一定以上の実力を持っている者にとって、猪というのはそれこそ文字通りの意味で獲物でしかない。
その肉は、旅をしている者にとっては干し肉や焼き固めたパンのような保存性を優先した保存食より、圧倒的に美味なのだから。……中には壊滅的なまでに料理が下手な者もいるが。
それでも一般的に考えて、猪というのはこれ以上ない程の獲物だ。
それは現在のレイ達にとっても同様で……
「行け、セト」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは即座に獲物に向かって走り出す。
猪の方も、自分を追ってくるセトの存在に気が付いたのだろう。
数秒前より、更に速度を上げて走り出す。
……当然だろう。モンスターでも何でもない、ただの野生動物でしかない猪が、セトを前にしてどうにか出来る筈がない。
セトという存在と相対してしまえば、絶対に自分に生き残る道はないと、本能で悟ってしまったのだろう。
だが……セトに見つかってしまった時点で、猪にとっての命運はつきていた。
猪の走る速度は、大体時速五十km。
その上、猪の体重を考えれば、短距離ならともかく長距離をそれだけの速度で走り続けられる筈もない。
結果として、セトはあっさりとその猪に追いつき、前足の一撃で首の骨を折られて命の灯火を消す。
走っていた速度そのままで首の骨を折られた猪の身体は、その勢いのまま地面を削っていく。
だが、それもセトが再びその身体に追いつき、前足で押さえ込めばその動きは止まる。
「グルルルルゥ!」
猪を一撃で仕留めたことに、セトは嬉しそうに鳴くも……
『え?』
少し離れた場所にある林……猪が飛び出てきたその林から数人の男達が姿を現し、思わずといった様子で声を上げる。
それを街道の上から歩きながら眺めていたレイは、弓を持っていることから一瞬ジャーヤやロッシからの追っ手か? と警戒するも……その男達が着ている服装から、すぐに違うと判断した。
(猟師、か? 勿論猟師の格好をした追っ手という可能性はまだ否定出来ないけど)
一応、本当に一応だが、レイは男達に対する警戒を完全には解かない。
だが、それも男達がセトの咥えている猪――百kgを優に超えている――を見て唖然としているところから、ただの猟師ではないか? と強く思う。
「おい、ちょっとあの男達にお前達は誰なのかと聞いてきてくれ」
「分かりました!」
レジスタンスの男が、レイの言葉に即座にそう答えて去っていく。
それを見ながら、スーラに何か言っておかなくてもよかったのか? と思ったのだが……レジスタンスの男はそんなレイの様子に全く気が付いていない。
一応この一行を率いているのはレイなのだが、レジスタンスを指揮下に入れているという訳ではない。
そうである以上、本来ならスーラを通してレジスタンスに命令をするのが正しい。
だが、レジスタンスの男は何の違和感もないまま、レイの指示に従った。
そんな風に思っているレイの視線の先では、レジスタンスの男が猟師と思われる者達に近づいていく。
そして会話が交わしている間に、セトは猪を引きずりながらレイの下に戻ってきた。
「グルゥ!」
咥えていた猪を地面に置くと、どう? と視線を向けてくる。
レイはそんな猪をミスティリングに収納すると、セトの頭をしっかりと撫でてやった。
レイに褒められたことが嬉しかったのか、セトはレイに顔を擦りつける。
当然そのようなことをしている間にも歩き続けてはいるので、しっかりとセトを褒める……といった真似は出来ない。
それでもレイに褒められたセトは、それで十分満足したのだろう。
機嫌良さそうに喉を鳴らしながら、レイの隣を歩く。
セトが掴まえてきた猪の解体は、当然今やる訳ではない。
野営の時に、手の空いている者達でやるのだ。
……村育ちであればまだしも、街や都市といった人の多い場所で育ってきた女の中には、当然のように動物の解体といった行為をしたことがある者は少なく、中にはその際に吐く者すらいた。
だが、それでもレイは……そして上の立場にいる者達も、解体を嫌がる女達の作業を免除するようなことはなかった。
それは別に嫌がらせでも何でもなく、これからギルムに到着するまでの間のことを考えれば、全員がその手の作業を出来るようになっておく方がいいという狙いからのものだ。
レイの場合は普段からモンスターの解体をしているので、野生動物の解体についても特に嫌悪感がない。
だからこそ、他の者も大丈夫だろう……と、そのような楽観的な感覚からの行動だったが、中には血を見ただけで気絶するような者もおり、この先が面倒だという思いを抱いていたのだが。
元々レイの場合、日本にいた時から父親が飼っている鶏を解体するのを手伝っていたこともあって、その手の抵抗はあまりなかったのだが……
(そう言えば、漫画とかでも実験で蛙の解剖を怖がって出来ないとか、そういうのがあったよな)
そんな風に考えていると、やがてレジスタンスが猟師の男達を連れてレイの側にやってくる。
「レイさん、やっぱりこの人達はここから少し離れた場所にある村の猟師らしいです」
「そうか。出来れば寄りたいところだけど……少し離れたって、具体的にどれくらい離れている場所だ?」
猟師達は、レイの問い掛けで我に返る。
もっとも、それは別におかしな反応という訳でもない。
昨日の件で、粗末ではあるが普通の服を着ている者が多くなったが、それでも娼婦の衣装のままという者はまだそれなりにいる。
そのような女達を率いているという時点で、この集団は非常に目を引く者達だった。
おまけにそれを率いているのがレイのような背の小さい相手であり、一見すればレイよりも明らかに屈強なレジスタンスの男ですら、レイを全く侮った様子はない。
そしてレイの側には自分達が追っていた――正確には逃がした――猪をあっさりと倒したグリフォンの姿があり、おまけに初めて見るような美女が三人もいる。
どこから気にすればいいのか、全く分からない。そんな集団を前にしたのだから、猟師達が戸惑っても当然だった。
「コホン」
そんな猟師達の気持ちが分かるレジスタンスの男は、小さく咳払いして猟師達に注意を促す。
咳払いでようやく我に返った猟師の一人が、レイの言葉に戸惑ったように口を開く。
「ここからだと、数時間くらいの場所だな」
「街道沿いか? だったら助かるけど」
「いや、違う。うちの村は街道から離れた場所だ」
普通であれば、村を作る時は人が通りやすい場所に作る。
それは街道の側に村があれば、そこを通る人が寄っては金を落としていくから。
また、商人達もそのような場所であれば山奥にあるような村と違って抵抗がない。
(なのに、何でわざわざ街道沿いじゃない場所に村を作るんだ? 何か訳ありなんだろうけど。そうなると、村には行かない方がいいか。けど、買い物が出来るのなら少しでも物資は仕入れておきたいしな)
まだ午前中である以上、昨日も雨で休んだ影響もあって、わざわざここから数時間も掛けて街道から離れた場所にある村に行くのは無駄に時間が掛かるだけだ。
だが、物資の補給はしたい。
そう考えたレイが出した結論は……
「その村に、俺だけが行って物資の補給を頼みたいんだけど、構わないか? ……本来なら馬とかも欲しいところだけど、俺だけだと無理だろうから、布とか服とか食料、後は飼い葉や売ってもいい馬車があると助かる」
「あ、ああ。それは構わないと思うが……お前だけ? それは……」
猟師の一人が、レイの側でビューネに撫でられているセトを見る。
それを見れば、レイがどのようにして猟師達の村に行こうとしているのかは、明らかだった為だ。
そんな猟師達に対し、レイは頷きを返す。
「ああ、セトに乗って行く。……向こうでお前達から聞いてきたって言えば、信用して貰えるか?」
レイも、セトに乗って自分だけでその村に行くという真似をすれば、怪しまれるのは明らかだと理解出来た。
「気を遣ってくれて助かる。俺はアルバドだ。俺から話を聞いたと言えば、向こうでも邪険にはされない筈だ」
猟師達も、レイの気遣いに気が付いたのか、そう言って頭を下げてくる。
レイはそんな猟師の様子に、少しだけ驚く。
自分の力を間近で見たのならともかく、猟師達はそうではない。
そうである以上、侮られてもおかしくはなかったのだが……と。
……もっとも、グリフォンを従えているのを見て、それでも侮るという行為をするのは、余程の強者か、事態を理解出来ていない馬鹿か……といったところだろうが。
そんなやり取りをしてから、レイはアルバドから聞いた方に向かってセトと共に飛び立つのだった。
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