命喰らう森
第1351話
スピール商会の騒動が起きてから一月ほどが経ち、季節は完全に春になっていた。
いや、スピール商会の騒動が起きた時も季節は既に春だったのだが、まだ朝方は冷え込んでいたりしたのだ。
だが、今ではそんなことはない。
春らしい陽気を楽しめる、そんな春の季節。
(日本にいる時なら、桜とかで花見をするんだけどな)
マリーナの家の中庭で、寝転がっているセトを枕にしながらレイは軽い眠気に襲われながら視線だけで周囲を見回す。
庭に一応何本かの木も生えているのだが、そこには当然のように桜はない。
そもそも、レイはこのエルジィンにやってきてから数年が経つが、桜の木を見たことはなかった。
日本で見たことのある木が生えているのは、色々と見たことがある。だからこそ桜の木もあってもいいのではないかと……そう思っているのだが、残念ながらまだ見つけることが出来ていない。
もっとも、日本にある桜というのは品種改良を重ねた桜だ。
もしこのエルジィンに桜があったとしても、レイが知っている桜とは大きく違っているだろう。
日本にいる時は、丁度今くらいの季節……感覚的には四月末から五月上旬辺りが、レイのいた地域では桜が咲き始める季節だった。
だからこそ、レイは今こうして桜を見たいと思っているのだろうが。
レイにとって、桜というのは卒業式でも入学式でもなく……下手をすれば五月の連休に見頃を迎えるという印象の方が強い。
(花見か。……それが無理でも、弁当を持って紅蓮の翼の面子でピクニックにでも……)
そんな風に考えながら、レイは半ば眠っている状態から完全な睡眠に落ちていく。
「あらあら、セトを枕にするとああも気持ちよく眠れるのかしらね」
そんなレイの様子を見ていたマリーナが、微笑ましそうに呟く。
いつものようにレイのミスティリングを使って庭に持ち出したテーブルの上には、紅茶がある。
「この日射しだもの。レイがああなっても仕方がないでしょ」
こちらはハーブティーを飲みながら、ヴィヘラが呟く。
「ん」
テーブルの上に置いてあるサンドイッチに手を伸ばしながら、ビューネが同意の声を上げる。
スピール商会の一件が終わった後、紅蓮の翼は幾つか依頼を受けたものの、そこまで大変な依頼ではなかった。
春になって姿を現したゴブリンの群れの討伐や、ハーピーの群れの討伐、食堂に頼まれたファングボアの肉を調達する依頼……といったところか。
ランクBパーティらしい依頼とは言えないのだが、パーティを組んだ途端にあのような騒動に巻き込まれたこともあって、少しゆっくりしたいという考えからの行動だった。
「ふふっ、ああいうのを見ると一緒に昼寝を楽しみたくなるわね」
マリーナが空に視線を向け、呟く。
少し雲があり、時々日射しを陰らせはするのだが……それでも春の太陽は地上に柔らかな光をもたらす。
これが夏であれば、非常に自己主張の強い太陽の光になるのだろう。
春だからこその太陽と言ってもいい。
「こうして何もない日々っていうのも、悪いものじゃないわね」
マリーナの言葉に、レイの方を見ながらヴィヘラが呟く。
そんなヴィヘラの言葉を聞き、マリーナは心底意外そうな視線を向けた。
当然だろう。マリーナも、ヴィヘラが戦闘を好む……食欲、睡眠欲、性欲と呼ばれる三大欲求の他に、戦闘欲とでも言うべきものがあるのは知っている。
それだけに、ヴィヘラの口から今のような言葉が出て来たというのは驚きだったのだろう。
それはマリーナだけではなく、ビューネもまた同様だった。
ヴィヘラの口から出た言葉に、サンドイッチを掴もうと伸ばされていた手が止まっている。
そんな二人の様子を見て、ヴィヘラは少しだけ不満そうな表情を浮かべて口を開く。
「何よ、別に私だって、戦い以外のことにも十分興味はあるんだけど?」
「普段のヴィヘラを見ていれば、そんな風には思えないけどね」
「ん」
マリーナの言葉に、ビューネも同意するように頷く。
それを見たヴィヘラは、再び不満そうな表情を浮かべるも、これ以上自分が何を言っても効果がないと分かっているのだろう。大人しくハーブティーの入ったカップに口を付ける。
そんなヴィヘラの様子に、マリーナは再び笑みを浮かべる。
そうして、和やかな時間が流れていたマリーナの家だったのだが……
「すみません、マリーナ様はいらっしゃいますか!」
そんな切羽詰まった声が響き、優雅な一時は終わりを告げるのだった。
時は戻り、マリーナの屋敷に無粋な声が響く数日前……ギルムへ続く街道からは大きく外れた場所を歩いている冒険者パーティの姿があった。
人数は五人と、一つのパーティとしてはそれなりに数が多いのだが、戦士が二人、弓術士が二人、盗賊が一人と、非常にバランスが取れているパーティ。
ランクDパーティとして、新人という立場から抜け出てギルムで一旗上げようとしていた、春という時季にはよくあるパーティ。
自分達ならギルムでもすぐに頭角を現せると、パーティリーダーの男がそう理解していたパーティは、ギルムに続く街道をそのまま進むのではなく、少し街道から外れることを思いつく。
ここが辺境だと知っているパーティの何人かは、そんなパーティリーダーを止めようとするが……今まで自分達が活動してきた村では、そんなパーティリーダーの思いつきで多くの幸運を勝ち取ってきた。
それを自覚しているからこそ、パーティリーダーは仲間の意見に首を横に振る。
「馬鹿言ってんなよ。このまま皆と同じ行動をしていて、それで俺達がギルムで成り上がれると思ってるのか?」
「それは分かってるけど、考え直してよダグザ。街道ってのは安全だからこそ街道なんだよ? そこから外れれば、当然モンスターに襲われるよ」
「ソクナンの言う通りよ。ここが普通の場所ならダグザが言う通り、少しくらい危険を冒しても何とかなると思うけど……ここは辺境なんだから、出てくるモンスターは今まで私達が戦っていた相手とは違うんだから」
戦士の男と弓術士の女が、パーティリーダーのダグザに何とか思い留まらせるように告げる。
だが、ダグザはそんな仲間の話を聞く様子はない。
今まで全てが自分の思い通りに出来たのだから、今回も大丈夫だろうと思ってのことだ。
人はそれを自信ではなく慢心と呼ぶのだが、得てしてそういう立場に陥った者はそれを自覚することが出来ない。
また、慎重派二人以外のメンバーも、そんなダグザの意見に同意し、結局街道を逸れた位置を進むことになった。
……もっとも、ダグザもここが辺境であるというのは理解している。
だが、それでも自分達であればやれると、そう思ってしまったのだ。
このパーティにとって不運だったのは、丁度この街道を歩いているのが、ダグザ達のパーティだけだったことだろう。
もしここに辺境について旅慣れた商人や、ましてやギルムで活動している冒険者がいれば、間違いなくダグザ達を止めた筈だった。
それは親切心からだけの話ではない。
もしダグザ達のパーティがモンスターに襲われ、それで街道に逃げてくればどうなるか……間違いなく他の者達を巻き込むことになる。
ましてや、街道にいるのは戦闘力を持った者だけではない。
護衛を雇っている者が殆どだが、それだって自分達から進んで戦闘をしようとは思わないし、諸事情からその護衛すら雇っていない者もいる。
そのような場所に、モンスターに追われた者達……それも興奮しているモンスターを引き連れてくればどうなるか。
それは、考えるまでもないだろう。
戦闘力のない者はろくに抵抗も出来ないままにモンスターの餌食になり、戦闘力があっても無駄に体力や武器を消耗することになる。
マジックアイテムの類であればまだしも、普通の武器は使えば刃こぼれをしたり、血や脂によって斬れ味が落ちたりする。
そうなれば当然手入れが必要になり、余計な出費となってしまう。
ましてや、依頼を終えて体力や武器を消耗している冒険者がそんな場面に居合わせようものなら、死という終わりが待っている可能性もあった。
そして、当然そんな災厄に皆を巻き込んだ者がただで済む筈がなく、下手をすれば警備隊や騎士団に捕まって罰を受ける可能性もある。
……ダグザを含め、楽観的な者達はそんなところにまでは全く考えが及んでいなかった。
「ほら、とにかく行くぞ! パーティリーダーの俺が行くって言ってるんだから、大丈夫だって!」
そう告げるダグザに、他の面々も半ば惰性で頷く。
実際、これまでダグザの言う通りにして成功してきたから、今こうしてギルムに向かえているのだ。
今までの経験を考えれば、それは決して間違っている訳ではない。
そうして街道を外れたダグザ達だったが、まだ昼間……それも街道からそう離れていないということもあり、遭遇するのはゴブリン程度だ。
ダグザ達にとって、数十匹の集団であればまだしも、数匹のゴブリンはそれこそ敵でもない。
そうしてゴブリンを倒しながら、ダグザ達は進む。
「ふんっ、辺境って言ってたから、どんなに強力な敵が現れるのかと思ってたけど、ゴブリン程度か。もう少し高ランクの……ギルムに到着した時に一目置かれるようなモンスターが出てくれねえかな」
ゴブリンから魔石と討伐証明部位を剥ぎ取り、そのまま死体の四肢と首を切断して適当に放り投げながら、ダグザが呟く。
尚、これは別に死体を壊して遊んでいるといったことではなく、アンデッドモンスター対策だ。
こうしておけば、スケルトンやゾンビにはなりにくく、もしなったとしても手足がない状態になる。
また、四肢と首という適度な大きさにモンスターや動物がそれらを持って帰って自分達の餌として食べる可能性もあった。
……もっとも、ゴブリンの肉を好んで食うような者はいないのだが。
ともあれ、ゴブリンを倒しながら進んでいったダグザ達だったが、街道を離れて歩いていたこともあり、日が暮れかけてもギルムに到着することはなかった。
「ちっ、しょうがねえか。日が暮れてきたし、どこか適当な場所を見つけたら今日は野宿だ! 明日にはギルムに行くから、そのつもりでな!」
ダグザが叫び、少し休憩はしていたものの歩き続けだった他の面々もその言葉に安堵の息を吐く。
そうしてダグザが宣言してから二十分も経たない内に、一行は深い森を見つける。
「森の中に入って野営をするのは、モンスターが怖いんだけど……」
ダグザが木々に向かって進むのを見て、パーティの中の一人が呟く。
自分達が以前活動していた場所でも、夜の森というのはモンスターや野生動物、盗賊といった者達が襲ってくることがあった。
ましてや、今自分達がいるこの場所は辺境なのだ。
そんな辺境の森で野営をするのは絶対にごめんだと、そう告げていた。
他の者達も同様の意見なのだろう。ダグザに向かってそれぞれの意見を主張する。
パーティリーダーであっても、他の者達の意見を無視出来る訳ではない。
結局ダグザは皆の意見に従い、森から少し離れた場所での野営となった。
何だかんだと森から完全に離れなかったのは、やはり枯れ木や食材の宝庫だからだろう。
そうして皆で野営の準備をしながら、早速森の中に食材を探しに入る。
「ま、春だし、山菜とか果物とかは普通にあるだろ。他にもこの森の規模なら動物は普通にいるのは間違いないな」
そう述べたダグザだったが……森の中に入って十分が経っても動物の一匹も見つけることは出来ない。
山菜の類も何故か生えてなく、あるのは木になっている果実だけ。
一応鳥の鳴き声は聞こえるのだが、その鳥も小鳥と呼ぶのが相応しい程度の大きさだ。
「……どうなってるんだろうね、これ」
ソクナンと呼ばれた男が、不思議そうに周囲の様子を見る。
「そう、ね。多分だけど強力なモンスターがこの森の中にいたんだと思うわ。で、そのモンスターに恐れを成して他のモンスターや動物は逃げ出した……どう?」
女弓術士の言葉に、ソクナンは難しそうな顔をして首を横に振る。
「スレーシャの言いたいことも分かるけど、今までそんなことは聞いたことがないよ。それに、そんなに強力なモンスターがギルムの近くにいるのなら、それこそギルムから冒険者がくるんじゃないかな?」
「だから、ギルムから冒険者がやってきて、ここにいたモンスターを倒したんじゃないの?」
「……うーん、どうだろ。今のギルムにはグリフォンを従魔にしている深紅がいるんだし、他にも異名持ちやランクA冒険者はいる。そう考えれば、考えられないわけじゃないけど」
そんな二人の話を聞いていたダグザは、面倒臭くなったのか頭を掻きながら口を開く。
「しょうがねえ。一旦戻るぞ。一応果実とか木の実は手に入れたんだから、残りは干し肉で我慢しようぜ」
ダグザにそう言われると、ソクナンとスレーシャの二人もそれ以上は何も言わず、森から出ていく。
……この時、もう少しこの件について深く考えていれば。
スレーシャは後にそのことを深く後悔することになるのだった。
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