第1345話

「いらっしゃいませ」


 宿屋の中に入ると、レイ達はそんな声に迎えられる。

 尚、当然のことだがセトは宿の中に入ることが出来ないので、宿の外でいつものように寝転がっている。

 ただし、レイ達が来たと知ったプレシャス達が逃げ出さないようにと、見張る役目もあるのだが。


「……いないな」


 店員の声を聞き流しながら、レイは宿の中を一瞥する。

 一階は食堂、二階と三階が宿という典型的な作りだったが、店の中に入った場所から見る限りはレイが探している人物はどこにもいない。

 待ち合わせの為にか用意されているソファの上にも、微かに見える食堂の中にも、そして上に続く階段にも……どこにも、レイの探している人物の姿はない。


「お客様、泊まるのでなければ遠慮して欲しいのですが」


 宿の中を見回すレイに、店員がそう声を掛けてくる。

 自分が声を掛けている相手が誰なのかは、当然知っているだろう。

 高級宿の店員だけあって、ギルムについての情報収集を怠るような真似はしていない筈だ。

 勿論ドラゴンローブのフードを被っているレイを見ても、それをレイだと気が付ける者は少ない。

 だが、レイと一緒にいるのが踊り子や娼婦の如き薄衣を身に纏い、手甲と足甲と身につけている絶世の美女ともなれば、レイを特定出来ない筈がない。

 ……尚、ビューネは外見はそれなりに整っているが、それでもヴィヘラのような美女に比べればどうしても印象の強さは劣ってしまう。

 自分をレイだと知って、それでもこうして態度を変えないというのは、レイに好感を抱かせるには十分だった。


「プレシャス、という商人が泊まっているよな。連絡を取って欲しい」


 そう告げるレイの言葉に、店員は一瞬どうしたらいいか迷う。

 もしこれが、泊まっているのか? といった具合に聞いて来たのであれば、宿の店員としてそのようなことを答えることは出来ませんと答えただろう。

 この宿は警備に力を入れており、色々と訳ありの人物が泊まることも多い。

 だからこそ、疑問を抱いて聞いてきたのであれば、店員はそう答えた筈だった。

 だが、今のレイは違う。

 明らかにここにプレシャスがいるというのを承知した上で尋ねてきたのだ。

 つまり、元々約束をしていたから、こうして尋ねてきたのではないか、と。

 セキュリティを売りにしている宿だけに、当然誰かが前もって尋ねてくるのであれば、宿にそう伝えておくのがルールだ。

 だが、当然のように誰もがルールを守る筈もなく、前もって聞かされていない客がくるというのはそう珍しい話ではない。

 ましてや、それがレイのように有名人であれば、それを承知の上で説明するのを面倒臭がって宿に知らせないというのは有り得る話だった。

 ……実際には、当然レイがプレシャスと約束をしていた訳ではないのだが。

 ただ、セトがここに案内してきたからこそ、ここにプレシャスが……正確にはケーナに白金貨を渡した相手がいる筈だと確信していたのは事実だった。

 そして……宿の店員は頭の中で素早く考えを纏めると、やがて深々と一礼する。


「すみませんが、プレシャス様に伺って参ります。もう暫くここでお待ち頂けるでしょうか?」

「……出来ればすぐに通して欲しいんだが」


 少しだけ不満そうなレイの様子に、店員は再び一礼する。


「申し訳ありません、この宿のルールですので」

「しょうがない、か。ああ、分かった。そうしてくれ」


 そう呟くと、店員は近くにいた別の店員と短く言葉を交わすと二階に上がっていく。

 それを見送ったレイは、ヴィヘラとビューネの二人と共に、カウンターから少し離れた場所にあるソファに座る。


「いいの? 私達が来たと知ったら、逃げるかもしれないわよ?」

「どうだろうな。トリスを……正確にはトリスの護衛を襲った件に俺達が関わっているとは、向こうも思わない筈だ。なら、その辺の心配はいらないと思うけど。それに、逃げても……」


 一旦言葉を切ったレイの視線が向けられたのは、外に続く扉。

 正確には、その先にいるだろうセトだった。

 嗅覚を含め五感が非常に鋭いセトにとって、宿から誰かがこっそり逃げ出そうとしても、見つけるのは難しい話ではない。

 もしそうなれば、プレシャスにとっては疚しいところがあるから逃げたということになり、それは致命的ですらある。

 レイ達がここに来たというのをプレシャスが知れば、むざむざそのような真似をするとは思えなかった。


「セトがいるからな」


 完全な信頼を込め、レイが口に出す。

 それを聞いていたヴィヘラとビューネは、レイがどれ程セトのことを信頼しているのかを改めて感じ、異論を口にすることは出来ない。

 そして周囲は沈黙に包まれる。

 勿論沈黙しているのはレイ達だけであり、それ以外からは色々と声が聞こえてきているのだが。

 食堂で食事をしている者もいるのか、そちらからはある程度騒がしい声が聞こえてくるし、宿の外からは通行人達の話し声といった者も聞こえてくる。

 また、カウンターの側には二mを超え、身体を筋肉で覆っている二人の用心棒の姿もある。


(見かけだけ、だな)


 それが用心棒を見たレイの感想だったが。

 いわゆる、戦いの中で身につけた筋肉ではなく、相手に見せつける為の筋肉。

 レイの感想で言えば、ボディビルダーの筋肉といったところか。

 普通に街中で暮らしている一般人に比べれば力はあるのだろうが、ある程度以上の強さを持つ相手にとっては敵ではない存在。

 それは逆に言えば一定以下の能力しか持たない相手に対する抑止力としては十分な効果を発揮するという意味でもある。

 その用心棒二人も、レイ達を前にすれば自分達はどう足掻いても勝てないというのは理解しているのだろう。

 最初にレイがプレシャスに会いたいと言った時は酷く緊張していた。

 用心棒である以上、もし雇い主の宿の従業員がレイ達を排除するように言った場合、真っ先に逃げる訳にはいかない。

 だからこそ、宿の従業員が大人しくレイ達の言葉を聞いてくれたことは非常にありがたいことだった。

 ……そんなレイに視線を向けられた二人の用心棒は、言葉には出さないが落ち着かない様子で沈黙を守る。

 自分達ではどう足掻いても勝ち目のない相手に、こうもじっくりと見られるのは気分的にいいものではなかった。

 用心棒二人にとって緊張を強いられる時間は、先程二階に上がっていった宿の従業員が戻ってくるまで続いた。

 だからこそ、階段を下りてくる足音を聞いた用心棒の二人は、表情には出さないが心の底から安心する。


「お待たせしました。プレシャス様がお会いになりますので、どうぞこちらへ」


 従業員の口から出た言葉に、やはり逃げなかったかとレイは納得した様子を見せる。

 もしかしたら……本当にもしかしたら逃げるかもしれないとはおもっていたのだが、やはりここにいたって逃げることは自分にとってマイナスにしかならないと、そう判断したのだろう。


「ああ、じゃあ……行くか」

「そうね」

「ん」


 レイの言葉にヴィヘラとビューネは頷き、宿の従業員に従って階段を上っていく。

 ギルムの中でも高級な宿だけあり、その内装はかなり落ち着いた……上品と表現するのに相応しい代物だった。

 最初は無意味に豪華な飾り付けをしているのかとも思ったレイだったが、そこはいい意味で予想が外れたと言うべきだろう。

 もっとも、レイが泊まっている夕暮れの小麦亭もギルムの中では高級宿として知られている。

 その夕暮れの小麦亭も、内装は落ち着く感じではあっても派手という訳でもない。

 勿論高級宿の全てがそのようなものではなく、中にはそのような派手な宿もあるのだが。

 その辺りは、利用者の趣味に合わせてのものなのだろう。

 そうして二階に上がったレイ達が案内されたのは、階段からある程度離れた場所にある部屋だった。


「失礼します。プレシャス様。お客様をお連れしました」

「ああ、入って下さい」


 その言葉に、宿の従業員が扉を開け……そのまま廊下で待機する。

 自分の役目は、あくまでもここまでと。そういうことなのだろう。

 それを察したレイ達も、それ以上は特に何も言わずに部屋の中に入る。

 夕暮れの小麦亭でレイが使っている部屋に比べると、二倍……いや、三倍近い広さの部屋。


(けど、マジックアイテムの充実度って意味だと夕暮れの小麦亭には及ばないな)


 部屋は広いが、マジックアイテムの類はそこまで多くはない。

 この辺り、宿泊客に少しでも快適にすごして貰おうと考えている夕暮れの小麦亭との違いだろう。


「よく私のいる宿が分かりましたね」

「こっちには色々と伝手があるからな」


 レイはプレシャスに答えながら、部屋の中を見回す。

 部屋は広いが、そこにあるのはベッドやタンス、簡単な台所といった風に、特に普通の宿と変わる様子はない。

 唯一、プレシャスの座っている執務机にも使えそうな大きな机と、ソファが幾つもある辺りがレイの泊まっている夕暮れの小麦亭とは違うところか。

 そして護衛が五人程、プレシャスの側にいる。

 その中の一人が、以前スラム街で見た男で……ケーナを雇ってトリスを襲わせた人物だろうと思われている相手。


(まさか、本当に逃げてなかったとはな)


 色々と考えてはいたのだが、逃げずにここにいたというのは少しだけ予想外だった。


「ほう、是非その伝手というのを教えて欲しいところです。何しろ、私はギルムではそれ程の伝手がなく……色々と苦労していますし。まぁ、それはそれとして。今日は何の御用でしょうか? 約束もなしにいきなり来られたので、少し驚きましたよ」


 早速本題に入って尋ねてくるプレシャスの言葉に、レイは頷きを返す。


「そうだな。俺の方も色々と忙しい。なら早速本題に入らせて貰おうか。……今日、スピール商会の支店が襲われて、トリスが暗殺者に狙われたというのは知ってるか?」

「ええ。私もこう見えてスピール商会の人間ですから、その件については心配していました。正直なところ、本当に彼に任せていいのかと、そう疑問に思ってしまいますね」

「なるほど」


 プレシャスの口から出た言葉に、レイは納得してしまう。

 トリスの護衛を襲わせたのは、恐らくトリスに対する何らかの牽制だったのだろう。

 だが、それと同時に店に襲撃を受けたというのは、トリスにとって……いや、商人であれば大きなダメージとなる。

 それをも狙っての今回の襲撃だったのだろうと。


「レイさんはどう思います? 普通に考えて、自分が利用している店が何者かの襲撃を受ける……などという真似をされた場合。その店を続けて利用しようと思うでしょうか?」

「どうだろうな。その辺りはそいつの都合によるんじゃないか? その店でしか取り扱ってない商品があるのなら、どうしたってその店を利用しなければならないんだし」


 プレシャスが何を言いたいのかは理解していたレイだったが、実際にはそれ以上は口に出さない。

 レイの隣のヴィヘラと、そのヴィヘラの後ろにいるビューネも、ここはレイの出番だと理解しているのだろう。特に何かを言う様子はない。


「そうですか。高ランク冒険者だけあって、レイさんは剛毅ですな。……さて、お話しをするにも立ったままという訳にはいきませんし、ソファにどうぞ」

「いや、このままで結構だ。俺とお前の間には色々と厄介な事情がある。そう考えれば、ソファに座ってゆっくりお話しって訳にもいかないだろ」

「いえいえ、私とレイさんの間に厄介な事情があるとは、とてもではないが思っていませんよ」

「ほう? そう思ってくれるのなら、こっちとしても嬉しいな。なら、その調子で俺の頼みを聞いてくれると、こちらとしても助かる」

「頼み、ですか? ……正直なところ、今の私はレイさんが満足出来るような商品を持っているとは思えないのですが」


 頼みと聞いて商品と口に出すのは、やはりプレシャスも商人だからか。

 レイを見る目に、少しだけ鋭いものが宿る。

 現在のプレシャスの状況は、とてもではないがいいとは言えない。

 裏社会で組んでいた人物も、レイと敵対したという話を聞いてすぐにプレシャスと縁を切った。

 つまり、今のプレシャスには自由に出来る戦力というものが殆どない。

 情報操作をしようにも、手駒となる人物が少ない以上、どうしようもなかった。

 そんな状況でレイがやってきて自分に頼みがあるというのだから、微かに希望を抱くのは当然だろう。

 同時に、スラムでの一件により自分とは間違いなく敵対してくるという判断もある。

 色々と複雑な思いを抱いているプレシャスだったが、レイはそんなのは関係ないと、視線を逸らし……プレシャスの近くで護衛をしている相手を見て、口を開く。


「ちょっとその護衛の男を貸して欲しいと思ってな」


 そう、告げるのだった。

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