第1309話
時は少し戻る。
レイ達がアジモフの家から飛び出していったのを見送ったマリーナは、精霊魔法で生み出した水に意識を失っているアジモフを乗せ、そのまま診療所に向かう。
「ここから近い場所は……そうね、セラリスの診療所がいいかしら」
顔見知りがやっている診療所を思い出しながら、マリーナは道を進む。
そんなマリーナのすぐ後ろを、一見するとスライムのようにも見える水が追う。
もっとも、足の遅い――足はないが――スライムと違い、水で出来たスライムもどきは地面を滑るように移動している。
アジモフの家がある周辺は人通りが少ないが、それでも皆無という訳ではない。
それだけに、マリーナのような美人が上に意識を失った男を乗せたスライムもどきを引き連れている光景は、少ないながらも何人かに目撃されていた。
『……』
だが、それを目にした者達は一様に口を噤む。
マリーナのような美人と、その背後のスライムもどき。更にはスライムもどきに乗せられている男の姿を見れば、訳ありなのは明白だったからだ。
残念ながらその様子を見ていた者の中には、マリーナが元ギルドマスターであるということを知っている者はいなかった。
もし知っていれば、何らかのお礼……もしくはマリーナとお近づきになる絶好の機会と話し掛けた者もいたかもしれないが。
ともあれ、スライムもどきを引き連れたマリーナは周囲から視線を向けられていることに気が付きつつも特に気にした様子もなく道を進む。
元々マリーナはその美貌や派手なパーティドレスを日常的に着ていることから、様々な視線を向けられるのには慣れている。
それでもこの状況で表通りに出れば、マリーナでも無視出来ない視線を向けられるのは確実だった。
それを思えば、セラリスの診療所は裏通りにある為、そこまで視線を向けられずに済んだというのは運が良かったのだろう。
目的の建物に到着したマリーナは、目の前にある扉をノックする。
「セラリス、いるかしら?」
「はいはーい。えっとその声はマリーナかしら?」
そんな声と共に扉が開き……その向こう側にいたのは、マリーナより少しだけ背の低い人物。
取り立てて美形という訳ではないが、それでも見ているとどこか安心出来るような笑みを浮かべている相手だ。
「急に来てしまったけど、大丈夫だったかしら?」
「ええ、今は忙しくはなかったし大丈夫だけど……問題なのは、そっちの人? というか、アジモフさんじゃない」
セラリスの視線が、マリーナの背後にいる水の精霊によって作られたスライムもどきに……そして上に乗せられているアジモフに向けられる。
普通であればスライムもどきの姿に驚いてもいいのだが、セラリスは特に驚いた様子もない。
「そうよ。私の知り合い……というか、私のパーティメンバーの知り合いだったんだけど、家に行ったら怪我をして倒れてたのよ」
「へー。アジモフさんがね」
セラリスがアジモフのことを知っていたことには少し驚いたマリーナだったが、そもそもアジモフは腕の立つ錬金術師として……そして変人として、この辺りではそれなりに知られている。
それだけにセラリスがアジモフのことを知っていても、何も不思議はなかった。
スライムもどきの上に乗っているアジモフの様子を素早く調べるセラリスだったが、アジモフの身体に掛かっていた布を寄せると眉を顰める。
そこには見て分かる程に大量の血がついていた為だ。
だが、その傷口を調べていたセラリスはすぐに眉を顰める。
服が斬られているし、そこに血もついている。
にも関わらず、アジモフの身体には全く何も傷がなかったためだ。
「えっと、ねぇ、マリーナ。傷がないみたいなんだけど」
「ええ。傷口自体はポーションを使って回復させたもの」
「……なら、何をしにうちに来たのかしら? 傷が回復したのなら、別に問題はないでしょ?」
「それがあるのよ。……彼、何でこんな傷を負ったんだと思う?」
マリーナの言葉に、そう言われれば……とセラリスはアジモフに視線を向ける。
腕利きだということで知られているアジモフだが、それはあくまでも錬金術師としての腕についてだ。
冒険者のように、実際に戦うようなことになった場合は、とてもではないが一流と呼べるだけの実力は持っていない。
勿論錬金術師である以上、色々と護衛の為のマジックアイテムを持っていてもおかしくはない。
それでも、自分から進んで戦いの現場に向かうとは、とてもではないが思えなかった。
「そう、ね。……喧嘩? にしては、服がかなり斬り裂かれてるけど」
傷口は既に回復しているので正確なところは言えないが、それでも何かの刃で斬り裂かれた服の傷は喧嘩と呼べるものではない。
明らかにアジモフの命を狙った傷にしか思えない。
セラリスがそれを確認したのを見てから、マリーナは頷きを返す。
「そう。レイの預けていたマジックアイテムを受け取りに行ったら、この有様だったの。レイのポーションで何とかなったけど、それでも命を狙われた以上、放って置く訳にはいかないでしょ?」
「……ここは治療をする場所であって、人を匿う場所じゃないんだけど」
不満そうな言葉を返すセラリスだが、そう言われたマリーナは綺麗な笑みを浮かべて口を開く。
「あら、傷はポーションで治ったけど、流れた血は元に戻せないのよ? だとすれば、その辺りをどうにかするまでここで預かって欲しいのよ」
「それは……」
そう言われれば、セラリスも断ることは出来ない。
元々怪我をしている人を助けたいと思ってこのような仕事をしているのだ。
傷は治っても多くの血が流れてしまったと聞かされれば、放っておくことは出来ない。
「……分かったわよ。けど、あまり長く置いておくことは出来ないわよ? 知っての通り、今は冒険者が忙しい季節だし。その辺はギルドマスターのマリーナなら分かるでしょ?」
「元、よ。元ギルドマスター。今の私は一介の冒険者にすぎないわ」
「そう言えばギルドマスターを辞めるとか言ってたわね。全く、物好きなんだから。ギルドマスターになりたいと思ってる人が、どれだけいると思っているの?」
「私は愛に生きるのよ」
「……はいはい。惚気はまた今度聞くから。それより、マリーナはこれからどうするの? そもそも、噂の彼は一緒じゃないの?」
惚気は後で聞くと言いながらも、それでも噂の彼……レイについて尋ねてくる友人の言葉に、マリーナは笑みを浮かべて口を開く。
「レイなら、アジモフを襲った相手を追い掛けていったわよ」
「あら、早速捨てられたの?」
「ふふっ、そんな訳ないでしょ」
からかいの言葉に、マリーナは余裕を持って答える。
精霊魔法でアジモフを建物の中に入れるように命じ、用事は済んだと再び口を開く。
「アジモフをどこか安全な場所に移す必要があったし、今回の件を警備隊に知らせる必要もあるもの。……そっちをどうにかしておかないと、多分色々と面倒なことになるでしょうし」
多分と口にしたマリーナだったが、レイの性格を考えればほぼ確実に……間違いなく面倒なことになるというのは予想出来た。
自分の知り合いの……友人と呼んでもいいアジモフが瀕死の重傷を負わされ、スレイプニルの靴を盗まれたのだ。
これでレイがただで済ませる可能性というのは、槍が降ってくるよりも有り得ない可能性だった。
……もっとも、レイは投槍を得意としている。
今でこそ黄昏の槍があるので他の槍を投槍に使うことはないが、本人がその気になれば、それこそ槍の雨を作るのは難しい話ではないのだが。
(あ)
自分で考えて、マリーナもそのことに気が付いたのだろう。何かを誤魔化すように、笑みを浮かべた。
「とにかく、アジモフは任せるけどいいわよね?」
「はいはい。分かったわよ。特に治療も必要ないし、安静にさせておけばいいんでしょ? 後は起きたら栄養のあるものを食べさせれば、それでいいんでしょうし」
友人が大人しく引き受けてくれたことに感謝の言葉を口にし、マリーナはその場を後にする。
アジモフが襲撃されたことを考えれば護衛が必要かもしれないと一瞬思ったが、セラリスの診療所には冒険者が多くいる。
診療所にいる以上、当然怪我をしている。
だが、その怪我というのは殆どが命に関わるような傷ではない。
骨折や切り傷、打撲……そのような傷の者が殆どだ。
中には触手で締め付けられて気絶したような者もいるが、そのような者はごく少数だった。
ともあれそのような者達が多くいるだけに、戦闘力という点では決して低くはない。
勿論万全の状態に比べれば幾らか劣るが、それでも数が揃えば問題なく戦うことが出来る。
それだけに、この診療所に防衛力という点では特に気にする必要はなかった。
「じゃあ、お願いね。多分警備兵がアジモフを連れに来ると思うから、来たら引き渡して頂戴」
「はいはい。……それにしても、ギルドマスターを辞めたその日のうちに騒動に巻き込まれるなんて、運がないわね」
半ばからかうような口調で告げているのだが、それでもセラリスの言葉にはマリーナを心配する色がある。
だが、そんな友人の言葉に、マリーナは笑みを浮かべて首を横に振る。
「心配いらないわ。レイと一緒に行動すれば騒動に巻き込まれるのは分かっていたもの。それがちょっと早いだけよ。元々レイは自分から騒動に突っ込む性格で、さらに騒動を引き寄せる性質も持ってるもの」
「……本当に大丈夫なんでしょうね? まぁ、そうでもないとこんな短期間でランクB冒険者にはなれないでしょうけど」
セラリスもギルムに住んでいる以上、当然レイのことは知っているし、見たこともある。
普段のレイは、屋台で買い食いをしている相手……という認識しかないのだが、それはあくまでもレイの一面でしかないというのは、明らかだった。
「大丈夫よ。私は自分が望んでレイとパーティを組むことにしたの。この程度のことは、最初から想定していたわ。……まぁ、それでも若干早かったのは間違いないけど。それより、そろそろ行くわね」
綺麗な笑みを浮かべ、マリーナは診療所から出て行く。
これから警備隊の詰め所に行く必要があるのだから、あまりここで時間を使う訳にもいかないのだ。
「そう。気をつけて」
短く言葉を交わし、マリーナは精霊魔法で作った水の塊を消滅させると、そのまま去っていく。
「……本当に、気をつけてね」
セラリスは短くそう告げると、診療所に戻るのだった。
「ごめんなさい、少しいいかしら?」
診療所を出てから表通りに出たマリーナは、丁度都合良く通りかかった警備兵に声を掛ける。
その声に警備兵は一瞬顔を顰めるが……声を掛けてきたのがマリーナだと知ると、すぐに驚きを含んだ笑みを浮かべた。
嫌な顔をしたのは、毎年のことではあるが春になって新しい冒険者がギルムにやって来たことにより、様々な問題が起きている為だ。
喧嘩どころか、決闘騒ぎが起きるのも珍しくはなく……今回の件もそれに関してなのだろうと、そう思った為だった。
だが、こうして見てみれば、そこにいたのはちょっと他では見ることの出来ない美人のマリーナ。
男臭い冒険者の相手ならともかく、元ギルドマスターのマリーナが相手であれば、話は別だ。
「これはマリーナ様。どうしたんです?」
「もうギルドマスターは辞めたんだから、普通に呼んでちょうだい。……とにかく、レイの件でちょっと問題が起きたのよ」
「うげぇ」
レイの件と聞かされた警備兵は、今までの経験から思わずそう口に出す。
……レイがこれまで関わってきた件は、色々な意味で大きなことになっていた。
それを考えれば、次はどんな騒ぎだと思っても仕方がないだろう。
正直に感情を露わにした相方の様子に、もう一人の警備兵は溜息を吐く。
勿論レイの件で色々と面倒なことになるというのは分かっていたが、それでも相棒のような態度を取るのは避けたかったのだ。
「それで、マリーナさん。レイが今度はどんなことを?」
「そうね。簡単に言えば、レイがマジックアイテムを預けていた錬金術師が何者かに襲撃されて、瀕死の重傷を負った上に預けてあったマジックアイテムを奪われたわ」
『え?』
マリーナの口からもたらされた言葉に、二人の警備兵は合わせたように声を漏らす。
当然だろう。レイが騒動を起こしたと聞いても、ここまでのことだとは思っていなかったのだ。
正確にはマリーナが口にしたのはレイの件で問題が起きたということであり、レイが問題を起こしたと言った訳ではないのだが……普段レイがどのように思われているのかは、この二人の姿を見れば明らかだった。
「それで、少し時間はいいかしら?」
「……はい。どうやらここで話すのではなく、詰め所の方できちんと話を聞いた方がいいみたいですね」
「ええ、そうして貰えると助かるわ」
警備兵の言葉にマリーナは笑みを浮かべ、頷くのだった。
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