第1307話
アゾット商会の会頭をしているガラハトが住んでいるこの屋敷には、商会の商人達が自由に使える部屋が用意されている。
勿論書類や商売の取り引きといったものはアゾット商会の本店や、もしくは自分達の店、家といった場所で行われる。
それでも、ガラハトのいるこの屋敷に各々の部屋があるというのは、色々と都合がいいのも事実だ。
ボルンターがこの屋敷に住んでいた時には、この屋敷は自分だけの屋敷でそのような真似はしなかった。
ガラハトが会頭になってから、部屋が余っているのもどうかということで試しにやってみたのだが……その評判は上々だった。
今ではこの屋敷に部屋を持つことを許されるのは、アゾット商会の中でも非常に名誉なこととされている。
そんな中で、コリスの部屋にやってきたレイ達は部屋の中を見回す。
「その、一応重要な書類もあるので、その辺はあまり見ないで貰えると助かります」
「そうは言っても、その書類に今回の件についての命令が書かれているかもしれないでしょ? それを見逃すようなことは出来ないわよ」
ヴィヘラがコリスの言葉にそう返すと、自分の立場の弱さを理解しているコリスはそれ以上口には出せない。
「安心しなさい。別にここで何かを見たからといって、それを他の人に喋ったりはしないから」
「……ありがとうございます」
せめてもの温情といった風に告げるヴィヘラに、コリスが出来るのは頭を下げるだけだった。
そうして部屋の中を探している中で、レイは窓を開けて口を開く。
「セト! こっちに来てくれ!」
いきなり叫んだレイの姿に、部屋の中にいた者達が驚きの視線を向ける。
だが、ヴィヘラとビューネの二人はすぐにレイだからと納得して、部屋の中を改めて眺め始めた。
「グルルルゥ」
そしてレイが窓から呼び掛けて、一分もしないうちにそんな鳴き声が聞こえ、セトの姿が窓の外に現れた。
レイと敵対したかもしれない……そんな風に思ってしまうコリスは、セトの姿を見て顔を引き攣らせる。
そんなコリスの様子に構わず、レイはセトの頭を撫でながら口を開く。
「なぁ、セト。この部屋にスレイプニルの靴があるかどうか分かるか? もしくは、アジモフを襲った奴の臭いとか」
「グルゥ……グルルルゥ」
窓から部屋の中に顔だけ突っ込み、嗅覚上昇のスキルを使って臭いを嗅いだセトは、数秒後に首を横に振る。
コリスの身体から薄らと臭いはしてくるが、直接犯人に触れた場合の臭いではなく、あくまでも間接的な移り香にすぎなかった。
そこまでセトの言いたいことが分かった訳ではなかったが、それでもレイはこの部屋の中にスレイプニルの靴がないというのははっきりと理解する。
「そうか、この部屋にスレイプニルの靴はないか」
「グルルゥ」
レイの言葉に、セトは少しだけ申し訳なさそうに喉を鳴らす。
「セトが謝ることはないって。この部屋にないってはっきりと分かっただけでも十分な収穫だろ」
セトの頭を撫でながら告げる言葉は、寧ろセトよりもコリスを喜ばせることになる。
自分の部屋にスレイプニルの靴がないということは、レイと親しい錬金術師を自分が襲ったという疑惑が少しだけではあるが減ったということなのだから。
「……なるほど。なら、そうだな。臭いがこの屋敷の敷地まで続いていたのは確実なんだろう? なら、馬車の方を調べてみるのはどうだ?」
ガラハトの言葉に、レイは頷く。
当然セトもそんなガラハトの言葉に異論はなく、早く行こうと喉を鳴らす。
他の者もその言葉に異論はなく、コリスも自分が無関係だというのを早く明確にしたい為、賛成する。
そしてガラハトとコリス、ムルト、レイ、ヴィヘラ、ビューネはコリスの部屋を出る。
当然嗅覚の鋭いセトも、そんなレイ達と行動を共にする為にコリスの部屋の外から正門の方に戻っていく。
そうして正門近くで合流したレイ達は、そのままガラハトとムルト、コリスの三人に案内されるようにして庭の奥の方……馬車を置いてある倉庫の方へと向かう。
やがて倉庫が見えてくると、レイの側で周囲の様子を窺いながら進んでいたセトが何かに気が付いたように倉庫に視線を向け、喉を鳴らす。
「グルゥ!」
警戒の鳴き声ではなく、喜びの色の方が強い鳴き声。
その鳴き声に何かを感じたのは、レイだけではなかった。
「……ふぅ」
倉庫を見ながら、レイの口から安堵の息が吐き出される。
セトの鳴き声を考えると、倉庫の中に自分達が探している物……スレイプニルの靴があるのは確実だった為だ。
レイの雰囲気が、柔らかくなったことに気が付いたのだろう。ガラハトやムルトは自分でも理解出来ないくらいに身体の力が抜けていくのを感じていた。
だが……そんな他の面子と違い、レイの様子を見て緊張するのはコリスだ。
自分達が向かっている先に、レイが盗まれたマジックアイテムがあるのなら……それは即ち、自分に対する疑いが深まったということになるのだから。
そんな風に考えている間にも一行は進み続け、やがて倉庫に到着する。
倉庫の中にはコリスの馬車があった。
身体を休める為に厩舎にいるのか馬の姿はないが、それは今の場合問題ではない。
「セト」
「グルルゥ」
レイの言葉に、すぐに何を言いたいのか分かったのだろう。セトは喉を鳴らしながら馬車へと近付いていく。
誰もいない倉庫の中……外では春の日射しが暖かく降り注いでいるのだが、倉庫の中は微かに冷える。
そんな中を馬車に近付いていったセトは……その周囲を歩き回りながら、嗅覚上昇のスキルにより元々鋭い嗅覚を更に鋭くして馬車の臭いを嗅いでいく。
倉庫の中に入ったレイ達は、そんなセトの様子をただじっと眺めるだけだ。
セトが馬車の周囲を歩き回ること、数分……やがて馬車の左側でセトの動きが止まる。
いよいよか。そんな思いでレイを含む全員が見守る中、セトが次に取った行動は見ていたレイ達にとっても意外なものだった。
何故なら、そのまま荷台かどこかに顔を突っ込むと思っていたセトが荷台の下……丁度車軸がある辺りに顔を突っ込んだのだから。
当然馬車の下というのは、それ程の隙間はなく……セトが首を突っ込んだことにより、片側が持ち上がってしまう。
つい数秒前までは自分の命の心配をしていたコリスだったが、下手をすれば馬車が横転するというのを見て、動揺してしまったのは商人であるが故か。
コリスを含め、全員がいつ馬車が横転するのかと、息を呑みながらその光景を見守る。
だが……幸いなことに、セトが馬車の下から顔を出しても馬車が横転することはなかった。
激しく揺れはしていたが、そんな馬車を見てコリスが安堵の息を吐く。そして……
「レイ、あれ!」
「……ああ」
ヴィヘラの示した方向……つまり、セトのクチバシが何かを咥えているのを見て、レイは心の底から安堵する。
何故なら、セトが咥えているのはレイにとっても見覚えのある、スレイプニルの靴だったのだから。
銀獅子の素材を使って強化されたという割りには、遠くから見る限りだと特に何も変わってないように思えるが……それでも、セトの咥えている物がスレイプニルの靴なのは間違いのない事実だった。
「ふむ、その様子を見るようだと、セトが咥えている物で間違いないようだな」
「そうなる」
「しかし……馬車に隠すのであればともかく、馬車の下に隠すというのはおかしくないか? 今はこうして無事だったが、馬車が走っていればいつあの靴を落としても不思議ではない」
ガラハトの言葉は、間違いのない真実だった。
実際、こうしてセトがあっさりと――身体の大きさから馬車が横転しそうになったが――取り出すことが出来たものの、普通に街中を、そして街の外を移動していれば、馬車の下側に隠されていたスレイプニルの靴はいつ地面に落ちてもおかしくはない。
レイと敵対するかもしれないという危険を犯し、それで手に入れたマジックアイテムをそのような場所に隠すか?
そう聞かれれば、普通なら否と答えるだろう。
勿論アジモフから盗んだマジックアイテムが、レイの持ち物だと知らなかった可能性もある。
(いや、ないか)
一瞬脳裏を過ぎった考えを、レイはすぐに却下した。
アジモフの研究室には、レイが預けていたスレイプニルの靴以外に幾つものマジックアイテムがあった。
それこそ、売れば数年は遊んで暮らせるだけのマジックアイテムが、適当にその辺に転がっていたのだ。
そんな中で、狙ったようにレイのスレイプニルの靴だけを盗むような真似をしたのだから、それは適当に強盗に入った訳ではなく、最初からレイの預けていたスレイプニルの靴を狙っての強盗だったのは間違いないだろう、と。
「だとすれば……コリスはやっぱり今回の件に巻き込まれた一般人なのか?」
「そうね。……けど、そうなるとまた新しい問題が出てくるわ。何故、わざわざスレイプニルの靴を盗み出したのを、コリスの馬車に隠したのか。それも、馬車の下よ? この屋敷にやってくる途中で落ちていても不思議じゃなかったわ」
レイの言葉に、ヴィヘラが疑問を口にする。
実際、その疑問は事実だった。
セトが咥えているスレイプニルの靴は、かなり高価なマジックアイテムだ。
更にレイのスレイプニルの靴は伝説の錬金術師エスタ・ノールの作品で、それこそ出す所に出せば光金貨で取り引きされてもおかしくない代物だった。
そのような代物を、いつどこでなくなっても構わないといった場所に隠すというのは、コリスの性格を考えなくても有り得ないという反応になってしまう。
「一応聞くけど、馬車の下に何か人に見られたら困るような物を隠す場所があった……とかはないよな?」
「ありません!」
レイの言葉に、コリスは即座に否定する。
ようやく自分の嫌疑が晴れるかもしれないというのに、ここでまた疑われるような真似は絶対に避けたかった。
「もし何でしたら、馬車の下を調べて貰っても構いません」
そう言い切るのだから、恐らく本当だろうと思ったレイだったが、ガラハトから念の為にレイの目で確認して欲しいと言われ、馬車の下を覗く。
この行為が後で何かあった時に、実は隠す場所があった……と、そう思われないようにする為のものだというのは、レイにも理解出来ていた。
それでもガラハトの提案に素直に従ったのは、レイも一応自分で見ておいた方がいいだろうと判断した為だ。
結局馬車の下にはそのような仕掛けの類はなく、本当にスレイプニルの靴はいつ落ちても不思議ではないということが判明しただけだったが。
「……こうなると、コリスは何者かに利用された可能性が高いな」
セトが咥えていたスレイプニルの靴をレイに渡しているのを見ながら、ガラハトが難しい表情で呟く。
マジックアイテムがレイの手に戻った以上、レイと敵対する必要がなくなったのは、ガラハトにとっても幸運だった。
だが、同時に誰がこのような真似をしたのかという疑問はまだ解決されていない。
レイとアゾット商会を敵対させようとした。
それが今回の狙いだろうというのはガラハトも……そしてこの場にいる殆どの者が理解していたが、どこがそれをやったのかとなれば、すぐにどことは口に出来ない。
以前よりも権勢は衰えたとはいえ、アゾット商会はギルムの中でも大きな商会に入る。
そんなアゾット商会だけに、対立している相手、敵対している相手、恨みや逆恨みを買ってる相手というのは、それこそ幾らでもいる。
特に今は春になったばかりで、ギルムには冒険者以外にも多くの商人がやってきている。
辺境特有の商品を仕入れようとして、アゾット商会に顔を出す商人も決して少なくなく、中にはアゾット商会を相手に騙そうとする者すらいた。
そう考えれば、誰か特定の相手から恨みを買っていないかと言われれば、ガラハトは自信を持って首を横に振ることは出来ない。
「随分と面白い真似をしてくれる奴がいるな」
スレイプニルの靴が戻ってきたことにより、当初のような怒りと焦りは消えたレイだったが、それでもアジモフを傷つけられたことは忘れていない。
ましてや、自分達には全く関係もないだろう商人達の暗闘に巻き込まれたのだ。
これであっさりと許せる筈がない。
「レイ、落ち着いて。今ここで怒っても仕方がないでしょ? まずは、今回の件を企んだ相手をしっかりと見つける必要があるわ。怒りを発散させるのなら、それからでも遅くないでしょ?」
ゆらり、とレイの身体から怒気が吹き上がるのを見たヴィヘラが、落ち着かせるように声を掛ける。
コリスはおろか、ムルトや……元ランクB冒険者のガラハトですら思わず動きを止めてしまう程の怒気を身に纏っていたレイは、その言葉で一旦怒気を収めるのだった。
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