第1244話
宿の食堂で少し早い昼食を済ませると、レイ達はすぐに行動へと移る。
……もっとも、手続きといっても宿を出る程度の手続きだけであり、エルク達がギルムへと向かう前にしただろう食料や水、各種野営の道具といった物を揃えるような手間は掛からない。
それらの道具は、既にレイのミスティリングの中に入っているのだから。
寧ろ、レイはミスティリングの中に入っている銀獅子の肉を使った料理を出して食べたくなるのを我慢する必要があった。
食事を済ませたばかりだというのに、銀獅子の肉であればまだ幾らでも入るような気がしてしまう。……そして実際、それは決して強がりや出任せといったものではないのだろう。
ともあれ、特にレイの場合は部屋の中に私物を持ち込んだりしている訳でもないので、すぐに部屋を出る準備は終わる。
レイに比べると、エレーナ達は部屋にそれなりに持ち込んだ私物……着替えや洗面道具、その他諸々を鞄に収納する必要がある為、どうしても時間が掛かる。
セトの様子を見に行くついでに馬車を出すように言っておいた方がいいかと思いながら宿から出ようとしていたレイだったが……
「あら、レイ。随分と早いのね」
宿のカウンター付近にあるソファにはヴィヘラの姿があり、レイへと向けて笑みを浮かべ、手を振っていた。
高級宿らしく、この宿の出入り口の側には幾つものソファが置いてある。
待ち合わせ、商談……中には恋人同士の愛の語らいといったものをする場所だ。
「ヴィヘラ? 随分と早いな」
手荷物も何も持っていない……とても宿を出ようとしている様子には見えないレイが、ソファに座って紅茶を飲んでいるヴィヘラに言葉を返す。
もう晩秋……もしくは初冬と言ってもいいような時季であるのに、娼婦や踊り子が着るような薄衣しか身に纏っていないヴィヘラは当然目立つ。
ソファの側を通る者達にも、驚きの表情を浮かべる者が多い。
それでも全員が驚きを完全に表に出さないというのは、この高級宿に泊まる者だけあって感情を隠すのが上手いからか。
柔らかな肢体を誇示するかのようなヴィヘラの服装を見て、それでも感情を表に出さない者がいるのだから、その点はレイも微かに感心する。
「ヴィヘラは準備はいいのか?」
「あら、私に準備が必要だと思う?」
「あー……なるほど。うん、そうだな」
考えてみれば、ヴィヘラは昨日までは意識がない状態だったのだ。
そんな状態でこの宿に運ばれてきたのだから、エレーナやマリーナのように特に何か荷物がある訳でもない。
勿論昨夜この宿にやって来てから必要な道具の類は宿が用意してくれたのかもしれないが、それをわざわざ持って帰るつもりはないということだろう。
「それで、レイは厩舎に?」
「ああ。ちょっとセトの様子を見るついでにな」
馬車を牽く馬は、セトを見ても怯えるようなことはない。
それは小さい頃から厳しい訓練を受けてきた馬だというのもあるが、何よりこれまでにもセトと何度も会っているからというのも大きいだろう。
その辺りの心配はいらないと思いつつ、それでも念の為……と思っていたのだ。
「セトに? そうね、なら私も一緒に行ってもいい? 昨日は何だかんだと、セトとゆっくりは出来なかったし」
「あー……そうだな」
昨日はヴィヘラが目を覚ましたと思えば、すぐに銀獅子の解体、ダンジョンの核の破壊、ギルドへの報告、オークの煮込み亭での食事……と、まさに怒濤の流れと表現するのが相応しいような時間だった。
勿論オークの煮込み亭で行われた打ち上げでは、ヴィヘラもヨハンナ達を含めて他の面々と色々と話をした。
だが……話をしたというのも、銀獅子の肉を使った料理の前にはどうしても霞んでしまう。
レイ達とは先程まで食堂で話していたが、セトと話したい。そうヴィヘラは思ったのだろう。
「セトと話したかったんなら、俺を待ってる必要はなかったと思うんだけどな。別にヴィヘラ一人でも、セトは大人しいだろ?」
モンスターや動物、もしくはペットの中には、飼い主以外の存在には問答無用で牙を剥くというのも珍しい話ではない。
だが、セトは非常に高い知能を持っており、人間の言葉ですら理解出来る。
そのような存在であり、セトもヴィヘラには懐いている以上、こうして自分を待つ必要はないのではないか。
そんなレイの言葉に、ヴィヘラは少しだけ呆れた表情を浮かべて口を開く。
「レイはもう少し女心を勉強した方がいいわね」
「……何か悪かったか?」
ヴィヘラの言葉に首を傾げるレイだったが、そんなレイの様子に周囲でこっそりと二人のやり取りを見守っていた……もしくは盗み見ていた者達は、もどかしい思いを抱えながら内心でレイの鈍感さにヴィヘラのこれからを思って同情を覚える。
「いえ、レイにこの手のことを言ってもあまり効果がないというのは分かっているわ。それよりほら、早くセトの場所に行きましょ」
座っていたソファから立ち上がり、ヴィヘラはレイの手を引っ張って宿を出ていく。
……それを見送っていた者の中で、少なからぬ男がレイに嫉妬を覚えたのだが、当然レイはそれに気が付かなかった。
「グルルルルルゥ!」
厩舎に入った瞬間、誰が来たのか分かったのだろう。もしくは、厩舎に入る前から気が付いていたのかもしれないが、セトは嬉しそうに喉を鳴らす。
その鳴き声に、厩舎の中にいた馬達が若干混乱したかのように嘶きを上げるが、セトは全くそれに気が付いた様子もなく、早く早く、とレイとヴィヘラを呼んでいた。
「昨日の今日なのに、随分と喜んでるな」
「やっぱり、銀獅子の肉じゃない?」
そう言われれば、自分が銀獅子の肉を食べた影響を思い出してしまい、レイも納得の表情を浮かべる……どころか、そのことを考えた瞬間にまた銀獅子の肉を使った料理を食べたくなる。
(美味い……いや、美味すぎる料理ってのも、色々と問題はあるんだろうな)
右手首に嵌まっているミスティリングへと視線を向け、そこにまだ大量に入っている銀獅子の肉を思い出す。
特にレイの場合は、食べようと思えばいつでも銀獅子の肉を使った料理を食べられるだけに、他の者達よりもそちらに意識を奪われることが多いのだろう。
「グルルゥ? グルルルルゥ!」
遊んで、遊んでと鳴き声を上げるセト。
そんなセトに、ヴィヘラは笑みを浮かべてそっと手を伸ばして身体を撫でてやる。
「レイ達だけじゃなくて、セトも私の為に戦ってくれたのよね。……ありがとう」
「グルゥ!」
感謝の言葉を述べるヴィヘラに対し、セトは小さく身じろぎをする。
それは、自分がヴィヘラの為に戦うのは当然のことだと……そう言いたげな態度。
そんなセトの言いたいことが分かったのだろう。ヴィヘラは改めてセトに感謝の気持ちを抱きながら、そっと撫でる。
レイもまた、自分の相棒のセトが態度で示した仕草に対し、嬉しそうに笑みを浮かべて手を伸ばす。
「今日にはここを出るから、外に行ったら思う存分遊ぼうな。……フリスビーでもあればいいんだけど」
「フリスビー? 何それ? マジックアイテムか何か?」
聞き覚えのない言葉に、ヴィヘラが首を傾げる。
「あー……そうだな。俺がこの世界に来る前にいた世界で、一般的……うん、多分一般的にペットと遊ぶ時に使われてた玩具だ」
どちらかと言えば、レイの場合はペットではなく友人達と遊ぶ時に使っていたような記憶があるが、TVでフリスビーを飛ばしてそれを犬がキャッチするといった番組を見たことがあった。
(犬とセト……いや、セトは下半身が獅子なんだから、猫科だよな? でも、性格はどう考えても犬に近いし)
セトの姿は間違いなくグリフォン……下半身は獅子のものであるが、その性格は犬だというのはレイとしては間違いのない事実だ。
実際、今レイがセトの首を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らしている。
(うん? 喉を撫でられて喜ぶのは猫だったか?)
疑問を抱いているレイに、フリスビーという名前に興味を持ったのだろう。ヴィヘラは再び口を開く。
「そのフリスビーというのは、作れないの?」
「どうだろうな」
レイが日本にいる時に遊んだ経験があるフリスビーは、プラスチックで出来たものだった。
だが、当然ながらこのエルジィンにプラスチックなどというものはない。
(なら、木製? 木製のフリスビー……ブーメランだって木製の物があったんだから、フリスビーも木製でいけそうな気はするな。問題は、どうやってああいう形にするかだけど)
フリスビーは円の形をしている。
機械の類がないこの世界で、どうやればフリスビーのような形に出来るのか。
それはレイにも考えつかない。
(いや、ドワーフとかいるんだし、その辺りの技術があれば……もしかしたら?)
ふとそんな考えが思い浮かび、ギルムに戻ったらドワーフを探してフリスビーを作ってみようかと考える。
ブーメランというのが、エルジィンにあるのかどうかは分からない。
だが、レイはギルムを始めとして色々な街や村へと足を運んだことがあるが、ブーメランというのを見たことはない。
であれば、もしブーメランという存在があったとしてもごく限られた地域だけのもの……と予想していた。
(まぁ、ブーメランは本来狩猟道具らしいから、狩りをしてる人に勧めてみるか)
ブーメランに思いを馳せているレイだったが、実際にブーメランで狩りが出来るのか? と考えれば、首を傾げざるを得ないのもまた事実だった。
それこそ、ブーメランを使って獲物を狩るのであれば、弓矢を使った方が確実だろう。
少なくても殺傷力という意味では圧倒的に弓矢の方が上なのだから。
「レイ? どうしたの?」
「いや、フリスビーは作るのが難しそうだと思ってな」
「そうなの?」
不思議そうなヴィヘラの言葉に頷き、レイはフリスビーがどのような物なのかを説明していく。
歪みのない真円に木を削り、中もくり抜いていく。
その話を聞いただけでも、普通であれば難しいというのはヴィヘラにも容易に想像出来た。
「作るの、難しそうだろ?」
「そうね。その辺にいる職人に頼んだ程度だと、ちょっと無理だと思うわ」
それは逆に言えば、相応の技量を持った職人であれば作れるということでもあった。
ヴィヘラの言葉に隠された意味に気が付いたレイは、なるほどと頷く。
(ただ、フリスビーにしろブーメランにしろ、基本的に安物だ。一流の技術者が作るとなると、明らかに赤字だろうな。いっそ宝石とかで芸術品にするとか? いや、宝石ではないにしろ、石とか金属で作ったフリスビーは重すぎるか)
セトの遊び道具としては最適だと思ったフリスビーだったが、そこまでして欲しい物ではないと判断して諦める。
勿論本気で欲しいのであれば、金に糸目を付けたりはしないだろう。
それこそ、銀獅子の素材を手に入れたばかりなのだから。
「レイ殿、ヴィヘラ殿、ここにいたんですか」
ヴィヘラと共にセトを撫でていると、不意にそんな声が周囲に響く。
その声のした方へと視線を向けたレイとヴィヘラが見たのは、当然のようにアーラの姿だった。
「どうしたんだ?」
「もう、帰る準備は出来ましたよ。宿の手続きも済ませましたし、後はレイ殿達の準備が出来たかどうかを聞いて、馬車の準備を整えれば帰れます」
少しだけ怒った様子なのは、レイがエレーナを放っておいてヴィヘラと一緒にいたからか。
別にアーラはレイに好意を抱いている訳ではない。
いや、好意は抱いているのだが、その好意は男女間のものではなく友情と呼ぶのに相応しい好意だ。
だからこそ、親友にして主であるエレーナの恋をなんの躊躇もなく応援することが出来た。
「そうか。じゃあ、こっちも準備を終えるか。……セト、行くぞ」
「グルゥ!」
レイの言葉に、セトは短く鳴いて厩舎から出る。
馬車の用意をするというアーラはその場に残し、レイとヴィヘラ、セトの二人と一匹は宿へと向かう。
するとそこには当然のようにエレーナとマリーナの姿があり、ヴィヘラがレイと一緒にいたというのを見ると、二人の視線はヴィヘラに集まる。
物言いたげな視線を向けられたヴィヘラだったが、当の本人は全く気にした様子もなく笑みを浮かべて口を開く。
「少し待たせてしまったかしら?」
「そうだな。多少待ったと思う。気が付けばいつの間にかいなくなっているというのは、正直どうかと思うぞ」
少しだけ棘の混じった言葉を発するエレーナだったが、ヴィヘラは小さく肩を竦める。
……偶然宿から出ようとしていた商人達が、そのヴィヘラの様子を見ていたのだから、当然のようにその場でつんのめって転んでしまう。
それどころか、背後にいた他の商人達までもがその商人に躓いて転んでしまう。
そんなやり取りをしながら、エレーナ達は馬車が来るのを待ち……ギルムへと向かうのだった。
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