第1153話
「くそっ、くそっ、くそっ! 何でだよ、何でゴブリン如きにこうして俺達が逃げないといけないんだよ!」
悔し涙を流しながら、その冒険者の男はギルムへと向かって走り続ける。
隣を走っているもう一人の冒険者の男……口を開いた二十代の男よりベテランの風情を漂わせている三十代程の男は、そんな仲間に向かって怒鳴りつける。
「うるせえ! 今は、とにかくギルムに戻るのを優先しろ! ここで無駄に体力を使ってしまえば、追いつかれるぞ!」
ベテランであるが故に、男は現状起きている事態の不味さを理解していた。
普通であれば、ギルムで活動している冒険者にとって、ゴブリンというのは敵にもならない程度の相手でしかない。
だが……それはあくまでも一匹、二匹といった数であればの話だ。
五匹を同時に相手にすると、油断をすれば傷を負う。
それがもっと多くなれば、それだけ自分の負う怪我の度合いも酷くなり……
百匹を超えるゴブリンを一度に相手にするとなると、ランクDやランクC冒険者であっても生き残るのは難しくなる。
純粋な実力という意味では問題がなくても、生き物である以上、体力の限界は存在する。
そして体力を消耗すれば動きが鈍くなり、最終的にゴブリンであっても勝つのは難しくなるだろう。
何らかの例外ではない限りそれは確実で……残念ながら、この二人の冒険者はその例外ではなかった。
結果として残った仲間にゴブリンの件を知らせるように言われ、この二人は仲間を殿として犠牲に残す形でこうしてギルムへと向かっている。
街道から少し離れた場所にある林でハーピーの巣を探すという、それなりに簡単な依頼だった筈が……実際にはこうしてパーティが半壊する危機となって襲い掛かってきていた。
「見えた、ギルムだ!」
視界の中に自分達が拠点としているギルムの姿が見え、それにベテランの男が叫び、もう一人の男の顔に喜びの表情が浮かび……
「げぺっ」
不意に聞こえてきた奇妙な声に横を見ると、そこにあったのは額から矢を生やしている男の姿だった。
ベテランの冒険者であれば、背後から飛んでくる……それもゴブリンが射った矢くらいは対処出来てもおかしくはない。
事実、男にもそれだけの能力があったのは事実なのだから。
だが……大量のゴブリンの氾濫を見たことによる精神的な動揺、ゴブリン如きから逃げ出してしまったという羞恥、パーティの中でも若手である男の面倒を見なければならないという責任感、ギルムが見えたことで覚えた安心感。
それら全てが混ざりあった結果……背後から追ってきていたゴブリンアーチャーが放った矢を回避することが出来なかった。
男の目の前で先程まで自分を励ましてくれていた男の目から光が消え、そのまま走ってきた勢いのままに地面へと崩れ落ちる。
最後まで残った男は、それを見ながらも足を止めることは出来なかった。
何故なら、背後から追ってきているゴブリン達の存在があったからだ。
「くそっ、くそっ、くそったれがぁっ!」
自分がパーティの中で最後の一人になってしまったこと……そして、自分以外を殺したのがゴブリンだという悔しさから、男は叫ぶ。
男にとって幸運だったのは、走り続けたことにより街道が近づいてきたことだろう。
そして街道には何人かの冒険者の姿があり、それを確認したゴブリンの追撃隊はこれ以上の追撃は危険だと判断して去っていく。
……これは、本来のゴブリンであれば有り得ないこと。
ゴブリンというのは、目の前に敵がいれば襲い掛かり、それで負ければ身も蓋もなく逃げ出す。
それこそ相手との力の差を計れず、グリフォンを相手にしても逃げるといった真似をせずに襲い掛かる。
それでいて、一度その力を見せられればそれぞれに四散して逃げていくという有様だ。
そんなゴブリンが、危険かもしれないと判断して途中で引き上げるというのは、異常と呼ぶしかない出来事。
街道にいる冒険者のうちの何人かは、そんなゴブリンの様子に気が付いた者もいる。
男を追っているゴブリンの集団を見て、警戒していたのだから当然だろう。
文字通り自分が間一髪で助かったということに気が付いた男は、ゴブリンの様子に疑問を抱きつつ、そのまま街道に足を踏み入れるとギルムへと向かって駆け出す。
パーティの生き残りが自分しかいなくなってしまった男は、街道を移動している者達が自分に向けてくる何かを言いたげな視線に気が付く様子もなく真っ直ぐに走り続ける。
そうしてギルムの正門へと到着すると、街の中に入る手続きをしている警備兵に掴み掛かるようにして口を開く。
「聞いてくれ!」
「おわぁっ! 何だ一体!? ……あ、手続きは終了したので、入っていいですよ」
数秒前まで手続きをしていた相手にそう告げた警備兵は、自分に掴み掛かってきた男に改めて向き直る。
「ゴブリンだ、ゴブリンの集団が現れた!」
「……ゴブリンの集団?」
これが、もしギルムでなければ……辺境ではない普通の街であれば、もしかしたらゴブリン如きで何をそんなに大袈裟なと思ったかもしれない。
だが、ここは辺境のギルムだ。
ゴブリンの集団が現れたと聞けば、思いつくことはある。
「率いているのは上位種と希少種のどちらだ?」
警備兵の表情は、先程ギルムの中に入っていった相手の手続きをしている時とは全く違う、鋭いものになっている。
それだけ危険が起きていると理解しているのだろう。
「多分、ゴブリンリーダーだと思う。ゴブリンの数は百匹を超えていた」
「……百匹?」
そう聞いた警備兵の表情は、少しだけ和らぐ。
大勢のゴブリンが現れたと聞いたから、てっきり数千、数万といった規模の群れを予想していたのだ。
勿論ゴブリン程度のモンスターであっても、百匹程の規模になれば十分に脅威だ。
それこそ、腕利きの高ランク冒険者であれば何とか出来るだろうが、低ランク冒険者や行商人といった者達にとってはどうしようもない絶望的な存在と言ってもいい。
(まぁ、百匹単位だし、こいつの言う通りゴブリンリーダーで間違いないか? 上位種や希少種が現れたのがオークじゃなくて良かったと言うべきだろうな)
ゴブリンもオークも、人間の女を利用して繁殖するという点では同じだ。
だが、個としての強さが大きく違う。
それこそ、普通のオーク一匹でゴブリン数匹……下手をすれば十匹以上を相手にすることすら可能なのだ。
ゴブリンの頭の悪さを考えれば、その差は開くことはあっても縮むことはない。
(リーダー程度で済んで良かったというべきだろうな)
より上位の統率個体……それこそ千単位のゴブリンを率いるジェネラルや、万単位のゴブリンを率いるゴブリンキングのような存在が出てくれば、冒険者以外に騎士団や警備隊も出撃しなければならないこともある。
以前ギルムからそう遠くない位置に存在したオークキング率いる集落はもっと数が少なかったのだが、それは集落に集まっていたオークの数が少なかったというのもあるが、元々ゴブリンとオークではその繁殖力が大きく違うというのも理由の一つだろう。
そんなオークキングに比べると、人間で言えば部隊長クラスのゴブリンリーダーくらいならある程度の冒険者達が集まれば何とか出来る範囲だ。
一つのパーティでどうこうしようというのは難しいかもしれないが、それでもギルムにいる冒険者の技量を考えれば決して不可能という訳ではない。
上にも報告は上げる必要があるだろうが、そこまで大きな問題にはならないという認識だった。
そう判断した警備兵は、男のギルドカードを確認すると、手早く手続きを済ませる。
「ゴブリンの件は俺も上に知らせておく。ただ、恐らくギルドの方で対処することになると思う」
「分かってる! 言っておくけど、ただのゴブリンリーダーじゃないと思うぞ!」
余程に急いでいるのだろう。短く吐き捨てると、男はそのままギルムの中へと入っていく。
「……ゴブリン、か。面倒なことにならないといいんだけどな」
ゴブリンリーダーが現れるのは、頻繁にある訳ではないが、それでも珍しいという訳ではない。
だが……警備兵の男は、何故か胸の中に嫌な予感を覚えざるをえなかった。
男が口にした、ただのゴブリンリーダーではないということを特記事項としてきちんと知らせる必要があると考えながら。
「ゴブリンの集団が現れた!」
ギルドに入り、カウンターへと向かった冒険者の男は受付嬢に向かってそう告げる。
幸い今は日中であり、ギルドが混む時間帯ではない。
その為に男は並ぶような真似をせず、すぐに受付嬢に話をすることが出来た。
「ゴブリンの集団!? 数は何匹くらいですか!?」
書類の整理をしていたレノラは、驚きと共に男へと尋ねる。
そうして男の方へと視線を向けると、それが顔見知りであることに気が付いた。
ヘスターという、まだ若手の冒険者の一人だ。
少し前にランクDパーティ流れる雲へ入った人物で、新進気鋭の冒険者としてそれなりに名前が知られ始めていた人物。
だが、今の男に新進気鋭と呼ぶべき雰囲気はない。
見るからに命からがら逃げてきたと呼ぶべき様子だった。
「百匹以上だ。……俺以外の奴は、全員」
なるほど、と。
レノラは、ヘスターが何故このような雰囲気を発しているのかを理解する。
折角入ったパーティが全滅してしまえばこうもなるだろうと。
目の前の男に痛ましさを覚えながらも、ギルドの受付嬢であるレノラは自分の仕事をしなければならなかった。
「百匹ですか。では、ゴブリンリーダーでしょうか」
その言葉に、はいそうですと答えるだろう。そう思っていたレノラだったが、ヘスターは頷くのを躊躇う。
「ヘスターさん?」
「いや、俺もゴブリンを百匹くらい率いるのはゴブリンリーダーくらいだと知ってる。けど、その割りにはゴブリン達は妙に頭が良かったんだよ」
「頭がいい、ですか?」
「ああ。例えば、追撃を行っていたのを街道近くになったから危険だと察知して途中で切り上げるとか」
「それは……」
レノラも、このギルドで受付嬢として働いている以上、モンスターに対する知識は多く集めている。
それこそ下手な冒険者と比べても、その知識は上だろう。
そんなレノラにとっても、ゴブリンがそこまで頭のいい行動をするというのは聞いたことがない。
「もしかして、もっと上位の……それこそ、ゴブリンジェネラルとか……いえ、それでもそこまで頭のいい行動をするとは……」
「レノラ、とにかく今は上に報告した方がよくない? ゴブリンがそんな真似をするとなると……下手をしたらゴブリンリーダーの希少種ということも有り得るし」
レノラの隣で話を聞いていたケニーが、少し深刻そうな表情を浮かべたまま、そう告げる。
「そう、ね。私達は知らなくても、上の人なら……最悪、ギルドマスターなら何かを知ってるかもしれないし」
「ええ。あれだけ長生きしてるんだから、そのくらいは知っていても不思議じゃないわね」
「……どことなく、棘がない?」
「そう?」
そんなやり取りをしつつ、レノラは席を立ち上がる。
そのままカウンター内部の奥にいる上司の下へと向かい、へクターから聞かされた事情を話す。
「なるほど。ゴブリンリーダーだと考えるのが正しい。だが……という訳か」
五十代程の男は、レノラの説明を聞くと悩ましそうに唸る。
話を聞く限りでは、間違いなくゴブリンリーダーが発生したと考えられる。
だが、街道でのゴブリンの行動を考えると、とてもゴブリンリーダーに出来る判断ではない。
「少し、気になるな。誰か手が空いていて、今すぐに動ける冒険者はいないか?」
「そう言われましても……」
今は日中なだけに、殆どの冒険者は依頼をこなす為に外へと出ている。
酒場にも冒険者の姿はあるが、そこにいるのは打ち上げや今日は休みと決めて休憩をしている者だけだ。
依頼ボードの側にも、これから依頼を受けようとしている冒険者の姿は何人かあるが、その殆どがそこまで腕利きといった者ではない。
これが本当の危機……ギルムが全滅するか否かということであれば、街中にいる腕利きの冒険者を呼び出すということも可能だが、ゴブリンリーダーと百匹程度のゴブリンの群れでは、そこまで重大事という訳でもなく、それは不可能だ。
幸か不幸か、このギルムは辺境であるということもあって、腕利きの冒険者は数多くいる。
それこそ、その気になればギルドの外に出て数分も探し回れば見つかるのではないかと思えるくらいに。
(まぁ、今は殆どの冒険者が依頼で出ているから、それも難しいかもしれないけど)
そこまで緊急という訳ではない以上、最悪の場合は夕方に依頼を終えて戻ってきた冒険者に調査の依頼をしなければならない。
そう思っていたレノラだったが、ちょうどそれを口に出そうとしたその時……カウンターの方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あ、レイ君! ソルレイン国に行ってたって聞いたけど、戻ってきてたの!?」
友人……否、悪友の声に、レノラは思わず天の采配に感謝するのだった。
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