第1121話
その道を進んでいくに従って、漂ってくるのは鉄錆の臭い。
それが何なのか、レイは嫌になる程知っていた。
これまで幾度となく……それこそ身体に染みつくのではないかと思われる程にその臭いを発するものを浴びてきたのだから当然だろう。
先程の槍を持った男が走っていき、それを追うようにザルーストも走っていった影響もあり、その場所までは人を避けたりせずとも真っ直ぐに移動が可能だった。
元々昼間で人が少ないというのも影響していたのだろう。
そのまま走り続けたレイは、すぐに人が集まっている場所へと到着する。
「っ!? 誰だ!」
そこに集まっていた者の一人が、近づいてきたレイに気が付き咄嗟に叫ぶ。
手には短剣を持っているが、手が震え、構えもなっていないところを思えばまともに訓練を受けたことがない人物なのは明らかだった。
それでも自分の前にいるのがローブを纏ってフードを被っている人物ということで、怪しい相手から自分達の上司を守ろうとし……ようやくレイの後ろに控えているセトの姿に気が付く。
そしてセトの姿が分かれば、そのセトと一緒にいるローブの男がレイだと気が付くのも当然だった。
「レ、レイさん!?」
「ああ。……オウギュストは?」
「……こっちです」
そう告げた男は、周囲に集まっている者達に場所を空けるように言う。
場所が空けた中に入ったレイが見たのは、腹から血を流しているオウギュストの姿だった。
先程の槍で一突きにされたのは明らかであり、地面には血溜まりが出来ている。
(あの槍の穂先についていた血……やっぱりオウギュストのだったのか)
そう思いながら、オウギュストの傷の手当てをしている人物へと視線を向ける。
そこには以前にも見た猿の獣人の姿があった。
「どうだ?」
「あ、レイさん……」
一言呟くと、猿の獣人はそっと首を横に振る。
「内臓が……」
オウギュストを攻撃した男の持っているのが長剣であれば、もしかしたら良かったのかもしれない。
だが男が使っていた武器は槍であり、オウギュストの腹を突いたのだ。
運が良ければ内臓の間をすり抜けて……ということもあったかもしれないが、残念ながら今回に限ってはそんな幸運は期待出来なかった。
「このままだと……」
猿の獣人が悲しそうに呟き、周囲に集まっている者達も悲しみを顔に浮かべる。
「は……はは……す、すいませんね、レイさん。みっともない姿をお見せしています……」
「……お前を殺そうとした奴は捕らえてある。後で事情を聞くといい」
「ふふっ、ざ、残念ながらそんな暇は……」
「黙ってろ」
オウギュストの言葉を遮るレイ。
最後の別れの言葉を遮らせるとは、と周囲にいた者の何人かが険悪な視線を向けるが、レイはそれには構わず口を開く。
「ポーションは?」
その言葉に近くにいた男の一人が首を横に振る。
「ゴーシュの錬金術のレベルは高くないんだ。こんな重傷を治せるだけのポーションなんて売ってない。持ってるとすれば……」
「エレーマ商会、か」
その言葉に男は頷く。
「そしてダリドラがオウギュストさんの傷を癒やす為にポーションを譲ってくれる訳がない。いや、もしかしたら……」
男が言葉を途中で止めたのは、オウギュストを攻撃した男がエレーマ商会の手の者だということを言いたかったのだろう。
「待て、落ち着け」
決定的な一言を口にしようとした男を止めたレイは、改めてオウギュストへと視線を向け……おもむろにミスティリングから一本のポーションを取り出す。
そのポーションがゴーシュでは購入出来ない程に高品質な物だというのは、ポーションの入っている瓶を見れば明らかだった。
ポーションを入れる為の瓶なのに、精緻に施された飾りや彫り物。
それだけで一種の芸術品のようにすら思えてしまうポーションは、レイがアジモフから貰った物だ。
勿論相応の値段がするポーションだったが、戦闘で役に立つマジックアイテムということでレイのコレクションの一つとなっていた代物であり、いざという時の為にとミスティリングに入れておいたのだが……
(まぁ、俺が怪我をすることは滅多にないしな)
レイの戦闘能力は非常に高く、それも敵の攻撃を受けて耐えるのではなく、回避を重視している。
また、攻撃を受ける時もデスサイズで防いだり、ドラゴンローブという防具もある。
勿論それだけで全ての攻撃を回避出来る訳ではないのは、これまでにもレイがダメージを受けたことではっきりとしていた。
そんな時に使おうと思っていたポーションだったが、今この時にこそ使うべきだろうと判断してポーションの蓋を開け……
(うん? 内臓を怪我した場合はどうすればいいんだ? 内臓に直接掛ける? いや、この場合は……)
一瞬どのように使えばいいのか迷ったレイだったが、ポーションが一番効果を発揮するのは飲ませる時だろうと判断し、そのポーションを血溜まりの上で横になっているオウギュストの口へと持っていく。
オウギュストは、レイが何をしようとしているのか悟ったのだろう。無駄だから止めるようにと口にしようとしたが……そんなオウギュストに構わず、レイは強引にその口へとポーションの瓶を突っ込んで中の液体を流し込む。
すると当然のようにポーションはオウギュストの口の中へと入っていき、息苦しくなったオウギュストは口の中にある異様に不味い……それこそ味覚を破壊するのではないかと思われる液体を飲み込む。
「げほっ、ごほっ!」
咳き込みそうになるオウギュストだったが、レイはそんなオウギュストの口を無理矢理手で塞ぎ、ポーションを吐き出させないようにする。
(変なところにポーションが入って咽せたのか、それともやっぱり味か)
ポーションが不味い……それも数日は味覚に障害が残る程に不味いというのは、ゴブリンの肉が不味いのと同じくらい変えられない真実だ。
……もっとも、ゴブリンの肉に関してはレイが何とかしようとはしているのだが。
(世界樹の雫を使ったポーション、本当に作って貰う必要があるだろうな)
自分だけであればそれ程ポーションは必要な訳ではないが、やはりいざという時のことを考えれば強力なポーションの一つや二つ持っていた方がいいのだろうと考える。
ある程度の傷を治せるポーションなら、ギルムでも多少高いが入手出来ないことはない。
だが、今回のように内臓を貫かれたような重傷となるとある程度の傷とは言えず、その辺に売ってるポーションであっさりと回復……という訳にはいかなかった。
「おっ、おい! あれ! オウギュストさんの傷を見てみろよ!」
レイのやり取りを眺めていた一人が、ふとオウギュストを見て叫ぶ。
そこにあるのは、見る間に槍によって突き刺された腹の傷が自動的に治っていくという光景だった。
治っているのはいいのだが、傍から見るとその速度による再生とも呼べるものは微妙に気持ち悪くすらある。
それでも皆が気持ち悪がらなかったのは、傷が治っているのがオウギュストで、回復している理由がポーション……それも見るからに高品質なポーションだと理解しているからだろう。
「ぐぐぐぐぐぐぐぅっ!」
回復しているオウギュストの方は、何かに耐えるかのように唸り声を上げている。
周囲にいる者達は、皆が黙ってオウギュストへと視線を向けており……やがてそのまま数分が経つと、不意にオウギュストの口から上がっていた唸り声が消えた。
『……』
そして周囲の者達息を呑んで皆が見守っていると……不意にオウギュストが倒れていた状態から上半身を起き上がらせる。
それも力なくという仕草ではなく、まるで怪我の影響を感じさせない力強さで、だ。
『え?』
だからだろう。皆の口から揃ってそんな声が出たのは。
つい数分前までは生きるか死ぬか……ではなく、確実に死ぬだろうと思われていた人物が、こうもあっさりと起き上がったのだから。
「えっと……あれ?」
そして何より一番混乱しているのはオウギュスト本人と言ってもよかった。
起き上がって周囲を見回し、先程槍で突かれた自分の腹へと触れる。
そこには既に傷と呼べるものは一切ない。
「私は……死にかけていた、と思うのだけれど……」
自分の身に起こったことが信じられないのだろう。自分が座っている地面へと改めて視線を向ける。
そこにあるのは自分の身体から流れた筈の血溜まり。
その血溜まりがある以上、死にそうになっていたというのは決して夢ではない。
「ポーションだよ」
混乱するオウギュストにレイが声を掛ける。
手に持っているのは、ポーションが入っていた瓶。
それを見て死にかけのままでポーションを強引に飲まされたことを思い出したのか、オウギュストが反射的に舌を……いや、口を押さえる。
現在の自分の味覚がどうなっているのか……ポーションの不味いという言葉ですら生温い味を思い出してしまったのだろう。
「あ、あ、あ、ありがとう……」
それでも味覚が馬鹿になっているのを理解しつつ、それを我慢してレイに感謝の言葉を口に出来たのは、自分に使われたのが非常に価値のあるポーションだと知っていたからか。
エレーマ商会を持つダリドラであればまだしも、店の規模ではエレーマ商会に遠く及ばないオウギュストではとてもではないが手が出ないだろう金額だろう。
事実、レイはアジモフから貰った――正確にはセトの素材のお礼――ポーションだったが、実際に買うとなると金貨や銀貨では購入するのは不可能だろう価値を持つ。
「気にするな。家主に死なれたら色々と困るしな。それに、美味い料理も食えなくなる」
どちらかと言えば後者の方に重点が置かれているような気がしたが、それでもオウギュストは再度レイに頭を下げる。
そんなオウギュストを見ていた周囲の者達だったが、不意にその中の一人が呟く。
「それにしても、何だってこんな……オウギュストさんだけを直接狙うような真似を……」
「そうだよな。誰がオウギュストさんに恨みを持つんだ?」
「そんなの、一人しかいないだろ」
誠実な取引をする商人として名前が売れているオウギュストだけに、その性格を恨んでいる者となると酷く限られている。
そして、オウギュストを恨んでいる筆頭が……
「ダリドラ」
誰がその言葉を口にしたのだろう。
それはレイにも分からなかったが、ダリドラの名前が出た瞬間に周囲にいた者達の視線が厳しくなる。
「そうだ、誰がオウギュストさんをこんな目に遭わせたのかなんて、考えるまでもないじゃないか」
「全くだ。今一番オウギュストさんを憎んでいるのは、間違いなくダリドラなんだから」
「くそっ、エレーマ商会の規模が大きいからって、好き勝手な真似をしやがって」
「許せねえ……絶対に許せねえ!」
オウギュストの周囲にいる者達が、それぞれ悔しげに言葉を紡ぐ。
今までにもダリドラに幾つも妨害工作をされてきた。
だが、それでもここ最近の妨害は、妨害と呼ぶよりもオウギュストの命すら奪いにきている。
砂上船を砂賊に貸してオウギュストの商隊を狙い、それが失敗すればこうしてオウギュストを直接殺しにくる。
オウギュストを慕っているだけに、周囲の者達はダリドラを許すことが出来なかった。
このままでは暴走し、エレーマ商会に殴り込みすらかけかねない。
そんな恐怖を抱き、オウギュストは慌てて口を開く。
「待って下さい! 今回の件がエレーマ商会の……ダリドラの仕業とは限りません!」
「けどよ、オウギュストさん……」
オウギュストの言葉に、周囲にいた男の一人が不満そうに言い返そうとする。
だが、そんな男を落ち着かせるようにオウギュストは口を開く。
「落ち着いて下さい。……そもそも、今回の件が本当にダリドラがやったことなのかどうかもはっきりしていないんです。何か証拠がある訳でもありませんし」
「……証拠ってのは、この男じゃ駄目ですかね?」
その声と共に、一人の男の身体が地面へと投げ出される。
「ザルーストさん、こいつは!」
周囲にいた男の一人が、姿を現したザルーストへと向かって叫ぶ。
当然だろう。今意識を失っているのは、先程オウギュストを襲った男だったのだから。
「ま、捕まえたのは俺じゃなくてレイだけど」
小さく肩を竦めたザルーストが、レイを見ながら告げる。
周囲の視線がレイに集まるが、レイはそれに対して小さく肩を竦めるだけだった。
「とにかく、その男が私を襲った理由を聞く為にも警備兵には……渡せませんね」
そう告げたのはオウギュスト。
自分達を襲った砂賊が、警備兵に引き渡したその日のうちに全員殺されてしまったことを考えれば、迂闊な真似は出来なかった。
だが、だからといって自分が意識を失っている男から情報を聞き出すようなことが出来るとも思えない。
どうすれば……そう思っていたオウギュストは、何かを騒ぎながら近づいてくる人の姿に気が付く。
もしかしてまた目の前の男と同じように自分を狙っての攻撃か? 一瞬そうも思ったのだが、実際には違っていた。
「急げ! ダリドラ様が襲われた! すぐに救援を!」
「くそっ! 誰がそんな真似を!?」
「知るか! とにかく急ぐぞ!」
そんな風に喋りながら、数人の男達がオウギュスト達の近くを走り去って行く。
「……ダリドラが、襲われた?」
オウギュストの口から、そんな呆然とした声が漏れるのだった。
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