第1082話
「では、またな。いつでも帰ってきてくれて構わんのじゃぞ、婿殿」
馬車の前に立つレイにオプティスが笑みを浮かべてそう告げ、次の瞬間には小さく頭を下げる。
すると一瞬前までオプティスの頭部があった場所を風の精霊によって生み出された衝撃波が通り過ぎて行く。
風の衝撃波と言っても、そこまで致命的な一撃ではない。それこそ軽く拳で叩く程度の、弱いものだ。
「……お爺様、あまりふざけないで下さいね?」
「ふぉふぉふぉ。そうかの? 儂としては本気なんじゃが。それに、世界樹の素材や……何より、世界樹の意思のこともある」
オプティスの視線が向けられたのは、レイの側でいつもより大人しく明滅している光球だ。
光球の明確な意思は理解出来ないが、それでも恐らくレイ達が帰るのを寂しがっているというのはこの場にいる誰もが予想出来た。
特に昨日世界樹の葉を何枚か貰いに行った時は恥ずかしながらも喜んでいたように見えただけに、どうしてもその思いは強くなる。
「レイ殿を含めた皆様には色々とお世話になりました。正直、初対面の印象が悪かったのでどうなるかと思ったのですが……」
少し照れた様子のラグドが、レイ達へと頭を下げる。
この集落を守るという意味でマリーナと対立したラグドだったが、それでも集落は守られたのだ。
もしマリーナがレイを連れてこなければ、恐らく世界樹が枯れていたのは間違いないだろう。
そしてモンスターの大軍が集落に押し寄せたのを迎撃出来たのもレイやエレーナ、ヴィヘラといった者達の力が大きい。
……もっとも、巨大蝉があそこまで巨大化したのはレイの魔力が関係しているのだというのには多少思うところはあったのだが。
「そうだな、色々とあった」
ラグドと話ながらレイが周囲を見回すと、ジュスラやオードバンといった者達がマリーナとそれぞれ言葉を交わしている。
ギルムまでマリーナを呼びに来たオードバンや、盗賊に捕らえられていたのを助け出されたジュスラ。
他にも戦いの時に色々と見た顔もある。
エレーナやヴィヘラ、アーラといった者達も顔見知りになったのだろうダークエルフ達と話をしている光景がレイの目に入った。
少しだけ手持ちぶさただったレイだったが、自分の方に四人のダークエルフが……それも子供が近づいてくるのに気が付く。
誰なのかというのは、その顔を見るまでもない。イアン、カルージャ、ミュルス。そしてガキ大将のルグドスの四人。
「にーちゃ、にーちゃ! いなくなったらやー!」
レイに近づいてきた子供の中で、真っ先に口を開いたのはミュルス。
相変わらずの舌っ足らずの声でレイのドラゴンローブを引っ張る。
何故ここまで懐かれたのかはレイも分からないのだが、それでも自分を慕ってくる相手を見れば悪い気はしない。
「その……本当に行ってしまうんですか? もう少しここにいても……」
「そうだよ。もう少しいてもいいんだぞ。長老が何か言うなら、俺が言い返してやるから!」
カルージャとイアンもレイに向かってそう告げてくる。
「ふんっ」
そしてルグドスはレイの方を気にしながらも、無理に気にしていない様子を見せて鼻を鳴らす。
恋敵であり、命の恩人でもあるレイに対して複雑な気持ちを抱いているルグドスとしては、ここで素直にはなれない。
自分の前からレイがいなくなるのは嬉しくない訳ではないが、同時にそれはルグドスが一目惚れしたマリーナがいなくなることも意味しているのだから。
それらの気持ちと感謝の気持ちが混ざりあい、レイに対してどんな態度を取ればいいのか分からなかった。
そんなルグドスの気持ちを理解した……という訳でもないのだろうが、レイはミュルスの頭を撫でながら口を開く。
「ルグドス、お前がこいつらの面倒を見てるんなら、ゴブリンと戦った時のように何かあったらこいつらを守ってやるんだぞ」
「ふ、ふん! お前に言われなくても分かってるよ!」
ルグドスはそう言いレイから視線を逸らす。
逸らした視線の先にマリーナがいたのは、偶然か……はたまたルグドスが意図的にそうしたのか。
ともあれ、レイはミュルスを撫でながら再度同じ言葉を告げる。
「お前がこいつ等を守るんだぞ」
「……分かってるよ!」
レイに言われるまでもない、と叫ぶルグドス。
そんなルグドスの様子を見ていたレイは、ふと視線を感じてそちらの方へと振り向く。
そこにいたのは、オードバン。
お互いの関係は決して良好という訳ではなかったが、レイはそれ程気にしてはいない。
そもそも、オードバンにとっては約百年ぶりに会う友人との間でそれを邪魔したような形になってしまったのだから。
また、マリーナが無意識にでもレイに惹かれているというのはオードバンも十分理解しており、それが余計にオードバンの嫉妬を掻き立てていた。
「……」
無言で頭を下げてくるオードバンにレイは小さく頷きを返し……その後も二十分程他のダークエルフ達とそれぞれ別れの挨拶をして、とうとう出発する時がくる。
最後にレイは、自分の周囲を飛び回っている光球にそっと手を伸ばす。
光球に触れることが出来ないというのは分かっているが、それでも今は手を伸ばしたい気分だったのだ。
この光球はレイの魔力によって生み出されたものだ。言わば、レイの子供に等しい存在でもある。
……それでいながら、巨大蝉はレイの魔力と世界樹の樹液、根といった部分から生み出されたので、そちらもある意味ではレイと世界樹の子供と言えるのかもしれないが。
(うん? つまり俺は子供との間に巨大蝉という子供を……やめよう。とてもじゃないけど幸せになれない考えになりそうだし)
頭の中に浮かんだ考えを振り払い、光球に向かって口を開く。
「俺はこれで帰るけど、元気でな」
そう告げた瞬間、光球は激しく明滅を繰り返す。
このままではレイがいなくなってしまうと、そう理解しているのだろう。
行かないで欲しいと、そう言っているかのようにレイの周囲を飛び回りながら明滅を繰り返す。
その様子は光球の思いとは裏腹に非常に目を奪われるものであり、当然ダークエルフ達から見ても目を奪われるものだった。
だが、傍から見ている分には目を奪われる光景だったかもしれないが、その中心部分にいるレイにとってはたまったものではない。
「落ち着け……ほら、眩しいから落ち着けって」
自分の周囲を回っていた光球へと声を掛けること、数回。ようやく光球はその動きを止めてレイの顔の前へと移動する。
「俺もいつまでもこの集落にいる訳にはいかないんだ。それは分かってるだろ?」
「儂としては、いつまでこの集落にいてくれても全然構わないんじゃがな。何ならマリーナの婿として……」
「お・じ・い・さ・ま?」
「げぶぅっ!」
いらない口出しをしたオプティスの胴体へと、マリーナの拳がめり込む。
本来はそこまで強い力を持ってはいないのだが、今のマリーナの中にはまだレイの魔力が残っている。
それにより身体能力が全体的に高くなっており、マリーナの一撃は容易にオプティスを黙らせることが出来ていた。
そんな祖父と孫のやり取りを横目に、レイは光球の説得を続ける。
「別にこれが生涯の別れって訳じゃないだろ? また俺がここに来れば会えるんだから」
レイの言葉に、光球は再度明滅する。
本当? と、そう言っているように思えたレイは、光球へと頷きを返す。
「ああ、だから俺が来るまで元気でいろよ。そしたらまた遊んでやるから」
そう告げると、光球もようやく諦めたのだろう。ゆっくりと明滅する。
レイの言葉に同意するようなその明滅に、もう大丈夫だと思ったのだろう。改めてレイはオプティスの方へと視線を向ける。
先程のマリーナの一撃に悶え苦しんでいたオプティスだったが、今はもうその痛みもどうにかしたのか、いつものように泰然自若としてレイの方へと視線を向けていた。
(いや、オプティスの場合は泰然自若って言うか? ……言わないよな)
レイの脳裏を過ぎるのは、この集落に滞在した短期間ではあったが、それでも見てきたオプティスの言動を見ると泰然自若とは言わないだろうという思いがある。
そんなレイの周囲を、光球が明滅しながら飛び回る。
先程のレイとのやり取りでいじけていた気分は変わったらしく、今は元気にレイに構って欲しいと態度で示していた。
「……レイ、そろそろ行きましょう」
そう告げたのは、本来ならもう少し集落の者達と別れを惜しみたいだろうマリーナだった。
このままではいつまで経っても出発出来ないと判断したのか、少しだけ強がってそう告げてくる。
普段は艶という文字を象徴しているようなマリーナだったが、今は珍しいことに少しだけどこか寂しげな雰囲気を醸し出している。
「そうだな、じゃあ……またな」
そう告げたのは光球に対してであり、オプティスに対してであり、他のダークエルフ達に対してでもあった。
そんなレイの言葉にダークエルフの者達は、全員が頭を下げる。
子供の何人かは、何が起きているのか分からないといったように周囲を見ていたが、それでも両親と思われる者達が子供達の頭を下げさせていた。
「レイ殿……この度は我等が集落を救って下さり、感謝の言葉もありません。我等一族がこの恩を忘れることは決してありませぬ。もし何か我等で助けになることがあるのであれば、いつでも尋ねてきて欲しい。我等がレイ殿を前に閉める門はありはしないのだから」
普段とはまるで違うオプティスの言葉使い。
それは、この集落の長老……実質的な長としての態度からのものなのだろう。
普段は婿殿やレイと呼んでいるのだが、今はレイ殿という呼び方になっているのがその証だった。
そんなダークエルフ達に対し、レイは笑みを浮かべて口を開く。
「気にするな、これは依頼だから……いや、違うな。マリーナから頼まれたからやっただけだ。俺にとってはマリーナからの要望があれば、このくらいは何でもない。それに……報酬も貰っているしな」
そう告げたレイの言葉に、マリーナの頬が薄らと赤くなる。
レイは世界樹の枝や葉、樹液といったものを指して報酬と言ったのだが、マリーナの脳裏を過ぎったのはレイとのキスだった為だ。
そんな孫娘の姿を見て、オプティスは何となく何が起きたのかを理解したのだろう。好々爺といった笑みを浮かべ、再度頭を下げる。
……明確に口にはしなかったが、今頭を下げたのには世界樹を救ったことではなく孫娘を末永くよろしく頼むという意思が込められていた。
レイがそれに気が付かなかったのは、果たして幸運だったのか不運だったのか。
ともあれ、オプティスに頭を下げられたままレイ達は馬車の中へと乗り込んでいく。
アーラのみは御者台へと向かったが。
そしてダークエルフ達の見送りを受けながら、やがて馬車は進み始める。
馬車の後を光球のみが追っていき、やがて障壁の結界の近くまで移動してくると自然に障壁の結界に穴が開いていく。
これを行っているのは、世界樹の意思である光球だ。
世界樹がこの障壁の結界を展開しているのだから、当然馬車が障壁の結界を通るくらいの穴を空けるくらいのことは問題なく出来た。
「私はいらなかったわね」
精霊の気配で障壁の結界に穴が空いたのが分かったのだろう。馬車の中でマリーナが呟く。
マリーナが座っているソファには、横にレイの姿がある。
ここ数日のことを思えば、エレーナもヴィヘラもマリーナがレイの隣に座るのを阻止しようとしてもおかしくなかったのだが、今は……今だけは違った。
元々マリーナが集落を出たのは、追い出されたといったような理由ではない。純粋に外の世界に興味があった為だ。
つまり、戻ってくるつもりになればいつでも戻って来れたのだが……外に出て働いている間に色々な柵が出来てしまったのも事実。
そうなると中々戻ってくることは出来ず、今回戻ってきたのが約百年ぶりだった。
永き時を生きるダークエルフ……それも他のダークエルフよりも濃い血を持ち、世界樹との間に縁があるマリーナでも、百年というのはある程度長い年月だ。
それだけに、こうして再び集落から旅立つとどうしても郷愁のようなものを感じるのだろう。
心の中にある寂しさを埋める為、マリーナは隣に座っているレイへと体重を預ける。
今日マリーナが着ているのは、胸元と背中が大きく開いたパーティドレス。
そんな姿で体重を預けるような真似をすれば、当然その巨大な双丘がレイの腕に押し潰される形になり、深い谷間もまたひしゃげて柔らかさを強調する。
「ねぇ、レイ。今回は本当に助かったわ。……お礼に、今まで味わったことのないような体験をさせて上げましょうか?」
女としての艶を思う存分に発揮させているマリーナの露骨な挑発に、エレーナとヴィヘラが思わず声を出すまでの瞬間はもうすぐそこまで迫っていた。
(今はこの寂しさを埋める為に、皆で騒いで忘れさせてちょうだい)
そんな風に思いながら、もしレイが望めば自分は身体を許すのだろうと、半ば確信を抱きつつマリーナはレイへの誘惑を続ける。
少し離れた場所では、関わり合いになるのを避けたいビューネがお土産としてダークエルフ達から貰った干した果実をゆっくりと味わい……そして我慢の限界に達した恋する乙女二人の叫びが馬車の中へと響き渡るのだった。
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