第920話
セトとの触れあいを十分程で終えたレイは、前日に言われた通り学園長室へと向かっていた。
セトはもっと遊んで、遊んでとレイに甘えてきたのだが、レイは一応教官として雇われているのだ。
それをまさか初日からサボる訳にもいかず、泣く泣くセトと別れて学園内を歩いている。
厩舎から立ち去る際に聞こえてきた、セトの悲しげな鳴き声が未だに頭の中に残っていた。
出来ればレイももう少しセトを構いたかったのだが……
(そうだな、授業があると言っても別に日中全てが埋まってる訳じゃないだろ。なら、授業がない時間にセトの所に遊びに行けばいいのか。……馬は残念だろうけど)
セトのいる厩舎は、職員用の厩舎だ。
そこには、数少ないが教官が使う馬もいる。
個人的な馬であったり、学校から借りている馬だったりするが、そのような区別なく厩舎を住処としている馬がいた。
だが……馬にとって、圧倒的な絶対者と言ってもいいセトと共に一つ屋根の下で過ごすというのは、明らかにストレスを与えていた。
(ストレスでどうにかなる前にセトに慣れる……ってのがベストなんだろうけど)
夕暮れの小麦亭の厩舎のように、と。
セトのことを考えながら学校の中を歩いていると、レイは多くの視線が自分に集中していることに気が付く。
(何だ?)
疑問に思い、耳を澄ませる。
「おい、あいつ誰だ? 制服を着てないってことは、この学校の生徒じゃないだろ?」
「随分と背が小さいな。女か? 男か? 男なら子供ってことになるんだろうが」
「ふんっ、また由緒あるこの学校に下賤の者がやってきたのか」
「おいおい、いいのかあいつ。制服を着てないってことは、多分生徒じゃなくて教官として招かれた人だろ? それを相手に、あんな風に言ったりして……」
「ま、ここに入っても特権意識が抜けないって奴は多いしな」
「光、か」
「は? いきなりどうしたんだよ?」
「いや、俺が聞いた限りだと、あの人は魔法使いの中で燦然と輝く光だという話だ。ま、サマルーン先生がそう言ってるのを聞いただけだけど」
「じゃあ、お前あいつが誰なのか知ってるのか? 教えてくれよ」
「いや、残念ながら知らない。あくまでもサマルーン先生が言ってたのを小耳に挟んだだけだし。そもそも、あのフードを被っているから顔が殆ど見えないんだよな」
「使えないな。サマルーン先生なら話を聞きやすいだろ? なら、その程度のことはしっかり聞いてきてくれよ」
「いやだ。あの状態のサマルーン先生に話し掛けるなんて、時間を無駄にするだけじゃないか」
「とにかく、制服じゃないってことはここの生徒じゃないんでしょ? なら教官で間違いないんじゃない?」
「冒険者とか、騎士とかか? あの姿から考えると冒険者だろうけど……俺達より小さいのにか?」
「そこはそれ、別に実戦じゃなくて魔法についての理論とか。サマルーン先生の言葉から考えると、不思議でもないでしょ?」
そんな声がレイの耳に聞こえてくる。
(なるほど。……ま、確かにこんなに大勢の生徒が制服姿なのに、俺だけ制服を着てないんじゃ目立ってしょうがないか)
レイを見て色々と噂話をしている者達は、全員が生徒でそれぞれブレザーに似た制服を着ている。
男女共にどこかデザインの共通性が見られるその制服は、公爵家の有する士官学校の制服として似合っているとレイには思えた。
(当然のように特権意識丸出しな奴もいるけどな)
キープ予備軍とでも呼びたくなるような者から向けられる侮蔑の視線にレイは笑みを浮かべたくなったが、それを我慢して校舎の方へと向かう。
学園長室のある校舎に入っていくレイを見て、再び騒ぎ出す生徒達。
そんな生徒達を背に、レイは校舎へと入っていく。
何人かの生徒達が、もしかして不法侵入者じゃ? といったことを考えていたのだが、まさかこうも堂々と不法侵入するような者がいる筈がないという思いから、すぐにその考えを捨てる。
レイが入っていった校舎へと視線を向け、朝の話題は見知らぬ冒険者と思しき男についてのものが多くを占めるのだった。
「レイ殿、良く来てくれた。昨日は良く眠れたかな?」
学園長室の中に入ったレイは、執務机で何らかの書類をチェックしていたエリンデにそんな声と共に迎えられる。
エルフのエリンデは、昨日と同様に男か女かを判断出来ないような容姿をしていた。
もっとも一日で容姿が変わる筈はないのだが、服装が変わればもしかして……? という思いがあっただけに、レイは残念に思いながらも頷く。
「ああ。ぐっすり眠れたよ。夕暮れの小麦亭には負けるけど」
「あははは。それはそうだろう。夕暮れの小麦亭と言えば、ギルムでも有数の高級な宿だ。特にあそこの料理は美味しかったね」
エリンデの口調は、自分が行ったことのある場所に対するものだった。
(まぁ、エルフで普通よりも長生きするんだし。それは俺よりも色んな場所に行ったことがあって当然か)
自分も半ば不老に近い状態だというのを棚に上げて考えるレイに、エリンデは口を開く。
「さて、早速今日からレイ殿には模擬戦の教官をやって貰う訳だけど……幾ら何でも、学校の生徒全員の相手をさせる訳にはいかない」
「……今更聞くのもなんだけど、この学校の生徒ってどのくらいいるんだ?」
レイの口から出た質問に、エリンデは眉を動かして微かに驚きを露わにする。
「おや。サマルーンから聞いてなかったのかな?」
「学校の案内はして貰ったけど、その辺は聞いてないな」
「全く、あの男もしょうがないな。いいかい? この士官学校は四年制の学校だ。一学年は平均して二百人程度。つまり、合計して八百人近い生徒がいるんだ。それに教官や職員、下働きをする者達を合わせると、全部で千人近い人間がここで暮らしていることになる」
どうだい? と自慢げに尋ねてくるエリンデだったが、レイはそれに疑問を持ち、口を開く。
「教官や職員が二百人近いって……俺が住んでいる職員寮はそこまで大きくないけど?」
「ああ、その件か。職員寮はレイ殿が住んでいる場所の他にももう一つあってね。それに寮に入らないで家を借りていたり、実家がグラシアールにあって、そこから通ってる人もいるのさ」
「……なるほど」
頷きながらも、それなら出来れば自分も職員寮ではなくどこかに家を借りるか、宿でも取って欲しかった……と思うレイ。
そうすればセトといつでも好きな時に遊べるしと思ったものの、すぐにそれを否定する。
(もし宿だったら、授業中はここの厩舎にいるよりも離れていることになるのか)
そんなことになれば、下手をするとセトが宿の厩舎を抜け出してレイに会いに来るかもしれない。
いや、セトは数日くらいレイと離れていても大丈夫ではあるのだが、それでもセトが自分に対して向けてくる愛情を思えば、その可能性は否定出来ないとレイは考える。
「ま、そういうこともあって、まさかレイ殿に八百人近い相手全員に模擬戦をしろなんて言えないだろう?」
「……やってやれないことはないと思うけど、無駄に時間が掛かるだろうな。それこそ俺が倒すのに集中してしまって、相手は何が何だか分からないうちに気絶してしまう可能性が高い。そうなれば、模擬戦をやる意味自体なくなるしな」
「だろうね。だからこそ、君には三年と四年のSクラスのみを担当して欲しい」
「Sクラス?」
「……サマルーンはそれも説明していなかったと?」
ヒクリと頬を動かしながら尋ねるエリンデに、レイは頷く。
実際、クラスについての話は聞いていなかった為だ。
「全く、魔法についての研究は優秀だし、それなりに生徒にも慕われているんだけど……こういう風に間の抜けたところがあるから、完全には信用出来ない」
仕方のない奴だ、と溜息を吐いたエリンデは、レイに向かって説明を続ける。
「この士官学校のクラス分けは、基本的に実力順となる。卒業したら騎士や冒険者になるのだから、実力を誰にでも分かるようにするというのは必要だろう?」
「……まぁ、それは否定しない」
「良かったよ、君がそういう意見で。職員の中には実力は関係なくクラス分けしろという者もいてね。……ともあれ、だ。そのクラス分けは冒険者のランクを参考にさせて貰っている。つまり、S、A、B、C、Dとね。一クラス四十人で五クラス。これで一学年の合計が二百人だ。もっとも、中には何らかの理由で辞めていく生徒もいるし、確実に一クラス四十人という訳ではないけど」
「つまり、俺が教えるのは今年と来年卒業予定の中でも成績優秀者が集められたクラスって訳か」
「そうなるね。……どうかな?」
「その辺は任せるよ。俺はこの士官学校に詳しくないし、どういう風に生徒に教えればいいのかってのは分からないし。ただ、一応教える前にそれぞれどれだけの実力を持っているのかを確認する必要はあるだろうけど」
「そうして貰えると、こちらとしても助かるよ。……さて、そろそろ四年のSクラスが模擬戦の時間なんだけど……」
エリンデの口からその言葉が出るのを待っていたかのようなタイミングで、扉がノックされる。
「どうやら時間も丁度良かったようだね。……入ってくれ」
「失礼します」
そう告げて部屋へと入ってきたのは、頭に頭髪が一本もない筋肉質の男だった。
身長はそんなに高くはないが、それでもレイと比べると高い。
年齢は三十代程で、模擬戦の教官と言われれば納得出来る程に厳つい顔をしている。
(剃ってる? 禿げてる? ……多分剃ってるんだろうな)
もっとも、レイはその男を見て抱いたのはそんな気持ちだったのだが。
普通であれば間違いなく萎縮するだろう男の顔だが、レイは今まで何人も厳つい顔付きの男達を見てきている。
それこそ、ギルムの領主でもあるダスカーもその顔は非常に厳つい。
「丁度時間通りに来てくれたね。ありがとうグリンク」
「いえ。……それで、そちらがこの前話されていた方ですか」
「……は?」
スキンヘッドの男だから、乱暴な言葉遣いをするのだとばかり思っていたレイは、その男の口から出て来た予想外に丁寧な言葉遣いに驚き、間の抜けた声を出す。
だがその男の方はレイのような反応に慣れているのだろう。
エリンデにグリンクと呼ばれた男は、レイの言葉に特に驚いた様子もなく頭を下げる。
「初めまして。この士官学校で模擬戦の教官を務めているグリンクといいます。深紅と名高いレイさんとお会い出来て光栄です」
「あ、ああ。うん。レイだ。えっと、春までの短い間だけど、よろしく頼む」
厳つい顔から出てくる丁寧な言葉遣い。それでいてレイと会えて光栄だと言ってる割には特に喜んでいる様子もなく、どことなくどんな態度を取っていい相手なのか分からず、取りあえずそう告げる。
「私の方こそ、レイさんの強さを見て勉強させて貰います」
「どうやら、仲良くやっていけそうだね。では、グリンク。レイ殿をよろしく頼むよ」
「はい。……では、レイさん。行きましょうか」
そう告げ、グリンクはレイを促して学園長室を出て行く。
レイもまた、その後を追って学園長室を出る。
二人並んで廊下を歩いて行くのだが、お互いに言葉を交わすことはない。
元々レイは初めて会う相手と円滑にコミュニケーション出来る程に人慣れてはいないし、グリンクの方も無駄口を叩くような真似は好まない相手だったからだろう。
それでもこのまま黙って移動しているだけでは居心地が悪いと感じたレイは、模擬戦についてグリンクへと尋ねる。
「グリンク、だったよな。模擬戦をやるってのはいいんだけど、俺が担当する三年と四年のSクラスってのは、具体的にどのくらいの強さを持っているのか教えて貰ってもいいか?」
「強さ、ですか。……そうですね」
グリンクの方も、実はレイとの接し方に困っていたのか、レイが話題を振るとすぐに答えてきた。
もっとも、それも当然だろう。レイからグリンクに対する態度と、グリンクからレイに対する態度ではどう考えても後者の方が慎重にならざるを得ないのだから。
片や異名持ちの冒険者、片や士官学校の一教官と、この差は大きい。
「あくまでも大体の指標で、個人によっては大きく違いがありますが、三年のSクラスが冒険者で言えば大体ランクF、四年のSクラスがランクEといったところですか」
「思ったよりも低いんだな」
呟くレイに、グリンクは首を横に振る。
「実戦を殆ど行わず、訓練だけではどうしても限界がありますから。辺境ならともかく、この近辺では強力なモンスターは姿を現しません。勿論全くいないという訳でありませんが、そのようなモンスターを見つけるにはかなりの労力を必要とします」
「だろうな」
レイもこの世界に来てから、辺境のギルム以外の場所へと何度も足を運んでいる。
そうなれば、当然そこに出てくるモンスターは辺境に比べて弱く、数も少ないというのは理解していた。
「ただ……中にはモンスターではなく、盗賊を倒したことのある生徒達もいますので、そのような生徒は他の生徒に比べるとかなり強いと思いますよ」
その言葉に、レイは少しは面白い戦いが出来るかもしれないと考えるのだった。
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