第836話

 最初、レイは自分の前に座っているトラジストが何を言っているのか、その意味が分からなかった。

 勿論その言葉の意味が分からないという訳ではない。

 何故自分にそう言ってくるのかが分からなかったのだ。

 自分の立場がミレアーナ王国寄りであることは既に伝えてある。

 なのに何故、と。

 そう思ったのはレイだけではなく、この場にいる他の者達も同様だった。

 中でも最も動揺しているのは、トラジストを護衛する為の近衛騎士団の者達だろう。

 当然だが、近衛騎士団というのはその多くが貴族出身者で構成されている。

 中には冒険者出身の者もいるが、その数は極めて少ない。

 これは貴族を優遇という意味もあるが、近衛騎士というのは実力もそうだが、礼儀作法を必要としているという一面もある。

 勿論貴族を優遇すると言っても、家柄だけが自慢の者だったりコネだけで入ろうとする者は問答無用で却下されてしまう。

 一定以上……それも近衛騎士という地位から、一定以上のそれなりに高い実力を持ち、礼儀作法もしっかりとしており、皇族に対する高い忠誠心も必要とされる。そんな者達で構成されたのが近衛騎士だった。

 だからこそトラジストが口にした、レイを名誉貴族にするというのは信じられなかった。


「トラジスト陛下、それは……」


 近衛騎士の一人が思わず口を挟みそうになるが、それに対するトラジストの返答は無言で一瞥するだけ。

 その視線を向けられただけで、何かを言い掛けた近衛騎士はそれ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなる。

 本来貴族という地位を得るには、一般人が何らかの手柄を立てて騎士という準貴族の地位を得て、そこから更に幾つもの手柄を立てることにより貴族の中でも最も爵位の低い男爵の地位を得る……というのが一般的だった。

 勿論騎士から男爵になれるような手柄というものはそう簡単に挙げることが出来るものではない。

 その証拠に、最後に騎士から男爵へと爵位が上がった者が出たのは十年以上前となる。

 それだけ一般人から貴族になるには厳しい壁があるというのに、トラジストは伯爵の地位を与えると言ったのだ。

 貴族であることに強い誇りを持つ近衛騎士としては、とてもではないが容認出来ることではなかった。

 もっとも、だからといって何が出来るのかと言われれば、何も出来ないのだが。

 これが何の力もない一般人であれば、裏で何らかの手を回すことも可能だろう。

 皇帝のトラジストが欲している人材をどうにかするのだから、当然用心に用心を重ねる必要があるが、それでも何とかしようと思えば出来る。

 だが、今回の場合はただの一般人ではない。

 いや、貴族ではないのだから身分的には一般人で間違ってはいないのかもしれないが、ランクB冒険者という高ランク冒険者であり、それ以上にベスティア帝国で勇名を馳せている深紅のレイだ。

 迂闊に手を出せば強烈な反撃を食らうというのは、今までのレイの行動を見れば明らかだった。

 上手くことを運べば、それを以てレイがベスティア帝国と敵対したという風に持っていけるかもしれないが、客観的に見てその策略が上手くいく可能性は恐ろしく低い。

 レイはメルクリオやテオレーム、フリツィオーネ、アンジェラといった、地位も実力もある者達と親しいのだから。

 下手な行動をすれば、自分の家が潰されかねないとあれば、手を出したりは出来ない。

 レイの交友関係が普通であれば、思慮の足りない貴族辺りをけしかけて……というのも出来るのだが、この面子を相手にそんなことをすれば、かなりの確率でけしかけた貴族にまで辿り着くだろう。 

 そう考えれば、近衛騎士達に出来るのはただレイがトラジストからの提案を断るように祈るのみだった。


「そう言われても……先程も言いましたが、私はミレアーナ王国の所属となっています。そんな私が、実質的な権益がなくてもベスティア帝国で爵位を貰うというのは、色々と不味いと思うのですが」

「なるほど、確かにそうかもしれぬな。……だが、何故そこまでミレアーナ王国に対して肩入れをする? これは純粋な疑問だが、お主にとってミレアーナ王国というのは暮らしにくい場所ではないのか?」


 トラジストの表情は何かの策略があるとかではなく、純粋に疑問を持ってのものだった。


「そうですね。それは否定しません。ですが、これも先程言いましたが、私が拠点としているのは辺境であるギルムである以上、その辺は特に気になりませんから」

「……余がどうしてもお主に対して爵位を与えたい。そう言っているにも関わらず、拒否をすると?」

「はい。ミレアーナ王国そのものには忠誠心や愛国心といったものはありません。ですがギルムの人々や、数は少ないですが親交を持った者達と戦うかもしれないとなれば、残念ながら爵位を受け取るわけにはいきません」

「惜しいな」


 口の中だけで呟いたトラジストの声だったが、皆が静まり返ってレイとトラジストのやり取りを聞いていた以上は、不思議とその場にいる者達の耳の中に入った。

 だからこそ、その呟きは心からのものだということが分かる。


「そうでもないと思いますが? 私が言うのも何ですが、ベスティア帝国は十分に人材が揃っています。その中に私という存在を入れれば、それは寧ろベスティア帝国という存在が歪むのでは?」

「歪む? それは結構だ。安定というのは誰しも求めるものだが、少し間違えば停滞となる。そして停滞は腐敗を産む。堰き止められた川の水が腐るようにな。それよりは、常にベスティア帝国そのものが変化を続けていく方がいい。少なくても余はそう思っているし、そう思っているからこそ、ここまでベスティア帝国を発展させてきたのだから」


 自らの信念に対する絶対の自負を覗かせながら告げるその言葉は、微かな揺らぎすらも感じさせない。


(なるほど。これがベスティア帝国という大国の皇帝……いや、このような男だからこそ、ここまで国を大きく出来たんだろうな)


 トラジストという男が何故これ程に存在感を発揮しているのかというのを、レイは半ば本能的に理解する。


「お話は分かりました。ですが、やはり爵位の件はお断りさせて貰います」


 ここで下手に相手にどうとでも取れる玉虫色の返事をすれば、それを曲解されるかもしれない。

 そう判断したレイは、はっきりと断りの言葉を継げる。


「……これ程余が頼んでも断ると?」

「はい。申し訳ありませんが」


 レイへと向けられるトラジストの視線は鋭く、剣呑な色すら浮かんでいる。

 下手をすればここで戦いになるかもしれないと思いつつ、それでもレイははっきりと告げる。

 ミスティリングを帝国に預けていれば、妥協しなければならなかったかもしれない。

 だがそのミスティリングは現在鍵の掛かった箱の中に入ってレイの手元にあり、その鍵も持っている。

 そして何より、もし争いになったとしても、レイには奥の手とも呼べる炎帝の紅鎧がある。

 杖のような発動体――レイの場合はデスサイズだが――がないと使用出来ない魔法と違い、スキルは魔法発動体を必要とはしない。

 つまり、いざとなれば自分の実力でどうとでも出来るという判断があるからこその、強気の態度だった。

 ここで戦闘になっても、敵となりそうなのはテオレームとアンジェラ、そして近衛騎士のみ。

 戦力的に考えれば最も強敵なのはヴィヘラだが、この話の流れで敵対するとはレイには思えなかった。

 部屋の中が緊張感で満ち、空気そのものも息をするだけで体力を消耗するかのように錯覚する。

 その緊張感を生み出していたのはトラジストだったが、同時にその緊張感を破ったのもトラジストだった。


「はーはっはっはっは。ここまで余に言われても断るとはな。気に入った!」


 一瞬前までの緊張感に満ちた空気は何だったのかと言いたくなる程の笑い声。

 トラジストにそんなことを言えるような人物はこの場には存在しないのだが。

 その笑い声を聞きながら、ノイズがいたらもしかしたら突っ込んだかもしれないと考えていたレイに、トラジストは笑いを収めると再び、口を開く。


「そうだな、確かお主にはテオレームとメルクリオがマジックアイテムで報酬を与えるという約束だったと思うが」


 何気なくトラジストの口から出て来た一言だったが、それを聞いて一瞬なりとも顔を強張らせたのは、今名前の出て来た二人だ。

 確かにマジックアイテムを報酬として、レイを雇うことになっていた。

 だが、それはあくまでもレイとテオレーム、そしてヴィヘラやエレーナといったその場にいた者達しか知らないことだ。

 少なくても、現在ベスティア帝国にいる中で知っているのはこれだけの筈だった。

 そして、その誰もがトラジストに対してその件を話したことはない。

 だというのに、何故かトラジストはその話を知っていたのだ。

 それはつまり、トラジストの抱える情報網の手が予想以上に長いことを意味していた。

 トラジストはそんな周囲の様子に気が付いたが、それに関しては特に何を言うでもなくレイへと言葉を続ける。


「そうだな、余はお主が気に入った。名前だけであっても爵位はいらぬというその言葉。その若さでノイズと互角に戦えるだけの力。その有り様は、余としても小気味よい。……故に、これを与えよう」


 そう告げ、懐から金属のカードを取り出す。

 それを見た周囲は、再び顔を引き攣らせる。

 先程、レイに対して爵位を与えると言った時程ではないが、それでもトラジストの手にある金属のカードを見た者は驚愕の表情を浮かべていた。

 トラジストは、そのままテーブルの上に置いた金属のカードをヴィヘラの方へと向かって滑らせる。

 ヴィヘラが受け取った金属のカードは、そのままレイの手に。

 周囲の様子からこの金属のカードは余程の代物なのだろうと考えたレイは、一瞬どうするべきか迷ったものの、皇帝から渡された代物である以上は突っ返す訳にもいかず、手に持った金属のカードへと視線を向ける。


「これは……」


 芸術に関しては、全く素養のないレイ。

 それでも、手にした金属のカードの精緻な彫り物には感嘆の声を上げる。

 特に何かの光景を彫っている訳ではない。だがそれでも、曲線と直線を幾つも重ね合わせたような複雑な彫り物は、単純で精緻という相反する印象を同時に見る者へと与えていた。

 そして何より、金属のカードに彫り込まれている『この者はベスティア帝国の友である』という文章。


「ベスティア帝国の友。その立場を示す者だ。余の気持ち……受け取ってくれるな?」


 ここまで退いたのだから、これ以上の妥協は許さない。

 暗にそう告げてくるトラジストに、レイは迷う。

 確かに名誉貴族の地位よりは、この金属のカードの方がいいだろう。

 名誉貴族ともなれば国内外に向けて公表する必要があり、そうなればレイがミレアーナ王国に戻るのは難しくなる。

 少なくてもミレアーナ王国から警戒の目を向けられるのは確実であり、今までのような気楽な立場でいる訳にはいかなくなるだろう。

 ……もっとも、深紅という異名を持ち、グリフォンを従魔にしているということで、レイの名前は本人が思っているよりも遙かに広まっている。その時点で以前よりも動きにくくなっているのは事実なのだが、本人はあまりその自覚を持っていなかった。


(これを受け取った場合、どうなる? ミレアーナ王国内で使えば、確かに色々と不味いことになるのは間違いない。けど、貴族になった時とは違って周囲に喧伝することはない……のか? なら、これはいざという時の為にミスティリングの中に収納しておけば……)


 そこまで考えたレイは、念の為と口を開く。


「もしこの金属のカードを受け取った場合、それは国内外に公表したりするのでしょうか?」


 レイの口から出た言葉に、愉快そうな表情を浮かべるトラジストは首を横に振る。


「これは爵位とは違い、あくまでも個人的なものに過ぎない。故に、公表するつもりはない。もっとも、公表して欲しいと言うのであれば考えんでもないが?」

「いえ、そういうことであればこれはありがたく受け取らせて貰います」


 そう告げて頭を下げたレイは、金属のカードをテーブルの上に戻す。

 ベスティア帝国の皇帝であるトラジストにここまで言われて、その申し出を断るという訳にはいかなかった。

 また、自分の立場を理解した上で公表しなくてもいい代物を渡されたのだから、その心遣いを受ける取るのに多少の不安はあったものの、結局は受け取ることとなる。


「うむ。そう言って貰えれば、余としてもこれを用意した甲斐があったというものだ。はっはっはっは」


 愉快そうなトラジストの笑い声が部屋へと響き渡った。

 その笑い声に、ようやく部屋の中にいた他の者達も安堵の息を吐く。

 だが、レイは気が付かない。その金属のカードが、下手をすれば爵位以上に巨大な爆弾の可能性となることに。

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