第741話
ベスティア帝国第2皇子シュルスの執務室。そこにたった今飛び込んできた人物の口から出た言葉は、とてもではないが簡単に聞き流せるようなものではなかった。
静まり返った執務室の中、最初に口を開いたのは当然の如くシュルス。
「今、何て言った? 深紅がいるという風に聞こえたんだが?」
戯れ言だったらどうなるか理解しているな? そんな意味を込めた問い掛けだったが、執務室に入ってきた貴族は怯んだ様子も見せずに口を開く。
「私の部下の魔法使いは、他者の魔力を感じ取れるという能力を持っています。この能力は大変珍しく持っている者が稀少な能力なのですが、その能力によって現在城に深紅がいるという報告がありました」
「……魔力を感じ取る能力、か。確かにその手の能力を持っている者がいるというのは時々聞くが、深紅の魔力だという確証はあるのか?」
「はい。闘技大会でその魔力を直接感じ取っているので間違いないかと。それに……」
今までは自信満々で説明していた貴族だったが、何故か急に口籠もる。
「どうした? 何かあるのなら、構わないから言ってみろ」
「……その、これに関しては報告を受けた私も完全に信じ切れている訳ではないのですが、深紅の魔力というのは間違えようがない程に巨大であり、同種の能力を持っている者ならまず間違いなく感じ取れる筈だと」
貴族のその言葉に、シュルスの表情がピクリと動く。
苛立ちを吐き出すように大きく息を吐くと、改めて貴族へと声を掛ける。
「なら、何故今なんだ? 深紅の魔力が間違えようがない程に強力であるというのなら、前もってそれを説明したらいいんじゃないか」
「その……本人が闘技大会で深紅の能力を感じ取った時から怯えて自分の部屋に閉じ籠もっていまして……元々気の弱い人物なので」
「気が弱いって言ってもな……いや、まぁいい。結局はこうして報告してくれたんだから、何もしないよりはマシだろう。……デューン」
「は、はい!」
ここで自分に声を掛けられるとは思っていなかったのか、デューンは多少慌てたようにシュルスへと返事をする。
「どうやらお前が白薔薇騎士団と共にいたと言っていたローブの人物は、深紅だった可能性が非常に高い。ほぼ確定と言ってもいい程にな」
「……あのローブが、深紅? ですが、私は以前に深紅と一度会っています!」
「ああ、知っている。あの件でユニコーン騎士団からは苦情が来たからな」
シュルスの冷たい声に、ビクリと動きを止めるデューン。
だが、このままでは不味いと慌てて口を開く。
「あの時に私は深紅と会っているのですが、今日は全く気が付きませんでした。そんなことがあるんでしょうか?」
「ある。お前が知っている深紅というのは、グリフォンを連れた姿だろ。良くも悪くもその印象が強すぎたんだ。だからこそ、ローブを身に纏っている深紅を深紅と認識出来なかった。……ローブ自体も有り触れているものだって話だし」
「それは……」
シュルスの言葉に、デューンは以前に帝都の側で会った深紅の顔を思い出す。
だが、確かに側にいたグリフォンの印象が強い為に、そちらしか覚えていない。
あれだけ自分を虚仮にした相手であるにも関わらず、だ。
そして、先程城の前で会った深紅と思われる相手の顔を思い出そうとするも、その顔と帝都近くで会った相手の顔が一致することはない。
闘技大会を見に行っていれば、もしかしたら深紅の顔をしっかりと思い出せたかもしれない。
だが、不幸なことに――正確には自業自得で――闘技大会の時のデューンは、通行料を商人達から脅し取った一件で謹慎処分を受けていた。
それも、見張り付きでだ。
だからこそ、デューンはきちんとした深紅という人物の顔をしっかりと思い出すことは出来なかった。
「それでシュルス殿下。これからの動きは?」
「……迷うところだな」
アマーレの言葉に、シュルスは微かに眉を顰める。
そんな自らの主君に対し、口を開いたのはレイが城にいるという情報を持ってきた貴族の男だ。
「シュルス殿下、何を迷うのですか? 反乱軍の最高戦力が城の中に……つまり、こちらの手の内にいるのです。それに話を聞く限りでは、白薔薇騎士団が深紅を連れてきたとのこと。で、あれば、この機会にフリツィオーネ殿下共々……」
「駄目だ!」
殆ど反射的に貴族の提案を却下する、シュルス。
貴族の方も、シュルスが姉に対して色々と思うところがあるのは知っているのか、小さく咳払いをしてから口を開く。
「シュルス殿下がフリツィオーネ殿下を慕っているというのは知っています。ですが、今の城の状況をきちんと見て下さい。あの深紅が……カバジード殿下の第1皇子派の討伐軍をたった一人で全滅させた者がこの城にいるのですよ?」
「あの戦いは、別に深紅一人で行った訳ではない。他にも兵士達がいたことが確認されている」
どこか誤魔化すかのように告げるシュルスだったが、やがて自分でもそれを理解したのだろう。小さく溜息を吐いてから口を開く。
「お前の言いたいことも分かる。だが、既に深紅の件はカバジード兄上も承知していると考えられるんだ。それを思えば、こっちで勝手に動けば色々と不味い事態になる可能性も十分にある。深紅が城にいるというのを教えてくれたお前には悪いが、こっちの勝手で手を出す訳にはいかない」
「確かに私は手柄を得たいと思っているのは間違いないです。その為に深紅が城にいると報告しに来たのですから。ですが、それ以外にもここで深紅を押さえればシュルス殿下にとって今後大きな利益になると思っているからです」
じっと見つめる貴族に、シュルスもまた視線を返して口を開く。
「だが、ここでカバジード兄上との関係が悪くなるのは危険だ。特に相手が深紅という切り札を持っている以上はな」
「その深紅を手に入れる好機なのです!」
「……どうやってです?」
シュルスを説得しようとしていた貴族に問い掛けたのは、アマーレだ。
いつものように表情を殆ど変えずに問い掛けるその言葉には、別に相手を論破しようという思いがあるわけではない。純粋に、どうやって深紅を捕らえるのかという疑問のみがある。
「どうやって? それは……」
言葉を返そうとした貴族は、そこで詰まる。
当然だろう。相手はたった一人で一軍に迫る……もしくはそれを超える力を持っているのだから。
そんな相手を捕らえる、あるいは殺すとなれば、当然相応の戦力を出す必要がある。
だが反乱軍との戦いでは自分達が不利な状況で、そんな戦力を出す余裕があるかと言われれば、殆どが否と答えるだろう。
勿論ここで深紅を捕らえることが出来れば反乱軍の戦力は大きく減るというのは理解しているのだが、それでもここで大きく自分達の戦力を減らしたくないという思いがある。
特に第1皇子派と第2皇子派が組んでいる現状では、どうしても相手の隙を伺ってしまうのはしょうがないだろう。
この内戦が終わればまたすぐに対立することになるのだから、出来ればお互い自分達が戦力を温存しておきたいと思うのは当然だ。
「お分かりですか? ここが戦場であれば、まだ何とか妥協も出来るでしょう。戦場という広い場所であれば、お互いに戦力を消耗するのですから。ですが、今回の場合は相手が深紅一人。それも戦場となるのがこの城である以上、どうしても軍勢で攻めるという訳にはいきません。場所にもよりますが、十人から二十人くらいでしょう」
そして、下手をすれば選び抜かれた精鋭までもが全滅することになる。
暗に言われた言葉を聞き、貴族は唸る。
それが事実だと理解してしまったからだ。
「では……いつまでになるのかは分かりませんが、深紅をこのまま城にいさせると?」
「そうなる。だが、奴にしてもいつまでも城にいるという訳にはいかないだろう。ここは奴にとって敵地であるのは変わりないのだから。もし仕掛けるとすれば、奴が帝都から出てこちらも十分に戦闘準備を整えて待ち構えている時だな」
シュルスの言葉に、貴族の男が納得したように頷く。
「なるほど。城で奴を討てないのは、戦場となる場所が狭いから。ならば広い場所でカバジード殿下と共に奴を待ち受ける。確かにそれなら……」
だがその貴族の言葉にまたしても口を挟んだのはアマーレだった。
「確かにそれならいずれ深紅も討ち取れるでしょう。異名持ちではあっても、年齢はまだ十代半ば。消耗戦を仕掛ければ、確かに勝つことは出来るかもしれませんが……それだとこちらの戦力も消耗してしまいます。そうなると、メルクリオ殿下率いる反乱軍に対してはどうなさるのです?」
「アマーレの言いたいことも分かる。だが、これは絶好の機会なのだ。そもそも、ここで深紅を倒してしまわなければ、結局はメルクリオと合流して万全の態勢でこっちに攻撃を仕掛けてくる」
「それは確かにそうですが……」
口籠もるアマーレとしては、出来ればここでシュルスには深紅と敵対して欲しくなかった。
別にシュルスの危険を考えての言葉ではない。
いや、深紅と敵対するのだから、シュルスの身に危険が及ぶ可能性は十分にあるだろう。だが、それならシュルスは指揮を部下に任せて現場に行かなければいいだけの話だ。
それでもシュルスを今回の件に参加させたくなかった理由。それは……
(フリツィオーネ殿下は、間違いなくメルクリオ殿下に合流するつもりだ)
証拠がある訳ではない。現在の状況や、フリツィオーネの周辺に放っているアマーレの手の者からの報告を聞いて予想した結果でしかない。
何か明確な証拠は? と聞かれれば、女の勘としか答えることが出来ないだろう。今はあくまでも状況証拠でしかないのだから。
もっとも、フリツィオーネの下に深紅がいるというのは決定的な証拠だろう。
だが、アマーレはシュルスがフリツィオーネを慕っているのを知っている。
最近でこそ態度に表さなくなったが、それでも心の底で慕っているというのは、幼い頃から共に育ってきたアマーレにしてみれば、見抜けない筈がない。
だからこそ、出来ればシュルスにフリツィオーネの裏切りが明確になるのは少しでも遅れさせたいと思っていた。
最終的には知らせなければならないのだろうが、少しでも後で……と。
それが副官ではなく、乳兄弟、幼馴染み。そして男と女の感情故だというのは分かっている。
分かっていてもそう考えてしまうのは、常に冷静に見えるアマーレであってもやはり人間だということなのだろう。
「取りあえず、カバジード兄上に連絡を取れ。この件をどう処理するつもりなのかは聞いておく必要がある」
アマーレが考えに没頭している間に、シュルスが考えを纏めたのだろう。その声でアマーレは我に返る。
「はい。すぐにでも連絡を取ってみます。それでシュルス殿下。私達の方でも一応準備は整えておいた方がいいと思うのですが、どうしますか?」
これ以上何かを言えば、寧ろ不信に思われると判断したアマーレの言葉に、数秒考えたシュルスは頷きを返す。
「そうだな。こっちも確かに手をこまねいておくことはないか。……だが、派手な動きを見せればカバジード兄上はともかく、フリツィオーネ姉上にも知られるかもしれない。恐らくは俺達とメルクリオの間を取り持とうとしてこんな暴挙に出たんだろうが……」
溜息を吐きつつも、シュルスの表情にはそれ程驚きの色はない。
以前から何度かフリツィオーネの突拍子もない行動には振り回されてきたので、ある種の慣れがあったからだろう。
だが、今回に限ってはそれも意味は成さない。
既にシュルスは、メルクリオを倒すべき敵と判断している。勿論出来れば殺さないようにして捕らえたいと思ってはいるが、それにしたって出来れば、という程度だ。
「とにかく、何があろうとも動けるようにだけはしておいてくれ。……カバジード兄上が以前言っていた、深紅に対する切り札が上手く使えればいいんだが。どう思う?」
シュルスに視線を向けられたアマーレは、少し考えて首を横に振る。
「確かにカバジード殿下のことですから、全く効果がないものを切り札とは呼ばないでしょう。ですが、残念ながら私達はそれがどれ程の効果を発揮するのか直接見た訳ではありません。その辺を考えると、過剰な期待はしない方がいいかと」
「そうか」
頷くシュルスだったが、そこで今まで空気となっていたデューンが口を開く。
折角シュルスの執務室に来たのだから、自分の存在を強く印象づけたい。そういう思いがあったのは事実だろう。
同時に、ここは手柄を立てるチャンスと思ったのもある。
「シュルス殿下、ここは私に任せて下さい。こう見えて一度は深紅と相対したことがある身。この経験を活かす為にも……」
「いや、その必要はない。お前は余計なことはせずにいつも通りに過ごせ」
だがシュルスにしてみれば、余計な騒動を起こすこの男が何かをすれば相手に気取られるかもしれないと思い、あっさりと却下してそう告げるのだった。
「なっ!?」
まさか自分の意見が即座に却下されるとは思わなかったデューンの驚きの声が、執務室の中に響く。
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