第726話

 ガラスで出来たコップが砕ける音が部屋の中に響き、そのガラスのコップを持っていた男の声が部屋に響く。


「馬鹿な……本当かそれはっ!?」


 その声に宿っていたのは、信じられない。信じたくないといった感情の他に、憎悪……いや、怨念のようなものも混じっていた。

 それ故に、その言葉を発した男の……シュヴィンデル伯爵の周囲にいた他の貴族達は思わず数歩後退る。


「カバジード殿下の編成した討伐軍が……奴の手で壊滅的な被害を受けただと……」


 そう。たった今仲間の貴族から聞いた噂話は、討伐軍が半ば壊滅に近い被害を受けたというもの。

 この場にいるレイに対して恨みを持つ者達は、帝都からレイが姿を消してからも必死にその姿を追い求めてきた。

 中には、既にミレアーナ王国に戻ったのではないか? そんな――仇を討てないのではないかという――不安を口にした者もいたのだが、それでもシュヴィンデル伯爵は諦めずに……いや、執念深くと言ってもいい程執拗にその姿を求めて動いていた。

 鎮魂の鐘の方に連絡を取っても現在調査中の言葉しか戻って来ず、それでもレイの姿を探していたのだが……その消息が今日噂という形で判明したのだ。

 それも、半ば最悪に近い形で。

 第1皇子派が中心となって結成された討伐軍が派遣されたのは、当然シュヴィンデル伯爵達も知っていた。

 だが、それから数日が経っても全く何の報告も――それこそ戦いの途中経過といったものも――ないのを疑問に思っていたのだが、まさかその原因が自分達の怨敵にあるとは思いもしなかった。


「そんな、たった一人で討伐軍を……それもカバジード殿下の手の者を壊滅させるなど」

「いや、噂では深紅一人となっているが、まさかそんなことはあるまい。そもそも、確かに深紅は強力な魔法を使うのかもしれないが、それにしても六千人が一度に殺されるようなことが起きるとは思えん」

「ですが、討伐軍が全滅したというのは事実なのですよ?」

「待て。そもそも、討伐軍が全滅したというのであれば、何故こんな噂が流れている? 本当に全滅したのなら、まだ帝都の者は討伐軍がどうなったのかを知る術はないのでは?」

「知る術がないというのはちょっと言い過ぎだろう。商人や冒険者、旅人といった者達が通りかかって討伐軍の全滅を知らせたという可能性もある」

「とにかく、幾ら何でも深紅一人に討伐軍が全滅させられるのはおかしい。儂は軍事には詳しくないが、それでもこれが異常な出来事なのだというのは分かる」

「あの、セレムース平原でも使われた炎の竜巻が使われたのでは?」

「だが、あの時とて被害を受けたのは先陣部隊だけであり、そこから生き延びた者もいる筈」

「それは……」

「つまり、こういうことなのでは? 確かに深紅の活躍で討伐軍は壊滅的な被害を受けた。だが、それを行ったのは深紅だけではなく、他の者も協力していた。深紅が仕留め損なった者達は深紅以外の者が仕留め、それを生き延びた者が帝都に戻ってきて報告した」


 貴族の一人が告げた言葉に、周囲で混乱して好き勝手に喚いていた者達も思わず納得の表情を浮かべる。


「ですが……」


 そうして、再び他の貴族が何かを言おうとした、その時。


「ふざけるなぁっ!」


 部屋の一室にそんな怒声が響き渡る。

 その声を発したのは、この場にいる貴族達の纏め役でもあり、中心人物でもあるシュヴィンデル伯爵。

 普段は厳粛という言葉が似合うような貴族であるシュヴィンデル伯爵だが、今その顔に浮かんでいるのは憎悪のみ。

 目を吊り上げて憎悪を剥き出しにしているその姿は、とても普段のシュヴィンデル伯爵と同一人物には思えない表情。

 これまでは、確かに深紅の名前が出れば顔を険しくもした。だが、それでもここまで感情を剥き出しにした様子を見せることはなかった。

 もっとも、これまでにもシュヴィンデル伯爵が激昂するのは幾度もあったのだが、それを見せるのはあくまでも人の……正確には貴族のいない場所だけだった。

 その後片付けをするメイドや執事といった者達は、当然シュヴィンデル伯爵の様子がおかしいのは知っていたのだが。

 それでも、シュヴィンデル伯爵の一人娘でもあるウィアが婚約者の死で自らの部屋に閉じ籠もっているのを知っている為、この荒れようもしょうがないとは思っていた。

 だが……今はこれまで取り繕っていた貴族達の前でその姿を露わにしたのだ。

 普段のシュヴィンデル伯爵の姿しか知らない者にしてみれば、狂ったのかと思う者が出てもおかしくないだろう行動。

 しかしその本人は周囲からの視線に全く気が付いた様子もなく、座っていたテーブルへと拳を振り下ろす。

 幸い、ここは城の中にある一室であり、当然部屋の中にある家具も一級品で丈夫な物が揃っている。

 そのおかげで拳が振り下ろされてもテーブルを破壊するような事はなかったが、もしこのテーブルが平民が使うような物であれば破壊されていただろうと思われる程の音を立てる。

 振り下ろされた拳がテーブルを破壊出来なかった以上、当然その拳にはより大きなダメージがあり、皮が破れ肉が見え、血が流れていた。


「シュ、シュヴィンデル伯爵?」


 貴族の一人が恐る恐るといった様子で尋ねる。

 あまりにいつもと違いすぎる様子に、首を傾げながらの行為だったが……それに戻ってきたのは、血走った目。


「ひぃっ!」


 そんな悲鳴で我に返ったのだろう。シュヴィンデル伯爵はようやく自分が何をしたのかを理解し、小さく咳払いをする。


「済まない、見苦しいところを見せた。それよりもこれからどうするかだが……何か意見のある者はいるか?」


 先程の態度を誤魔化すかのように尋ねるシュヴィンデル伯爵だったが、それに戻ってくるのは戸惑ったような視線。

 そんな中、この場に集まっている貴族の中の一人が何かを憚るかのように口を開く。


「これからどうするかと言われますが、そもそも深紅の始末は鎮魂の鐘に任せた以上は私達が何かをする必要はないのでは? もしこちらの判断で勝手に何かをした場合、それが向こうの邪魔になる可能性もありますし」


 そう提案する貴族だったが、正直に言えば何もしたくないというのがその貴族の本心だった。

 元々この貴族がシュヴィンデル伯爵を始めとした一派に入っているのは、春の戦争で弟が戦死したからだ。

 だが貴族という身分を考えれば、家族と仲のいい方が珍しい。

 そういう意味では、この貴族の場合は弟が自分が就くべき当主の座を狙っていたということもあり、同時に兄弟というよりは当主の座を巡るライバルという意識の方が強かった。

 なのに何故この集まりに参加しているのか。それはひとえに、この集団に参加することが自分と家にとって利益になると判断したからだ。

 皆が一致団結して深紅という獲物を狙う。

 敵を外に作って集団を纏めるというのは古来から良く行われてきた手法であり、この集まりも自分が貴族の当主となった時に使える。そう思ったからこそ、この集まりに参加した。

 だが……それも、ここのところ大きく話が逸れていっているように思える。

 そもそも敵を外に作るのはともかくとして、その敵が強すぎたのが問題なのだろう。

 鎮魂の鐘という存在を使っても倒す事が出来ない。そんな相手なのだから。


「……」


 貴族の言葉に、シュヴィンデル伯爵は先を促すように視線を向ける。

 ただし、シュヴィンデル伯爵の目は半ば狂気に近い色を帯びており、それに気が付いた貴族は背筋に冷たいものを感じながらも、何とか刺激しないように言葉を紡ぐ。


「つまり既に仕事を依頼した以上、私達はただ結果が出るのを待てばいいかと」

「……貴公はそう言うが、手元にいた時点でもどうにも出来なかったのだぞ? それが反乱軍の中にいるとなれば、奴を始末する難易度はより上がるのは分かると思うが?」


 迂闊なことを言えば、自分が殺されるかもしれない。そんな狂気すら宿った視線に、貴族は何とかこの場をやり過ごすべく頭を回し……ふと、反乱軍という言葉に思いつくものがあった。


「では……討伐軍に参加するというのはどうでしょう? 今までシュヴィンデル伯爵や私達が手の者を使わずに鎮魂の鐘に依頼したのは、派手なことが出来なかったからという一面がありました。ですが、今は深紅に対して明確に敵対しても問題のない大義名分があります」

「それは私も考えた。だがそもそも私達が鎮魂の鐘に依頼をしたのは、こちらの戦力では奴に勝てないと分かっていたからだ」

「確かに私達だけの戦力であれば、そうなります。悔しいですが、奴の戦闘能力は異常と言ってもいい程ですから。それは闘技大会の決勝を見た者なら、誰もが納得するでしょう」


 ランクS冒険者、不動のノイズを相手に繰り広げた戦いは、当然この場にいる全員が見ている。

 自分達の家族や友人の仇の姿を忘れまいという思いでの行為だったが、それがノイズと互角に戦っている光景を見せられ、その強さを再認識してしまった。

 この部屋にいる他の貴族達も、その時のことを思い出したのか先程までの勢いが少し衰える。

 その一瞬の隙を逃さないように、その貴族は口を開く。


「ですが、今回は違います。私達だけではなく、カバジード殿下、シュルス殿下の戦力をも当てに出来るのです。それに、両殿下とも反乱軍に負けた以上は後がありません。このままではメルクリオ殿下の下風に立つのは確実になってしまう以上、何としても反乱軍に対して大きな勝利を挙げたい筈です」

「それに乗れ、と? だが、フリツィオーネ殿下はどうする?」

「フリツィオーネ殿下がどう出るのかは分かりませんが、そもそもフリツィオーネ殿下は争いを好みません。討伐軍には参加せず、帝都の守りを固めるということになるかもしれませんし」


 その説明に、その場にいた者達が納得したような表情を浮かべる。

 実際、フリツィオーネの性格を考えると、そのような事態になっても全くおかしくない……いや、寧ろ納得すら出来るからだ。


「……ふむ、なるほどな。確かに考えてみる余地はあるか」


 シュヴィンデル伯爵が頷き、部屋の中にいる他の貴族達へと視線を向ける。

 言葉を発さずとも、何を言いたいのか。視線を向けられた貴族達はそれを理解出来た。

 レイに対して深い恨みを持っている貴族達にしてみれば、その提案は渡りに船といえる。


「やりましょう、シュヴィンデル伯爵!」

「そうです! 鎮魂の鐘はいつまで経っても深紅を仕留められない。であれば、私達の手で!」

「所詮鎮魂の鐘は腕利きだと言われてはいても、その程度のもの。当てにする必要はありません。我等の力で深紅の首を!」

「いや、待て。もしもということがある。一応鎮魂の鐘に対しての依頼は取り下げないでそのままということにしておく方がいい」

「いや……だが、ここまで何の成果も上げられなかった者達だぞ? そんな奴等を当てにする必要は……」

「だから、もしかしてだ。何かが間違って冒険者になったばかりの者がドラゴンを倒すだけの幸運を得られれば、鎮魂の鐘如きでも何らかの成果を得られるかもしれないだろう」


 喋っているうちに気分が盛り上がってきたのだろう。鎮魂の鐘を貶しているその様は、半ば興奮状態にある為か殆どの者が異常を感じなかった。

 これまで抑えに抑えてきた苛立ちが爆発した形だ。

 そんな中、先程シュヴィンデル伯爵に討伐軍への参加を進言した貴族だけが内心で安堵の息を吐いていた。


(良かった、これで暴発するようなことはないだろうし、深紅とぶつかるにしても私達だけではなく討伐軍の兵士もいる。少なくても、私達だけで挑むよりは圧倒的に生き残れる確率は高い筈)


 この貴族にしてみれば、他の貴族も……そして討伐軍ですら自分が生き残り、自分の戦力を消耗させない為の盾でしかない。

 そもそも自分の潜在的な敵であった弟を倒してくれた深紅に対しては、恨みどころか感謝の一つも言いたいというのが正直なところだったのだから。

 もっとも、そんな感謝の気持ちよりもこの集団の中で何らかの利益を得る方が大きな価値を持つのも事実。

 もし深紅を助けられるような機会があっても、決して助けようとは思わなかっただろう。

 寧ろ、嬉々として自分が最大限の利益を得るべく、その身柄を確保する筈だ。

 シュヴィンデル伯爵に渡してもよし、自分でその首を獲ってもよし。


(ただ、幾つものマジックアイテムを持っているという話だったから、そっちは出来るだけ手に入れておきたい。それと、グリフォンか。飼い慣らすのは無理だろうから、素材になるが……こっちには手を出さない方がいいか。あの大空の死神を相手に勝つというのは不可能に近いし)


 内心でまだ見ぬ利益を考え、それを得られるだろう自分を想像し、小さく笑みを浮かべつつ討伐軍の話に参加するべく貴族達の話に入っていくのだった。

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