第689話

 その男は、自分の部屋で不愉快そうに指先で机を叩いていた。

 目の前にいる人物の報告を聞けば聞く程に男の苛立ちは増していく。

 やがて、その苛立ちも限界に達したのだろう。指先ではなく、拳を握りしめて机を殴りつける。

 ドンッ、という鈍い音が部屋の中に響き渡り、報告を持ってきた相手は思わず息を呑んで口を噤む。

 そんな相手に苛立ちを込めた視線を向けながら、男は口を開く。


「つまり、メルクリオの陣営の情報は一切入手出来なかった。そういうことを言いたいんだな?」

「いえ、それはまだ確実とは言えません。シュルス殿下の配下である以上、影働きの者達は優秀です。ですが、何らかの突発的な事態があった場合はどうしようもなく……」


 自分の仕える相手に、何とか今回の件は自分に責任はないと言わせようと言葉を紡ぐ男だったが、それを見たシュルスは再び苛立たしげに拳を机へと叩きつける。

 ドンッという、先程よりも大きい音に思わず言葉を止める男。


「カバジード兄上がメルクリオの情報を手に入れるよりも前に、俺達がその情報を手に入れる。そうすればカバジード兄上が動くのに先んじて動き、反乱軍となったメルクリオをどうとでも処分出来る。お前はそう言って俺に偵察をするように進言したよな?」

「は、はい。それもこれも、全てはシュルス殿下のことを思ってのことで……」


 媚びへつらったような笑みを浮かべてそう告げてくる部下に、シュルスの視線に籠もる険の色が強まる。


「俺はそれを却下した筈だ。今はまだ動くのに早いとな。……違ったか?」


 チラリと視線を向けて尋ねたのは、目の前にいる男ではなく、部屋の隅の方にある机で書類を整理していた二十歳くらいの女。

 その女は、自分の上司であり主君でもあるシュルスが……ベスティア帝国の第2皇子でもあるシュルスが見るからに苛立たしげな雰囲気を醸し出しているというのに、全く気にした様子もなく口を開く。

 シュルスの前にいる貴族の男が、何とか誤魔化して欲しいと視線で懇願しているのも無視して。


「そうですね。確かにそのように聞いています。私達の戦力は今のところカバジード殿下よりも低い為、今は少しでも戦力を温存するべきという結論になっていたかと。なのに、自分が手柄を挙げたいからという理由でただでさえ少ない諜報部隊を動かすというのは、呆れるよりも笑いしか出てきませんね」


 笑いしか出ないと言いつつも、女の視線にあるのは凍えるような視線。

 そもそも諜報部隊を育てる為には大量の資金が必要であり、それを用意する為にシュルスだけではなく、その側近でもある女もかなり苦労したのだ。

 だというのにその諜報部隊にこうもあっさりと被害を与えられたとなれば、眼差しが冷たくなるのも仕方がなかった。


「そ、それは……わ、私はあくまでもシュルス殿下の為を思っての行動でした。よもや、メルクリオ殿下の手勢にあれだけの実力者が揃っているなどとは。そ、それにしても派遣された者達も情けない。一人くらいは戻ってきても当然でしょうに。大体……」


 自らの責任をどうにか逸らそうとする貴族の男だったが、その態度が余計にシュルスを苛立たせる。

 更には十分に手を掛けて育ててきた諜報部隊の者達に対しても軽んじるような発言をされては、元々気の長い方ではないシュルスがそれ以上我慢出来る筈もなかった。


「黙れ!」


 怒声と共に再び振るわれた拳が机へと叩きつけられ、部屋の中に鈍い音を響かせる。

 先程までよりも激しい音に、貴族の男はビクリと震えて口を噤む。

 他の二人の皇子に比べると内政面ではそれ程優れていないが、こと武力に関して言えば、目の前の第2皇子は他の二人を軽く陵駕するのだ。

 それこそ、軍隊ではかなり上位に位置するだろう程には。

 それだけの腕を持ち、なおかつ本人の気も決して長くないとなれば、絶対に怒らせるべきではなかった。

 もっとも、だからこそ内政の得意な貴族が自分達を高く買ってくれるだろうと、更には次期皇位継承者最有力候補でもある第1皇子のカバジードに取り入ることが出来なかった者達の多くが、こぞって第2皇子派に所属しているのだが。

 現在シュルスの前で小さくなっているこの男もそのような者達の一人であり、だからこそシュルスにしても能力的には大きく期待してはいなかった。

 だが、このままでは自分の将来が危ぶまれると判断して、抜け駆けを図り……結局は手柄をたてることも出来ずに、それどころかシュルス直属の諜報部隊を勝手に動かし、更には動かした者達が誰一人として戻ってこないという結果になり、こうしてシュルスの前で小さくなっているのだが。


「……はぁ。まぁ、いい。メルクリオの陣営がある程度の力を持っているというのは確認出来たんだ。取りあえずそれが分かっただけで良しとしておいてやるよ」


 これ以上ここで怒っていても時間の無駄だと判断したシュルスがそう告げると、それが自分の行動によるもの……即ち手柄だと判断したのか、貴族の男の目が強く輝く。


「シュルス殿下のお役に立てたようで何よりです」

「……ああ、そうだな。取りあえずお前はもういいから下がれ」

「は!」


 つい数秒前までとは打って変わって喜びの表情を浮かべた貴族は、一礼をして部屋を出て行く。

 呆れた様にその後ろ姿を見送ったシュルスは、額を押さえながら深い溜息を吐く。


「有能な人材の多くが兄上についている。それは分かる。けど、だからってああも無能な奴をこっちに押しつけるというのは……これも兄上の攻撃の一つか?」

「そうですね。だとすればかなり有効な攻撃手段かと。無能なだけならまだしも、無能でありながら活発に動いているので、こちらの被害は大きくなりますし。……もっとも、今までは大人しくしていたのが何故急にああいう行動を取ったのかは疑問ですが」

「……兄上の仕業だと思うか?」


 一瞬考えてから告げるシュルスだったが、それに戻ってきたのは首を横に振るという行為のみ。

 シュルスの副官という立場にある女だが、それでも先程の貴族がどういう意図を持ってあのような手段に出たのかは全く分からなかったのだ。

 いや、貴族本人は手柄を立てたかったというのは事実だろう。だが、あの男を動かした理由が理解出来なかった。

 他にも手駒になるべき存在は多くいる中で、何故あの男だったのか。


「特に理由はないのかもしれませんね」

「……たまたまってことか?」

「ええ。向こうにしてみれば牽制としての行動だったのではないかと」

「牽制でこっちが大事に育ててきた諜報部隊に大きな被害が出るというのは、洒落にならないんだがな」


 副官の言葉に、やっていられないと言いたげにシュルスは溜息を吐く。

 自分の派閥には有能な者もいるが、それでもやはり兄の派閥に入れなかった無能な者も多い。そして、その無能な者達が自分の足を引っ張っているのを思えば、無性にやるせない気分になる。


「そういう意味ではメルクリオの方が恵まれているのかもな」

「確かにテオレーム将軍は有能な人物ですから。ですがシュルス殿下、無能な者であっても使いようはあります。いえ、寧ろそのような者をどう使いこなすかが、上に立つ者の実力と言えるでしょう」

「分かってるよ。奴等自体は無能だとしても、その部下まで全てが無能揃いって訳じゃないしな。それに、貴族だけあってある程度の戦力は持っている。数は力である以上、奴のような者を使いこなすのも皇帝としての資質の一つだって言うんだろ」


 シュルスの言葉に、副官の女はニコリと笑みを浮かべて口を開く。


「殿下がそれを自覚しているのであれば、父上も喜んでくれるでしょう」

「……アトミスが生きていればな」


 自分の師とも呼ぶべき男の顔が脳裏を過ぎるが、既に病でこの世を去っている者を蘇らせることが出来る筈もない。

 古代魔法文明のマジックアイテムがあれば可能かもしれないが、それは伝説というよりもお伽話にしか存在しない代物だ。

 やがて暗い雰囲気を嫌ったのだろう。シュルスは小さく咳払いをしてから話題を変える。


「あの男にはきちんと己の罪を償って貰わなければならないな。メルクリオの軍……反乱軍に対して一当てさせてみるか。それで少しでも向こうの手札を見ることが出来れば、偵察としては十分だろう。諜報部隊を損耗させたのだから、その分の情報は奴に出して貰わなければな」


 仮にも自分の派閥の部下であるというのに、シュルスの言葉には捨て駒とするのに一切の躊躇は存在しない。


「そうですね。確かに向こうの手札を見るというのは重要です。そちらの情報に関しては?」

「……隠しておいてもしょうがないだろう。兄上や姉上にも流してやれ。それは一応兄上や姉上への貸しとなる」

「フリツィオーネ殿下ですか。あのお方は今回の件をどう思っているのでしょう? 正直、私としてはあのお方がメルクリオ殿下の討伐に賛成するとは思えないのですが」

「確かにな。だが参加せざるをえないだろう。俺や兄上がメルクリオの奴を捕縛しようものなら、その命がなくなるのは確実だ。だからこそ、メルクリオの奴を軟禁する時にもこちらに手を貸すことにより、その命を守ったんだからな」


 優しい姉ではあるが、それでいて中々に大胆不敵な手を打つ。自らの姉の姿を思い出しながら、口を笑みの形に歪める。

 実際、普通であればメルクリオの方に荷担しただろう。そうすればカバジードとシュルスに対して、メルクリオとフリツィオーネと、丁度二人ずつに分かれるのだから。

 だが、フリツィオーネはそれをしなかった。例え二人ずつに分かれたとしても、勢力や戦力で考えた場合は明らかに不利だと理解していたからだ。

 そして弟の命を守る為に、カバジードとシュルスの方へと与することを選択する。

 結果的には弟の命を守り、自分の勢力を温存し、かつ二人の皇子への影響力もある程度は確保した。


「それでも、結局は第3皇子派が暴発して台無しになってしまいましたが」

「それはしょうがないだろ。軟禁された上で命を狙っているって噂が広まればな。奴等にしてみれば忠誠を誓っている主の命の危機だ。多少怪しかろうが、行動に出るしかなかった……といったところだろう。裏を取っている余裕なんかなかっただろうし」


 不自然な程急速に広まったメルクリオが暗殺されるという噂が、シュルスの脳裏を過ぎる。

 誰かが意図的に流した噂なのは間違いないが、それが誰なのかはまだ分かっていない。

 自分が流した訳ではない以上、最有力候補は目下最大の競争相手でもある兄だと判断しているが、それだって絶対ではない。

 強国でもあるベスティア帝国のお家騒動だ。当然そうなれば利益を得る者も多い以上、誰が仕組んだとしても不思議ではないのだから。

 一番得をした相手が怪しいとなれば、ミレアーナ王国が最も怪しいようにも思える。

 ミレアーナ王国の長年の宿敵がベスティア帝国であり、そのベスティア帝国が内乱で国力を減らすというのは、ミレアーナ王国にとってはこれ以上ない程の利益なのだから。

 あるいは、かつてベスティア帝国が占領した周辺国家が独立するのを目的として裏で動いたという可能性もある。

 その辺を考えると、ベスティア帝国が強国だけに疑うべき相手は幾らでも出てくる。


「ともあれ、既に賽は投げられた。こうなった以上、こちらとしてもメルクリオを本気で潰すだけだ。その為にも……」

「向こうの手の内を少しでも暴く、ですね」

「そうだ。……奴の手勢だけでは兵数が少なすぎるから、使えない奴を何人か見繕って手柄を立てる好機だと煽ってやれ。手柄しか目に見えていない奴等はこぞって参加するだろうさ。それを見届けるのは俺の騎士団にやらせる」

「……シュルス殿下を中心とした第2皇子派としては、正直戦力を低下させ過ぎるのは困るのですが」


 いかに無能な者達であるとしても、やはり数は力だ。異名持ちのように質で数を凌駕する存在もいるが、それは基本的に例外。

 である以上、自分達の勢力の戦力を減らすというのは出来るだけ避けたいというのが、副官としての正直な思いだった。

 そんな様子を見て取ったのだろう。シュルスは小さく肩を竦めてから口を開く。


「アマーレの心配も分かるが、釣り上げる獲物が大きいのだから、当然餌もそれ相応に豪華なものにしなければいけないだろう? それに、出撃させるのはあくまでも捨て駒の無能な者共だ」


 そんな主君であるシュルスの言葉に、アマーレと呼ばれた副官の女は数秒程考え、深く溜息を吐いてから口を開く。


「分かりました。……予想ですが、ヴィヘラ殿下を慕っていた者達が合流することを考えると、第3皇子派の戦力は二千人程と思われます。そうなると、こちらから出す戦力としては三千人くらいで構わないでしょうか?」

「少し多く……いや、練度の差を考えればこのくらいで丁度いいのか」

「はい。向こうには閃光の異名を持つテオレーム将軍がいますので、このくらいの人数差で丁度いいかと」

「そうか。なら、兄上と姉上に根回しをしてくれ。特に姉上の方はメルクリオを生け捕りにするようにと要請してくるだろうから、それを呑めば認めるだろう。兄上の方は俺の率いる戦力が減るというのは歓迎すべきことだろうしな」

「分かりました。……いよいよですね、シュルス殿下が皇帝となる為の第一歩です」


 副官にして幼馴染みでもあるアマーレの言葉に、シュルスは獰猛な笑みを浮かべて頷くのだった。

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