第645話
闘技大会の運営委員を務めているその男の運は最悪だったと言ってもいい。
いつの間にか姿を消していた同僚を探して歩いていると、突然聞こえてきた物音。
それもただの物音ではなく、誰か……あるいは何かが暴れているような破壊音だったのだから。
嫌な予感を覚えつつも、何か問題が起きれば後々面倒な事態になるだろうという思いから、物音のしている部屋へと近づく。
その部屋が選手控え室として使われている部屋であるというのは、闘技大会の運営委員として働いているのだから当然知っていた。
てっきり試合に負けた選手が八つ当たりでもしているのではないか……更に考えれば、もしかして姿の見えない同僚がその八つ当たりに巻き込まれているのではないか。
そんな思いで控え室に顔を出したのだが、そこで行われていた出来事は男の予想を遙かに超えた出来事だった。
自分が探していた同僚が短剣を振るって男へ……この闘技大会でも色々な意味で目立った存在である深紅のレイへと襲い掛かっている光景を目にしたのだから。
そしてレイはそんな男が姿を現したのをこれ幸いと、持っていた大鎌を振るってリロネイを殴りつけ、動きを封じて自分に向かって引き取るのかどうかと聞いてきたのだ。
「はぁ!? いや、何がどうなってるんだよ。何だってリロネイがあんたに襲い掛かってるんだ?」
一瞬レイの方からリロネイに喧嘩を売ったのではないかという疑問もあったが、それはすぐに否定する。
リロネイが一方的にレイへと襲い掛かり、レイ本人は防御に専念していた為だ。
……もっとも、男が姿を現してからのやり取りの中で思い切りデスサイズの石突きで打ち据えたりもしていたのだが。
そして何よりも、男はレイに聞かなければならないことがあった。
「それに洗脳って一体どういうことだよ!?」
「言葉通りの意味だ。……ちっ、動くな」
背中を踏んで身動きが出来ないようにしつつ、デスサイズの石突きでリロネイの手を……より正確には短剣を持った手を殴りつけ、その短剣を遠くへと弾き飛ばす。
「運営委員の協議により、その鞭の使用は不可能となりました。これを破ると失格となると理解しての行動ですか?」
「……おい、リロネイ? お前この状況で一体何を言ってるんだよ」
自分の同僚が何を言っているのか理解出来ない。そんな風に尋ねる男だったが、レイはその言葉に首を振る。
「無駄だ。言っただろ、このリロネイとかいう男は洗脳されているって。恐らく自分で何を言っているのかも理解していないだろうな」
「洗脳……そう言われても、どうしろと……」
戸惑ったような態度でレイの方へと視線を向けてくる男。
それも当然だろう。確かに闘技大会の運営委員をしている以上、一般人より荒事に慣れてはいる。
だがそれにしても、あくまでも一般人よりは慣れているといった程度に過ぎず、闘技大会に参加している選手とは比ぶべくもない。
そんな男に、床には幾つもの死体が転がっており、控え室の中はズタボロ、更には自分の同僚が意味不明なことを口にしながら闘技大会に参加している選手へと襲い掛かっているような光景を見れば、混乱して当然だろう。
しかし……レイはそんな男に対して一切の容赦もせず口を開く。
「そっちで引き受けないというのなら、俺が殺すことになるが? その時は殺すしか方法がなかったっていうのは証言してくれよ」
「待て! 待ってくれ!」
あっさりと殺すと口にしたレイに、咄嗟に叫ぶ男。
レイの口から出ている言葉が、決して冗談や方便で言っているとは思えなかった為だ。
何よりもその証拠に、地面には幾つもの死体が転がっているのだから。
このままでは自分の同僚が殺される。そう判断して咄嗟に叫んだ男に対し、レイは尋ねる。
「ならどうするか決めてくれ。一応俺がこうして抑えてはいるが、かなりの力だぞ、こいつ」
そう告げるレイの顔は特に辛そうな表情は浮かんでいない。
だがそれはレイだからこそであり、普通の人間が今のリロネイを押さえつけるというのは難しいだろう。
人形として調整された者特有の膂力を持っているのだから。
「……分かった、ならもう少しそのままでいてくれないか。すぐに上の者を呼んでくる。あまりにもことが大きすぎて、俺には判断出来ない」
正確には人を殺すという判断をしたくないというのが正確なところだろう。
それを理解しつつも、レイとしては頷くしかない。
まさかここで男の言葉を無視してリロネイを殺す訳にもいかないのは明白だったからだ。
結果として、小さく溜息を吐いて男の言葉を受け入れる。
「分かった。けど、自分の命を狙っている相手だ。このリロネイとかいう男がこれ以上妙な行動をする前に、なるべく早く連れてきてくれ」
「すぐ……すぐに戻ってくる! だからいいか、決して殺さないでくれよ!」
そう叫び、慌てたように去って行く男。
そんな男を見送ったレイは、自分が踏みつけているリロネイへと視線を向ける。
「同僚に恵まれたな」
「反則行為に関しては、前もって説明してある筈ですのでそちらをご確認下さい。特に従魔の類や召喚魔法の使用は厳禁となっており、使用した時点で失格……場合によっては処罰の対象となる可能性もあります」
リロネイは相変わらずの様子で呟きつつ、何とかレイの足から逃げようと身体を動かす。
暴れる力は強化されている為に通常の人間よりも強い。それでも所詮は通常の人間と大差ない程度であり、レイの踏みつけている足から逃れることは不可能だ。
また、レイに弾き飛ばされた一本しか短剣を持っていなかったことも幸いだった。
そのうち足の下で暴れているだけではどうしようもないと判断したのだろう。リロネイは身体を動かし、レイの足が踏みつけて重心の掛かっている部分を何とかずらして逃げ出そうとする。
「人格や記憶なんかは色々と弄られてる癖に、判断能力そのものは失われていないのは厄介だな」
レイとしてもそんな行動を見逃す訳にはいかず、リロネイが動くのに合わせて踏みつける重心の位置を変えていく。
そのまま数分が経ち、やがて再び聞こえてくる足音。
ただし今度は一人ではなく複数。
(これで実は鎮魂の鐘の奴等だったりしたら、笑うに笑えないな)
そんな風に考えつつ、それでも一応ということでレイはデスサイズを握る手に力を込める。
普通であればまず有り得ないことだろうが、それを言うのなら自分の足の下で動いているリロネイがそもそも人形と化しているのが予想外だったのだから。
だが幸いなことに、その異常に関しては今回は適用されなかったらしい。
「まだ生きてるか!」
そう告げて姿を現したのは、先程の男。
他にもその後ろには数人の人影があり、その者達が男の呼んできた相手であることは間違いなかった。
その中の1人、50代程の初老の男が一歩前に出て口を開く。
「儂はこの者達の上司で、アシャという者じゃ。……深紅、いやレイ。イルシベルから聞いた話によると、リロネイが何者かの手により操られているという話じゃが……真実かね?」
「操る……なるほど。まぁ、そう言えなくもないか。本人に聞いてみたらどうだ?」
自分の足の下で未だに藻掻いているリロネイへと視線を向けるレイ。
幸いと言うべきか、以前戦った人形のように捕らえられているのに意識を失う様子はない。
それがこの状況が捕らえられていると判断されていない為なのか、あるいは闘技大会の運営委員であるという立場が何か関係しているのか。その辺は分からなかったが、それでも意識を失っていないのだからラッキー程度に思っておけばいいだろうというのがレイの本心だった。
「……リロネイ、儂の声が聞こえておるか?」
レイの言葉を聞き、あるいは自分を呼びに来たイルシベルから聞いていた話を思い出しつつも、アシャはリロネイへと語りかける。
「魔法に関しては自由に使用が可能ですが、相手を殺してしまっては反則負けとなるのを忘れないで下さい」
「リロネイ? おい、リロネイ。儂の言葉が聞こえておらぬのか?」
「死にさえしなければ、舞台から降りれば回復します。ですから安心して戦って下さい」
「……リロネイ……」
愕然と呟くアシャ。
会話が噛み合わないというのが、ここまで恐ろしく感じたことはなかったのだろう。その頬は微かに引き攣っている。
そんなアシャに、レイはもういいだろうと判断して口を開く。
「見ての通りだ。さて、現状を理解したと思うが……こいつをどうする?」
「……その前に、何故このようなことになったのか聞いてもいいか?」
「俺を狙っている鎮魂の鐘の仕業だろうな」
あっさりと告げられたその名前に、一瞬アシャはその言葉を理解することを放棄して脳裏が真っ白になる。
それはイルシベルも同様であり、あるいはアシャと共に来た他の者達にしても同様だった。
鎮魂の鐘。その名前はベスティア帝国ではそれ程の畏怖を持って語られるべき存在なのだ。
それでも闘技場で長いこと働いているアシャは、何とか我に返って口を開く。
「本当なのか? その、鎮魂の鐘がお主を狙っておるというのは」
「ああ。この国に住んでいるなら知っていると思うが、春にこの国と色々あったからな」
その言葉に、イルシベルとアシャ以外の数人が視線を鋭くする。
恐らく春の戦争で誰かが死んだのだろうと思ったレイだったが、戦争である以上はお互いに死ぬ可能性は高い。
それを承知の上で軍に志願したのだから、そこで責められても困るというのが正直な気持ちだった。
もっとも、それを理解した上でも尚自分を恨んでいるというのは理解出来ないでもなかったが。
とにかく、今ここでそれを話していても時間の無駄だと判断したレイは、さっさと話を戻す。
「それで、鎮魂の鐘の中には人を洗脳というか、思い通りに操る奴もいるらしい。で、このリロネイとかいう奴もそいつに何かされたんだと思う」
その言葉に、アシャの顔が不愉快そうに顰められる。
ただし、それはレイに対してではない。自分の部下をこんな目に遭わせた鎮魂の鐘に対してだ。
「リロネイは……その、元に戻るのか?」
「どうだろうな。以前俺が泊まった宿を襲ってきた奴は、捕まった後で意識を失ったって話は聞いたけど。そのすぐ後に街を出たから、どうなったのかは分からない」
そう答えるレイだったが、恐らく目覚めることはないだろうというのがレイの予想だ。
しかしこれは純粋にレイの勘に近いものであり、何らかの決定的な証拠がある訳ではない。
だからこそ、そう告げる。
希望というのはどうしても必要なのだから。
「それで、結局こいつはどうするんだ? さっきの言葉から考えると、助けるという方に話が進んでいると考えてもいいんだよな?」
「うむ。さすがに長年共に過ごしてきた部下を見捨てる訳にはいかんよ。こちらで引き取ろう。警備隊へ引き渡す」
痛ましい表情を浮かべつつ告げてくるアシャに、レイは確認するように告げる。
「言っておくが、そっちに引き渡すのは今回だけだぞ。次にこいつが襲ってきたら、その時はこちらで相応の対応をさせて貰う。……そうさせたくなかったら、決して逃がさないようにするんだな」
そう告げ、アシャの合図により他の運営委員が近づき、リロネイを抑えるのを確認してから踏みつけていた足を離す。
瞬間……
「それは既定違反により反則そくそくそくそくくくくくくく」
突然リロネイが声を上げながら暴れ出す。
「うわああぁっ!」
「くそっ、こいつ力が強い!」
「おいリロネイ、しっかりしろ!」
「むううううう」
リロネイの四肢を押さえつけている者達がそれぞれに言葉を発す。
それでも四人掛かりであるということもあり、何とか四肢を拘束して、ゆっくりとではあるが控え室の外へと運んでいく。
その様子を眺めていたレイは、憂鬱そうな表情を浮かべているアシャへと視線を向ける。
自らの部下がこのような結末になったのを信じたくないのだろう。
そんな風に思いつつ、レイはデスサイズをミスティリングへと収納しながら口を開く。
「じゃあ、ここは任せてもいいか?」
「……うむ。今回はうちの者が迷惑を掛けたの」
短く言葉を交わし、レイは既にこの闘技大会が開かれている間は使い物にならないだろう控え室を出て行くのだった。
「ぐっ……はぁ、はぁ、はぁ」
「シストイ、短剣を抜くわよ。それとこれ、解毒のポーションよ」
ムーラとシストイが帝都に幾つか持っている拠点の1つで、2人は素早く傷の手当てをしていた。
本来であればシストイに刺さった短剣の毒は相手を即座に死に至らしめるものだが、幸い仕事の前に毒や麻痺をある程度無効化するポーションを飲んでいた為に、控え室から脱出した後にムーラと合流することが出来、こうして傷の手当てを受けることが出来ていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
鎮魂の鐘の有する錬金術師が特別に作った、対毒、対麻痺の効果を持つポーションを飲んでいてもここまで苦しんでいるのは、やはり毒が相当強かった為だろう。
「けど、生き残ることが出来た。……これからどうするにしても、とにかく傷を治さないといけないわね」
呟き、ムーラはシストイの治療を続ける。
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