第573話

 セレムース平原に到着してから二日。既に夕方近くなっており、太陽も夕日へと変わりつつある中、シアンスの乗ってきた馬車を加えたダスカー一行は、ようやくセレムース平原を通り抜けていた。

 本来であればもう一日は掛かると思われていたのだが、ここまで早くセレムース平原を抜けることが出来たのは、馬車を操る御者の技量や非常に高い能力を誇る馬、送り風で自然と馬車の速度が上がった、セレムース平原の地面が荒れていなかった等々色々な理由がある。

 ともあれ、予想していたよりも大分早くセレムース平原を抜けた一行は一旦そこで足を止めてこれからの相談を行う。


「では、私達は計画通りにここで別れます」

「分かっている。こちらでも以前話した通りに行動させて貰うから、心配しなくてもいい。連絡手段に関しては……」

「はい、こちらから連絡用の人員を送らせて貰います。この短剣を持たせますので、間違えることはないかと。もしこの短剣を持っていない者が現れた場合、その者は恐らく他の勢力から出された者だと思いますから注意して下さい」


 そう告げ、テオレームが取り出したのは柄の部分に蝶の紋章が施された短剣だった。

 マジックアイテムの類ではなく、どちらかと言えば芸術品の類だろう。

 それを確認したダスカーは、小さく頷きを返す。

 それらの話を聞くとはなしに聞きつつ、レイは地面に寝そべって周囲を警戒しているセトの頭を撫でる。


「深紅殿」


 そんなレイに向かって掛けられる声。

 そちらへと視線を向けると、そこには硬質的な美貌を持ったテオレームの副官でもあるシアンスの姿があった。


(来たか)


 内心で呟くレイ。

 合流してから、自分がシアンスに幾度も視線を向けられているのは感じていた。

 勿論その視線に含まれているのは、ヴィヘラが自分に向けるような色事めいた視線の類ではなく、あるいはこちらもまたヴィヘラが時折向けてくる戦闘を望むような視線でもない。

 どこか観察や警戒の色が含まれている視線だった。

 そんな視線を向けつつも、野営の時も含めて一切の接触がなかったのだが……ここで別れるということもあり、声を掛けてきたのだろう。


「何か用か?」

「グルルルゥ」


 セトの喉を撫で、機嫌の良さそうな鳴き声を上げさせつつ尋ねるレイ。

 下半身は猫科の獅子で上半身は鷲であるにも関わらず、喉を撫でられると気持ちがいいらしい。

 春の戦争でベスティア帝国を敗走に追いやった相手とはとてもではないが思えないその姿に、一瞬呆気にとられるシアンス。

 だが前日の野営や、あるいは食事の休憩時にこの一人と一匹が見せる仕草を何度か見ていたこともあり、すぐにいつもの表情に戻って口を開く。


「深紅殿。今回のベスティア帝国の争いに手を貸していただき、ありがとうございます」


 そう告げて軽く一礼するシアンスに、レイはセトを撫でていた手を離して問題ないと首を横に振る。


「ヴィヘラからの頼みもあったし、何よりも俺としても報酬をきちんと約束された依頼なんだ。そこまで恩に着る必要はないよ」

「いえ。正直な話、深紅殿のような力の持ち主がこちらに協力してくれるというのは僥倖としか言えません。もしも貴方が向こう側に付いていたとすれば、こちらの負けは決まったようなもの……とまでは言いたくありませんが、それでも大分不利になっていたのは事実でしょう」


 だからこそ、ここでレイを引き入れることが出来て運が良かった。そう告げてくるシアンスに、これ以上何を言っても無意味だと判断したのだろう。レイは小さく肩を竦めてから口を開く。


「ま、期待された分だけの仕事はきっちりしてみせるさ。幸い闘技大会では即死するような攻撃ではない限り、どうとでもなるらしいし」


 人を殺すという行為には既にそれ程心理的な負担を感じなくなっていたレイだったが、それでも好んで人を殺したい訳ではない。

 どうしても他に手がなければ話は別だが、殺さなくても済むのであればそちらを選ぶだけの理性を持ってはいる。

 そんなレイにしてみてば、古代文明の遺産のおかげで人死にが殆ど出ないと言われている闘技大会に参加するのは、寧ろ望むところだった。


「……なるほど。深紅殿もヴィヘラ様程ではないにしても、戦闘を好む質ではあるようですね」

「レイだ。俺が深紅の異名で呼ばれているのは知ってるが、出来れば異名ではなく名前で呼んでくれ」


 その言葉に、シアンスは数秒の沈黙の後に頷く。


「分かりました。ではレイ殿、と」

「そうしてくれ。大仰に言われるのはあまり好みじゃないんでな」

「グルルゥ?」


 もっと撫でて、と自分をほったらかしてシアンスと話しているレイに向かって喉を鳴らすセト。

 そんなセトの様子にレイは苦笑を浮かべ、シアンスは驚く。

 レイと共にベスティアでは恐怖の象徴ともなっているグリフォンのセトが、ここまで人懐っこいとは思ってもいなかったのだろう。


「随分と、その……私の予想とは違った性格ですね」

「普段はこんな感じだよ。人懐っこくて、美味い食べ物には目がなくて。……な?」

「グルゥ!」


 当然! とばかりに喉を鳴らすその光景は、確かにシアンスを含めて戦場でのレイやセトを知っている者にしてみれば、直接その目で見ても信じられない光景だろう。


「ともあれ、レイ殿には今回色々とご迷惑をお掛けすることになるでしょう。特に上層部の注意を引くという役割である以上は、どうしても春の戦争に関しての恨みを持っている人物も出てくると思います」

「分かっている。まぁ、その辺はどうとでもなるし、どうとでもするさ」

「……ありがとうございます」


 レイの言葉に頭を下げつつ、シアンスは内心で安堵の息を吐く。

 ベスティア帝国領内に入り、ここで別れる今この時にわざわざレイへと声を掛けたのは、レイという人物がどのような人物かを知りたかったからだ。

 短い会話ではあったが、それでもある程度の性格は理解出来た。

 戦闘を好みつつも、依頼された仕事に関しては真面目に取り組む。そして……


(過度の自信家でもある)


 自らの実力に自信があるからこその態度なのだろうが、それも今回のように意図的に目立つという目的を考えれば、寧ろ好都合と言えるだろう。

 ヴィヘラを危険な目に遭わせるよりは……と判断し、丁度その時離れて相談していたダスカーとテオレームがそれぞれレイとシアンスを呼ぶ声が聞こえてくる。

 打ち合わせ自体は既に終わっており、シアンスがレイに話し掛けたのも既に世間話に近い状態になっていたからなので不思議でもないのだが。


「どうやら呼ばれているようですね。では、私はこの辺で失礼します。今回の件が上手く進んでいる間は、恐らくもう会うことはないでしょうから言っておきますが、闘技大会の方、頑張って下さいね」

「ああ」

「グルルゥ!」


 レイなら大丈夫! とセトが喉を鳴らす様子に、シアンスも微かに頬を緩ませて去って行く。

 そんなシアンスと入れ違うように姿を現したのは、こちらもまた先程までテオレームやダスカーと話をしていたヴィヘラだ。

 どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて口を開く。


「あら、私だけじゃなくてシアンスにも手を出すの?」

「……いや、そんなつもりは全くないから」


 いきなり何を言うんだ、とばかりに首を横に振るレイだったが、ヴィヘラは冗談よと小さく笑みを浮かべる。


「あの子は多分テオレーム以外には興味ないでしょうしね」

「……そうなのか?」

「何よ、気が付かなかったの?」


 呆れた様に呟くヴィヘラだったが、レイにはシアンスがテオレームに抱いている感情は、どちらかと言えば恋愛ではなく敬愛であるように感じられていた。

 だが、ヴィヘラには違って感じられたらしい。


「ま、これ以上競争相手が増えないというのは、私にとっても歓迎出来るけどね」


 そう告げ、笑みを浮かべたヴィヘラはそっと近づきレイの頬へと手を伸ばしてそっと撫でる。


「私に勝ったレイには言うまでもないでしょうけど、くれぐれも気をつけて。帝国領内に入ったら、私はレイとは別行動になるから」

「ああ、分かっている。お前に勝ったんだから、その辺の奴等に負けるつもりはないよ」

「そう? だったらいいわ。近いうちにきっとまた会えると思うから、その日を楽しみにしているわ」


 そのまま数秒程、別れを惜しむかのようにレイの頬を撫でると、その頬にそっと唇を触れさせてから去って行く。


「グルゥ?」


 何となくキスされた頬を撫でつつ、もう片方の手でセトを撫でるレイだった。






 テオレームとヴィヘラ、シアンスを乗せた馬車は、ダスカーの乗る馬車が進むのとは別の方向へと向かっていった。

 それを見送ったダスカー一行も、自らの役目を果たすべく帝都へと向かって馬車を進めていく。

 最初の数日はセレムース平原の近くということもあって、ゴトのような人の少ない村や、酷いところになると廃村となっている場所が多かったのだが、それも帝都へと近づいてくるにつれて街道を歩いている旅人や冒険者、あるいは商人といった者達の姿も自然と多くなっていく。

 そして、人の目が多くなれば当然ダスカー一行の中でも非常に目立つレイやセトが人目を引かない筈もなく……


「お、おい。あいつグリフォンに乗っているぞ」

「……あ、ああ」

「つまり、あいつが深紅?」

「フード被ってて顔は見えないけど、あの体格だぜ? 子供か……下手すりゃ女じゃないのか?」

「けど、グリフォンを従魔にしているなんて奴の話、深紅以外に聞いたことあるか?」

「それは……いや、けどよ」


 そんな風にダスカー一行を見た者達はそれぞれに自分の推測を話すが、そんな中で一人の人物が持っていた荷物を地面へと落として震える身体を抱きしめる。

 30代半ば程で、とてもそのようなことをする相手とは思えなかっただけに周囲の注意を引くが、男は他人の視線を気にした様子も無く、まるで極寒の地に裸でいるかのように震える身体を自ら抱きしめていた。


「おい、あんた。大丈夫か?」


 近くにいた商人と思しき者がそう尋ねるが、それが切っ掛けとなったのだろう。


「ひっ、ひぃぃぃぃいぃっ!」


 叫ぶや否や、少しでも離れようと力の限り走り去っていく。

 それを呆然と見ていた周囲の人々は、暑さでおかしくなったんだろうと判断して自らを納得させる。

 その場を逃げ出した男は、そのまま街道の側に生えている林の中へと入って少しでも街道から見えないように姿を隠す。


「くそっ、くそっ、くそっ……何で、何でこんな所にあいつが、あの悪魔がいるんだよ。折角……折角軍から逃げて平和に暮らしているってのに……何で、何でぇっ!」


 血を吐くかのような叫びと共に、自分が隠れている木を思い切り殴りつける。

 木の幹によって皮が破れて微かに血が滲んでいるその拳は、明らかに鍛えた者の拳だった。

 そう。この男は春の戦争で従軍しており、更には先発部隊の一員に配属されていた男だった。

 レイの生み出した火災旋風と、そこに投入された数々の金属片。その後に行われたレイのデスサイズを使った一方的な虐殺ともいえる攻撃から何とか生き延びることが出来た、非常に運のいい人物だった。

 逃げて、逃げて、逃げて、ひたすらに逃げ続け、何とか生き延びた男は、そのまま戦場からも逃げ出して逃亡兵となった。

 もっともそこまで詳しく兵士の身元を確認している訳ではない以上、逃亡兵として追われることはなかったのは幸運だったのだろう。

 そうして運良く逃げ出した男だったが、それでも逃亡兵である以上は万が一のことを考えて故郷へは帰れず、商人の真似事をして何とか日々を暮らすだけの細々とした稼ぎを得ていた。

 そんな暮らしを半年程続け、ようやくそろそろ故郷に戻ってもいいかもしれない。そんな風に思えていたところで……あの存在に出会ってしまったのだ。

 自らを絶望の淵へと追いやった、恐怖と死と絶望の具現化したような存在と。


「どうして……どうして、どうしてぇっ!」


 大の男が出すとは、とても思えないような声。泣き喚き、八つ当たりするように木の幹へと幾度となく拳を振るう。

 既に拳の皮は破れ、木の幹には血がついているのだが、男はそれを気にした風もなく殴り続ける。

 そのまま数分。拳の感触が戻ってきたのか、木の幹に背を預けて座り込み……


「憎い、ですか?」


 不意にそんな声が聞こえ、男の動きが止まる。

 どこから声が聞こえてきたのか。それが全く分からなかったからだ。

 慌てて周囲へと視線を向けるが、そこにあるのは夏から秋に代わりかけている木々のみ。


「だ、誰だ!?」

「私が誰かはどうでもいいでしょう。それよりも……あの男が、グリフォンが、深紅が、貴方をここまで貶めた存在に対する憎しみはありますか?」

「……」


 何故その言葉に耳を傾けたのだろう。

 男はそんなことを一瞬だけ考えたが、まるで何かに導かれるようにして口を開く。


「憎い……憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い!」


 そんな憎悪の声が林の中に響く中、まるでその憎悪を包み込むように声は告げる。


「そうですか、では私達の仲間におなりなさい。その憎しみ……晴らして上げましょう」


 自分は何をしているのか。そんな風に思いつつも男は頷き、声に導かれるようにして林の奥へと戻っていく。

 その後に残っているのは男が殴りつけて剥がれ落ちた木の幹の皮と、地面に落ちた数滴の血の滴。そして、どこか蠱惑的な甘い香りのみだった。

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