第538話
夏も終わりに向かっていても、それでもまだ夜の暑さは厳しい。
夏真っ盛りの時期に比べればさすがに気温は下がってきているものの、そんなものは夜の街に繰り出す者達には関係がなかった。
暑さを吹き飛ばせとばかりに酒場で飲み食いして騒ぎ、あるいは女の柔肌を求めて娼館へと出向く。
まだ夜も早い時間。レイは1人街中を歩いて夕暮れの小麦亭へと向かっていた。
日が沈む前に領主の館へと出向いたのに、こんな時間まで掛かったのはそれ程複雑な話ではない。エレーナとダスカーが今回のベスティア帝国の件で色々と情報交換や、あるいはどう進めていくか、お互いの派閥――正確にはエレーナの父親の派閥だが――がどのようにして今回の件に関与するかといった話し合いをする必要があった為だ。
他にもエグジルで暗躍していた聖光教の件も話題に上がり、もしギルムに聖光教が入ってきた場合はどう対応した方がいいのかといった話もされていた。
その結果夕食を領主の館で食べることになり、高ランクモンスターの素材を使った料理にありつけたのだから、レイには特に文句は無かったが。
唯一の気がかりは……
(セトが拗ねてないといいんだけどな)
内心で呟き、空を見上げる。
月を覆い隠す雲に数秒程目を奪われ……
「あーっ! いた! レイ君だレイ君!」
ふと、背後から聞こえてくるそんな声に意識を引き戻される。
同時に自分の方へと駆け寄ってくる軽い足音と、タンッという地面を跳躍する音。
次の瞬間には、背中に掛かる重みと柔らかさ。
それでも体勢を崩すことなく重みの方へと視線を向けると、そこにいたのは見覚えのある猫の獣人の女。
ギルドの受付嬢であり、派手な印象を与える顔立ちをしたケニーの姿だった。
「ちょっと、いきなり飛び掛かったらレイさんにも危ないでしょ!」
少し遅れて近づいてくる足音。
ケニーを背中にくっつけたままそちらを振り向くレイの視線に入ってきたのは、生真面目そうな表情を浮かべた1人の少女。
当然のことながら、こちらもレイにとっては顔見知りの人物だった。
ケニーと同じくギルドで受付嬢をやっているレノラだ。
「……お久しぶりです、レイさん。ケニーがご迷惑をお掛けしました。ほら、ケニー。レイさんから降りなさい!」
「えー……だって久しぶりのレイ君だよ? こうやってしっかりとレイ君成分を補充しておかな……きゃ? ん? んん? んんん?」
レノラに言葉を返しつつも、レイの何かが気になったのか背中へと顔を近づけて臭いを嗅ぐ。
「何か知らない女の臭いがする?」
ジトッとした視線をレイへと向けるケニーだったが、それを見ていたレノラは小さく溜息を吐き、宥めるように言葉を紡ぐ。
「それはそうでしょ。レイさんは迷宮都市に行ってたのよ? 当然他にも冒険者がいるんだから、その中には女の冒険者だっていた筈でしょうし」
「うーん、何かそんな感じの臭いじゃないんだけど……レイ君、心当たりは?」
ケニーに尋ねられたレイは、そっと視線を外しながら小さく肩を竦める。
「色々な冒険者と関わったからな。当然中には女の冒険者もいたよ」
「本当に?」
「多分」
短く言葉を返しつつも、レイの脳裏を過ぎったのは姫将軍の異名を持つ凜とした女と、踊り子や娼婦の如き薄衣を纏った妖艶な戦闘狂の姿。
「ふーん……ま、いいけどね。それよりもレイ君、レノラと一緒に夕食を食べようって話になってたんだけど、どうかな?」
そんなレイの態度に一瞬疑わしげな視線を向けたケニーだったが、すぐに話題を変えて尋ねる。
ケニーにしてみれば、いるかどうかも疑わしい新たなライバルよりも実際にレイとの仲を深めるというのが重要だったのだろう。
少し前に領主の館で夕食を食べてはいたが、それでもまだ十分に余裕のあるレイは小さく頷く。
「そう、だな。セトの様子も見たいから宿でよければ」
「勿論問題無いわよ。ねぇ、レノラ?」
「確かに問題は無いけどね。レイさんの話も聞きたいし」
チラリ、とレイに向けて笑みを浮かべるレノラ。
レイを弟のように思っているレノラとしては、やはりレイがエグジルでどのような経験をしてきたのかが気になるというのが正直なところなのだだろう。
夕暮れの小麦亭の食堂で食事をするという話はあっさりと決まり、3人はそのまま連れだって歩き始める。
「それにしても……俺が言えたことじゃないけど、この時間に夕食っていうのはちょっと遅くないか?」
夜も朝も早いこの世界では、完全に日が暮れた時間帯に食事をする者はそれ程多くはない。
もっとも、酒場で酒を飲むような者達は多いし、徹夜で何らかの作業をしている者達が夜食を食べることはそれなりにあるのだが。
だが、ケニーはレイの言葉に待ってましたとでも言うかのように大袈裟に頷く。
……その際、さりげなくレイの腕に自分の腕を絡ませているのは、そっちの道では経験豊富なケニー故なのだろう。
「そうなのよ。街道沿いの林の奥にゴブリンの集落があったらしくて。それを討伐したパーティの報酬計算とか、素材や魔石の買い取り、討伐証明部位の換金とかあってね。しかもその報告がされたのが夕方も近くになってからだったから……」
「そ、そうか」
腕に当たるケニーの豊満な胸の感触に、薄らと頬を赤くしながらレイは引っ張られるようにして夕暮れの小麦亭へと向かうのだった。
「……一体何があった? いや、納得は出来るけどしたくないと言うか……」
視界の先に存在する光景に、呆然と呟くレイ。
「あ、あははは。確かにセトちゃんに会いたいって言ってた人は大勢いたから、考えられる事態ではあったわね」
レイの言葉にそう返しつつも、ケニーの口には苦笑が浮かんでいる。
「うわぁ……何て言うか、うわぁ……物凄いわね」
呆れた様子で呟くレノラ。
そんな3人の視界の先にあるのは、夕暮れの小麦亭の厩舎付近。
本来であればそれ程人が集まる場所ではないのだが、現在は20人近い人々が集まっている。
夕暮れの小麦亭に戻ってきたレイ達は、早速食事をしようと思って女将のラナへと声を掛けたのだが……その時に、セトを目当てにして多くの住人が集まってきていると聞かされたのだ。
「確かにこの様子を見る限りだと、セトを厩舎の外に出して正解だったな」
「まぁ、確かにそうですね。もしも厩舎の中にあれだけの人数を入れたりしたら、まず間違いなく興奮して暴れたりする馬とかが出てくるでしょうし」
レノラがレイの言葉に頷きながらそう呟く。
「そして中心にいるのは……当然の如くミレイヌ、か」
厩舎の前にある開けた空間で月明かりの下に寝転がっているセト。その周囲には幾つかの明かりが灯っており、その明かりの中でミレイヌはセトに串焼きやサンドイッチ、あるいは肉の煮物といった料理を与え、あるいは撫でていた。
他の面子もセトに食べ物を与えたり、撫でたりと思い思いにセトを愛でている。
少し離れた場所で小さく溜息を吐いているのは、セトの周囲に存在する明かりを魔法で生み出した魔法使いだろう。
ミレイヌが率いるパーティ灼熱の風の魔法使いにして、ミレイヌの暴走を押さえるストッパー役の人物、スルニンだ。
3人はセトに夢中のミレイヌではなく、スルニンへと近づいていく。
手に持っているのは、ラナから預かったサンドイッチ。
引っ張り出されたスルニンに渡して欲しいと受け取ったものだ。
「久しぶりだな」
「ああ、レイさん。それにレノラさんとケニーさんも」
「こんばんは」
「そっちも色々と大変そうね」
小さく笑みを浮かべつつ頭を下げてくるスルニンに、レノラとケニーもそれぞれ挨拶を交わす。
恐らく今回の件では最大の被害者だろう哀れな魔法使いに。
そんな被害者へと、レイは持っていたサンドイッチを手渡す。
「ほら、女将からだ。これでも食って元気出せ」
「すいません。……いや、本当にすいません」
最初の謝罪はサンドイッチを持ってきて貰ったこと。そして2度目の謝罪は言うまでも無くスルニンの視線の先にいるミレイヌに対してのものだろう。
「まぁ、ギルムに戻ってきた時からこうなるってことは大体予想していたしな」
「うーん、確かに。ミレイヌさん、ここ暫く元気が無かったし」
レノラが地面の草むらに座り、自分達用に用意されたサンドイッチを広げると、ケニーもまたそれに同意しながら草むらへと腰を下ろす。
きっちりとレイの隣に陣取っている辺り、チャンスを見逃さないケニーらしいと言えばらしいのだろう。
そんな同僚にどこか呆れたような視線を向けつつ、レノラはサンドイッチに手を伸ばす。
「あら? そう言えば虫の類が殆どいませんね」
「その辺の対策に関してはきちんとされているらしいですよ。ほら、あそこを見て下さい」
スルニンの視線の先にあるのは、厩舎の脇に存在している高さ1m程の円柱状の物体。
月明かりに負ける程度の、仄かな光を灯している。
「厩舎にいる動物や従魔が虫のせいで疲れが取れなかったり、苛々して暴れたりするのを防ぐ為の虫除けのマジックアイテムです。普通の宿にも似たようなマジックアイテムを置いている場所もありますが、特にこの夕暮れの小麦亭は厩舎が大きいですからね。その辺に関しては重要視してるんでしょう」
「へぇ」
スルニンの説明に感心の声を上げたのはケニー……ではなく、レノラでもなく、レイ。
『……』
その様子に、思わず無言で顔を見合わせるケニーとレノラ。
やがて恐る恐るといった様子でケニーが口を開く。
「ね、ねぇ。レイ君。レイ君ってこの宿に1年以上泊まってたわよね。なのにあのマジックアイテムに気が付かなかったの?」
「いや、まぁ……」
誤魔化すようにサンドイッチを口へと運ぶ。
焼きたてのパンで作ったサンドイッチらしく、まだパンはシットリと柔らかい。そこに甘辛く煮付けた鶏肉と歯ごたえのいい葉野菜が挟まれており、幾らでも食べられそうな味だ。
「美味いな」
「……ふーん。じゃ、私もお腹減ったし食べようかな」
そう言い、ケニーが手を伸ばしたのは干した川魚を焼いて身を解して挟んだもの。
いいの? と視線で尋ねたレノラだったが、ケニーは全く気にせずサンドイッチを口へと運ぶ。
(困った男を必要以上に追求しないのも、いい女の条件よ。もっとも、それが他の女のことだったりしたら話は別でしょうけど)
そんな風に内心で考えつつ、レノラの方に視線を送りながら。
「ねえ、レイさん。迷宮都市から帰ってきたってことは、暫くギルムにいるんですか?」
野菜とハムのサンドイッチを小さく一口ずつ食べながら尋ねてくるレノラだったが、それに対する返答は無言で首を横に振るというものだった。
口の中のサンドイッチを水で流し込んでから、改めて口を開く。
「恐らく近いうちにまたギルムを出ると思う。ちょっと面倒な事態に巻き込まれてな」
「え? 嘘でしょ? 折角戻ってきたのに、また行っちゃうの?」
猫の獣人らしく、ペロリと手についたソースを舐め取っていたケニーが思わずそう尋ねた。
その話を聞いていたスルニンもまた同様に、驚きの表情を浮かべている。
もっとも、スルニンの場合はレイが旅立つということは同時にセトもまたいなくなるということで、その時に自分達のパーティリーダーがどうなるのかを思ってのことだ。
(まさか、セトを目当てにレイを追って行く……ということは……)
ない。そう言い切れないのは、やはり視線の先で蕩けるような表情でセトと戯れているミレイヌの姿があるからだろう。
だが、ミレイヌのストッパーであるスルニンにしても、レイの後を追うというのは色々な意味で危険だと判断せざるをえない。
自分達とは色々な意味で桁が違う戦闘力を持っているレイが、面倒な事態だとわざわざ口に出すのだから。
「エグジルで色々とあったんだ。それこそ、下手をすればかなり厄介な事態になりかねないことが」
「……その面倒な事態ってのは聞いちゃ駄目なの?」
猫耳をピクピクと動かしつつ尋ねてくるケニーだったが、レイは黙って首を横に振ってそれを拒否する。
今の時点で自分がベスティア帝国に向かうというのを口にするのは、春の戦争でどれだけ自分が目立ったのかを知っているだけに心配させてしまうというのもあったのだから。
「ま、それでも俺とセトが揃っているんだ。他に協力者もいる。それを考えれば、それ程心配することはないと思うぞ」
ハムとチーズがこれでもかと詰まったサンドイッチを口に運び、敢えて軽い口調で言葉を続ける。
「それに、そのうち俺が何をしているのかってのは知ることが出来るかもしれないから、気になるんならそれをゆっくりと待ってて欲しい」
ベスティア帝国で開かれる闘技大会に自分が出場する以上、間違い無く話題性は非常に高い。
その辺の事情がギルムまで流れてくるのも、そう遠い話ではないだろう。
そんな風に考えつつ、サンドイッチを食べながら心配そうに自分を見るケニーとレノラ、そしてスルニンへと告げるのだった。
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