第408話

 本来であれば柔らかい月明かりが多少なりとも闇を和らげるのだが、雲により覆い隠されており、そこにいる誰かを照らし出すことが出来ない夜の闇の中、2人の人物がそんな闇に紛れるようにしてエグジルの裏通りにある一画で沈黙を保ったまま、ただその場に存在していた。

 もしこの場に誰かがいたとしても、恐らくは置物か何かだと判断するかのような、それ程に気配を消し去ったままその場に存在している。

 だが、そんな2人が沈黙を保っている場所に、不意に小さな足音が1つ。

 小さな、普通なら聞き逃してしまいそうな程の足音。だが、その場で木石の如く存在していた2人にとっては十分すぎる足音。

 2人共が閉じたままだった瞼を開き、その場に姿を現した人物へと視線を向ける。


「待たせたか?」

「いえ、問題ありません。主を待たせるよりは、私達が待っていた方がよいので」

「……」


 男のうちの片方がそう告げ、残りもう1人も同様に頷く。

 新たに現れた人物は小さく頷き、口を開く。


「それで、実験の結果が多少ではあるが出たと聞いたが?」

「はい。冒険者パーティが遭遇した模様です。それとこちらは追加の情報になりますが、行方が分からなくなっていたソード・ビーの変異体に関してもその者達の手によって倒されていた模様です」

「……なるほどな。だが、ソード・ビーの変異体に関してはかなり地上に近い階層で行方不明になっていた筈だが? 初心者に倒されるような実力では無かっただろう。……そもそも、初心者に倒されるようなら変異体とは呼べぬしな」


 訝しげな男の声に、2人組の男もまた頷く。


「確かに普通の初心者であれば問題は無かったでしょう。よくある、初心者がダンジョンで行方不明になって終わっていたかと。……ただし、今回の件で変異体を倒したのは普通の冒険者ではありません。深紅と呼ばれる者が率いているパーティです」

「……深紅というと、春の戦争で名を上げた? グリフォンを従えているとかいう」

「はい。その深紅に姫将軍エレーナ・ケレベル、狂獣ヴィヘラ、フラウト家の遺児ビューネ・フラウト。この4人が組んだ野良パーティが、ソード・ビーの変異体とストーンパペットの変異体の報告を行った様です」


 その報告に、男は小さく溜息を吐く。


「よりにもよって、まさかそんな有名どころと当たるとはな。確認しておくが、倒された変異体はその2匹だけなのだな?」

「いえ、他のパーティによってもう数匹程倒されている模様です」

「……データは取れているな?」

「はい、その辺は問題無く」

「なら問題は無い。今はまだ私達が表に出るべき時ではない。表に出るのは我等が盟主殿に任せておくとするさ」


 盟主。その言葉自体は男よりも上の存在を示しているものだが、その言葉を発した男の口元に浮かんでいるのは嘲笑以外のなにものでもない。

 だが、それは最初からここにいた2人の男にとっても同様なのだろう。男の嘲笑を気にした様子も無く話を続ける。


「では変異種に関しては、このまま進めてもよろしいのですね?」

「そうしてくれ。ただし、くれぐれも私達の存在が表に出ないように気を付けろ」

「分かりました、これまでよりも尚気を付けて活動します。幸い表舞台に立つ人材には事欠きませんし、そちらが駄目でも表の存在がいます」

「それでもだ。どういう理由なのかは分からないが、深紅などという化け物と正面からやり合うことになったりしたらこちらの被害が膨らむばかりだからな」


 苦々しげな声が周囲へと響く。本心からそう思っているのは明らかであり、それは2人の男にしても同様らしく無言で頷いている。


「……そうだな、一応念の為だ。こちらの正体が深紅や姫将軍辺りに知られそうになったら、ただちにエグジルから撤退しろ。いいか、何度も繰り返すようで悪いが、くれぐれも私達の存在が表沙汰にならないようにするのだ」

『はっ!』


 2人が揃って返事をし、その様子を見ていた男は満足そうに頷くと、夜空を見上げる。

 雲によって月が覆い隠されており、月の光はそこに遮られている空を。


「……このエグジルという都市は暑くて敵わんな。こうも蒸し暑いのでは、暮らしにくいことこの上ない」

「そうですね。特に人が多いだけに蒸し暑さが増しているように感じられます」

「……」


 2人組のうちの片方がそう呟き、残りのもう片方が同感だというように頷く。

 その様子を見ていた男だったが、このままここで話していても蒸し暑さは変わらないと判断したのだろう。小さく溜息を吐きながら踵を返す。


「では、今回の件はこれまでとする。……一応深紅達には気が付かれない程度の監視を付けておけ。深い場所まで探る必要は無いが、恐らく奴等が動くとこちらでも騒動があるだろうしな」

『はっ!』


 夜の闇に承諾の意を持った言葉が響き渡り……次の瞬間にはその場には誰も残っておらず、ただ熱帯夜特有の蒸し暑い空気のみがそこに残されていた。

 迷宮都市エグジル。現在ここで1つの陰謀が進んでいるのを知る者は当事者達以外は誰もいない。






 ギルドでの報告を終え、地下10階までの地図を購入してからヴィヘラやビューネと別れたレイとエレーナの姿は宿屋にある食堂の中にあった。

 夏の夜ということもあり、食堂では暑気払いとばかりにエールやワインを飲んで騒いでいる宿泊客が多いのだが、レイとエレーナの座っているテーブルの周辺のみはどこかピリピリとした雰囲気が漂っている。

 テーブルの上に乗っているのは、野菜や肉がたっぷりと入っている具だくさんのスープや甘酸っぱい酸味のある果実を使ったソースが掛かっている、表面をパリッと肉汁を閉じ込めるように焼き上げたオークのロースト。鮮度が高く、塩と柑橘類の果汁だけで作られたドレッシングで味付けされたサラダ、この世界では珍しい蒸し魚には木の実を使った濃厚なソースが掛けられている。他にもフワフワに焼き上げられた白パンや、少し離れた場所にはチーズも存在している。

 レイにしてみればまさに豪華な食事であり、普段ならエレーナと会話をしながらも十分以上に楽しめた料理の筈であった。

 だが、今テーブルの上にあるのは沈黙のみであり、エレーナは無言のままに料理を口へと運んでいる。

 そんな無造作な仕草ではあるが、それでも育ちが出ているのだろう。どこか優雅な印象をレイへと与えていた。


(そう言えばヴィヘラも雑に見えて洗練された仕草だったよな。もしかして、いいところのお嬢さんだったりするのか?)


 フォークで刺したオークの肉を口へと運びながら内心で考えた、その時。


「……何か妙なことを考えてはいないか?」


 フォークとナイフで蒸し魚の身を切り分けながらも、エレーナはレイへと鋭い視線を向ける。

 一瞬自分がヴィヘラのことを考えていたのを見透かされたのかと思ったレイだったが、それでも何とか表情に出さないようにして首を振りつつ口の中の肉を飲み込む。


「いや、別に妙なことは考えていないさ。ただ、今日は色々と大変だったなと思ってな」


 咄嗟に出た言葉だったが、それは完全に地雷でしかなかった。

 エレーナの動きがピタリと止まり、視線が改めてレイへと向けられる。


「ほう、大変だったか。それはそうだろうな。まさか昨日キスをした相手と、こうも早く再会するとは思っていなかったんだろうし」


 その言葉と共に周囲の気温が数℃程下がったと感じたのは、恐らくレイの気のせいではないだろう。

 周囲は夏の暑さを吹き飛ばす意味も込めて騒いでいるというのに、レイとエレーナが座っているテーブルの周辺のみはまるで冬の如き寒さを周囲に感じさせていた。

 更に、レイとエレーナの近くに座っていた他の客がウェイターに頼んで別の席へと移っている。

 完全に周囲から隔絶された席で、それでもエレーナは優雅に蒸し魚を飲み込んだ後でワインの入ったコップへと口を付ける。

 そんな様子を見ていたレイだったが、やがて小さく溜息を吐いてから口を開く。


「確かに俺はヴィヘラにキスをされた。けど、ヴィヘラが俺に対して好意を抱いているという理由からじゃ無いのはエレーナにも分かってるだろ?」

「そうかな? 事実、ヴィヘラは自分と戦って勝った相手に自らの身を委ねると公言しているのだぞ? そしてヴィヘラは間違い無くレイ、お前に興味を持っている。これは否定出来ない事実だと思うが?」


 レイを責めるように言葉を発しつつも、長年の習慣というのは身に染みついているのだろう。スプーンで掬ったスープを音も立てずに飲み込む。

 その時一瞬だけ感嘆の表情を浮かべたのは、具材の旨味がスープに染み出ており、複雑な味の絡まりを口の中で感じた為だろう。

 レイとの言い争いの中でも思わず興味を示してしまう味は、さすがにエグジルでも最高級の宿の調理場を任されている料理人の料理といったところか。

 そんなエレーナの様子を知っているのか知らないのか、レイはチーズとパンを冷たい果実水で飲み込んでから言葉を紡ぐ。


「確かにヴィヘラが俺に向けているのが好意か悪意かで言えば、間違い無く好意だ」


 言い切ったレイの言葉に、スープに感動していたエレーナの指がピクリと動く。

 だが、エレーナが口を開こうとしたのを遮るようにしてレイは言葉を続ける。


「だが、その好意というのは恋愛感情の好意じゃ無い。これは間違い無い。少なくてもヴィヘラが俺を見る視線の中に恋愛感情なんてのは一切無い。あるのはただ、戦いを求める闘争心だけだ」

「それは……」


 エレーナもそれについては否定出来る言葉を持っていなかった。何しろ、ヴィヘラが自分へと向けて来る視線もまた同様に闘争心に満ちたものだったのだから。

 食欲、睡眠欲、性欲。それら以外の欲求、戦闘欲とでも呼ぶべき視線をエレーナは確かに感じ取っていた。


「だが、ヴィヘラが自分に勝った相手に対して自らの身を委ねると言っていたのは事実ではないか。それはレイ自身も聞いただろう?」

「確かにな。だが、あの言葉は自分が絶対に負けることは無いと判断しているからこそじゃないか? 事実、ヴィヘラの戦闘力はかなり高い。少なくても、素手の俺とやり合える程度にはな」


 レイのその言葉を聞き、ダンジョンでの戦闘を思い出すエレーナ。

 実際にランクDパーティが苦戦していたストーンパペットを、かすり傷すら負うことなく瞬殺したのは事実だ。それを直接その目で見ている以上、エレーナにとってもレイの言い分に一理あると認めない訳にはいかなかった。

 だが、それでも問い詰めなければいけないことはまだある。


「なるほど、確かにレイの言葉にも納得出来る部分はある。……では、改めて聞こう。ヴィヘラが戦いで勝った相手に自分の身を委ねると聞いた時、どう思った? 一切期待しなかったのか?」

「それは……」


 さすがにそれを即座には否定出来ず、レイは言葉に詰まる。

 ヴィヘラは、レイがこれまで見て来た中でも3本の指に入る美形であるというのは事実だ。そして、当然そんなヴィヘラに誘うような言葉を投げ掛けられて一切心が動かなかったと言えば、その答えは否である。


「やはりな」


 そんなレイを見て、エレーナは小さく溜息を吐く。


「安心しろ。別に私はそれを責めるというつもりはない」

「……何?」


 予想外のエレーナの言葉を聞き、思わず問い返す。

 レイにしてみれば、エレーナが怒っていたのはヴィヘラに対して手を出した、あるいは手を出すと思っていたからなのだ。だと言うのに、その可能性が少なからずあったと言われたのが原因で怒っていたという訳では無いというのだから、無理も無い。


「こう見えて、私も公爵令嬢だ。ケレベル公爵家の当主でもある父上にも母上の他に第2夫人と第3夫人がいるからな。……残念ながら子供は私しかいないが」


 その最後の言葉を聞き、思わず納得するレイ。

 貴族である以上は、家を継ぐべき子供はある程度の数が必要だろう。少なくても現在のエレーナ1人では、いざ何かあった時にミレアーナ王国でも数少ない公爵家の跡継ぎがいなくなることになるのだからと。


(かと言って、勿論子供が多ければ後継者争いとかが起こるんだろうから、多い程いいって訳じゃないんだろうけどな)


 内心で呟き、エレーナが言葉程にレイに対してヴィヘラとの関係を責めている訳では無いと安堵する。


(その割りには随分と雰囲気を出していたけどな)


 それもエレーナにとってはある種の演出だったのだろう。あるいは、単純にエレーナとヴィヘラが性格的に合わないというのを無言のうちに表したかったのかもしれない。

 その証拠という訳でも無いだろうが、エレーナとレイのテーブルの周囲に漂っていた冷たい雰囲気は既に無く、夏の熱帯夜を思わせる暑さを感じさせる程になっていたのだから。


「それに……私がレイを他の女に気を向けさせなければいいだけの話だしな」


 ポツリと呟いたエレーナの声がレイの耳に入ることが無かったのは、ある意味幸運だったのだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る