第112話

「……いいのか?」


 ソファに座り、紅茶を飲もうとして思わず動きを止めたレイがエレーナへとそう返す。

 ダンジョンに向かう途中やダンジョン内で倒したモンスター、その全てを今回の謝礼として譲ると口にしたのだ。


「問題無い。そもそも私達では魔石やら素材やら討伐証明部位やらを売る為の伝手もないからな」


(なるほど、そう言えばその辺はヴェルが任されていたという話だったな)


 内心で頷き、それでも不思議に思ったことを口に出す。


「確かに伝手はないだろう。だが、それでも売るつもりになれば足下を見られるかもしれないが買い取って貰えるんじゃないか? 何だったらあの御者に頼ってもいいし」

「そうだな。だが、今回レイには非常に迷惑を掛けた。私から与えられるものはこれくらいしか……あ、いや。違うな。まだもう1つあるか」

「……エレーナ?」


 ふと何かを思いついたように呟くエレーナに聞き返すレイだったが、何でも無いとばかりに首を振るエレーナ。


「とにかくだ。私としては今回の件で得たモンスターについては全てレイに譲ってもいいと思っている。そもそもレイは忘れているのかもしれないが、私は一応公爵令嬢という立場で、尚且つ軍人としてもそれなりに名声を得ているのだ。金銭に関しては全く困っていないし、名誉にしても姫将軍などという大層な2つ名を貰っているしな」

「まぁ、エレーナがそれでいいのなら俺としては何も文句は無いが」


 その言葉に文句は無いとばかりに頷き、いつものように優雅な動作で紅茶を口に運ぶエレーナ。


「……アーラ、悪いが紅茶をもう一杯頼む。それと何か軽く摘める物も」

「あ、はい。すぐに用意しますね」


 エレーナの言葉に、アーラが小さく頭を下げて部屋を出て行く。

 その後ろ姿を見送り、部屋の扉が閉まった後にエレーナは不意に黙り込んでじっとレイへと視線を向ける。


「……エレーナ?」

「レイ、悪いがその……ちょっと耳……そう、耳を貸してくれ」

「何だ、突然? いやまぁ、構わないが」


 疑問に思いつつ、ソファから立ち上がってエレーナの隣へ。そしてエレーナへと耳を向ける。


「……」


 沈黙を保ったままのエレーナに、違和感を覚えながらも数秒程待つが一向に近寄ってこない為不審に思い顔をそちらへと向けようとして……

 不意にエレーナの手がレイの頬へと当てられ、強引に正面へと向けさせられる。

 本来であればレイの身体能力によりそんなことは出来なかったのだが、今のエレーナは不完全とは言ってもエンシェントドラゴンの力を継いでいる。魔力はともかく、純粋な身体能力に関して言えばレイとそう差は無い為に、不意を突かれたレイは抵抗出来ないままにエレーナへと顔を向ける。

 ……ただし、それをまだ十分にコントロール出来ていないのだが。今の行為にしても、もし振り向かされたのがレイでなければ鞭打ち症のようになっていただろう。


「おい、いっ……」


 突然のその行動に、レイは最後まで言葉を発することは出来なかった。何故なら、レイの唇へとエレーナの唇が重ねられたからだ。


「……」


 あまりと言えばあまりに突然なその行動に、思わず眼を見開くレイ。だが、そのエレーナの美しい顔が真っ赤に染まっているのが目に入るとエレーナ自身を憎からず思っていたレイはエレーナの唇を抵抗せずに受け入れる。

 柔らかく、どこかひんやりとしたその唇。そして恐らくはエレーナ自身の体臭と香水か何かなのか、柑橘系のような香りが混じり合って一種独特な、それでいて不快感の無い香りとなってレイを包み込む。

 そのままどのくらいの間唇を重ねていただろう。レイにしても生まれて初めてのキスであり、同時にエレーナ程の美人とのキスだった為にただそれを受け入れることしか出来なかった。

 そしてやがてそっとお互いの唇が離れていき、部屋の中を沈黙が支配する。

 唇を重ねただけのキスではあったが、田舎生まれでその手のことには鈍感であったレイ。公爵令嬢という地位にあり、その手の知識に触れる機会はあったが、それよりも武術の腕を磨くことに熱中して姫将軍と呼ばれるまでになったエレーナ。そんな2人であった為に、お互いが初めての相手であった。


「わ、私の初めての唇を捧げたのだから、報酬としては十分だろう!?」


 敢えて高飛車にそう告げるエレーナではあったが、先程と同様……否、それ以上にその顔は赤くなっており元々の肌が白い為、その赤さが余計に目立つ。


「あー……その、うん。まぁ」


 レイもレイで、キスという初めての経験故にどこか誤魔化すように呟くしかなかった。

 元々日本では小説や漫画の類を好んで読んでいたレイだけに、そういう方面の知識はそれなりにあった。だが、それでも実際に経験したとなると色々と思うところがあったらしい。

 その返事と共に再び部屋の中が沈黙で埋まるが、それを嫌ったのか再びエレーナが口を開く。


「い、いいか。私が誰にでも唇を許すような女だとは思うなよ。レイ、お前だったからこそこういう行為を許したんだぞ」

「その……あー、何と言ったらいいのか分からないが……」


 言い淀むレイの顔もエレーナに負けず劣らず真っ赤に染まっている。


「いや、何も言わなくてもいい。と言うか、言うな!」


 自分の取った行動を思い出しているのか、相変わらずその顔は真っ赤に染まっていた。

 そうしてお互いが特に言葉を交わすでもなく微妙に居心地の悪い状態のまま元の席へと戻って数分、唐突にドアがノックされる。

 ビクンッ、とでも表現出来そうな程に大袈裟に驚きつつも2人揃って扉へと視線を向ける。


「エレーナ様、クッキーくらいしかありませんでしたが……」


 そう言いつつ部屋に入ってきたのは、銀で出来た皿に乗せたクッキーを持ってきたアーラだった。

 だが当然エレーナに心酔しているアーラが、部屋の中に漂っている何とも言えない微妙な空気に気が付かない筈もなく。


「えっと、この空気は……はっ、レイ殿、エレーナ様に何かしましたか?」


 鋭い視線をレイへと向けるアーラ。アーラにしてみれば少し留守にしていただけなのに、自分の敬愛するエレーナが顔を真っ赤にしながらもチラチラとレイへと視線を向けているその様子は、普段の凛としたエレーナを知っているだけに……いや、だからこそ余計に信じられない出来事だった。そう、その姿はまるで恋する乙女の……

 内心でそんな風に思い、慌てて首を左右に振るう。


「レイ殿? 何か私に言うべきことはありませんか?」

「い、いや。別に俺は……」


 言い淀みつつ、思わずエレーナへと視線を向けるレイ。そしてエレーナはエレーナで、レイと視線を合わせると再びその頬を赤く染める。


「……レイ殿。レイ殿には確かにダンジョンで幾度も助けて貰いましたし、同様にこのパワー・アクスを譲って貰ったという恩もあります。ですがそれを盾にしてエレーナ様に強引に言い寄るなどという真似をしたら……」


 そっと、背負っているパワー・アクスの柄へと手を伸ばすアーラ。レイにいつでも斬りかかれるようにというものだったが……


「待て、アーラ。別にレイは私に対してそんな卑劣な真似はしていない!」


 さすがにこのままでは拙いと思ったのか、顔が赤いままだがエレーナがアーラへと鋭く声を飛ばす。


「ですがエレーナ様……」

「くどいぞ。私自身が何でも無いと言っているのだ。これ以上何か言うべきことがあるのか?」

「……本当に何もされていないのですね?」

「うむ。……どちらかと言えば私がした方だしな」


 後半を口の中だけで呟くが、幸いアーラには聞こえなかったらしい。……ただし、常人よりも鋭い五感を持つレイには丸聞こえだったのだが。

 不承不承ではあるがアーラも何とか納得し、クッキーの乗った皿をテーブルの上へと置いてエレーナの隣へと座る。

 ただしレイへと向けられている視線が若干鋭くなっているのは、恐らくレイの気のせいではなかっただろう。

 結局それ以降は特に話題が弾むようなことも無く、時間も既に出発時刻に近くなっているということもあり全員で領主の館の玄関へと向かうのだった。






「おお、丁度良かった。今呼びに行かせようと思ってた所だったんだが」


 玄関の前へと出ると屋敷の主であるダスカーが3人へと視線を向けてそう言ってくる。

 ダスカーの近くにはエレーナ達の使用している馬車があり、その御者席には既に御者として雇った冒険者の男が腰を下ろしていた。

 その馬車の中へとミスティリングに入っていたキュステの遺体を専用のマジックアイテムでもある棺の中へと入れてから積み込み、その隣にはキュステが使っていた水の魔槍を並べる。


「それにしても、レイも手が早いな。公爵令嬢のエレーナ殿と朝から逢い引きか?」


 がっはっは、と笑いながらそう告げてくるダスカー。

 本人としてはエレーナやレイをからかうつもりで言ったのだろうが、タイミングが悪かった。

 その言葉を聞いた途端レイはそっぽを向き、エレーナは頬を赤く染めながら俯き、そしてアーラからは殺気が吹き上がる。


「お、おい? お前等まさか……」

「……いえ、ダスカー様。何でもありませんのでお気になさらず」


 笑顔を浮かべながらそう告げるアーラだが、その視線にはどこか有無を言わせない迫力があった。


「グルゥ?」


 そんな雰囲気を無視するかのようにセトが姿を現す。


「……セト?」

「あ、あぁ。俺が呼んでおいたんだ。そいつもお前達と一緒に今回のダンジョンに挑戦したんだ。見送る資格はあるだろう」


 セトの登場によりようやく我に返るダスカー。

 エレーナもセトへと視線を向け、いつもの冷静な表情へと戻る。


「セト、今回はお前のおかげで本当に助かった。お前がいないと恐らく私達はウォーターモンキーの群れに数で負けていただろう。助かったよ」

「グルルルゥ」


 笑みを浮かべて頭を撫でられ、嬉しそうに鳴くセト。

 その様子を見ていたアーラも、ようやくプレッシャーを放つのを止めてセトへと近付いていく。


「エレーナ様の言う通りです。貴方には本当に助けられました」


 差し出されたアーラの手には干し肉が乗せられており、セトは嬉しそうにクチバシで啄んで口の中へと運んでいく。


「ふふっ、こうしているのを見ると、本当にランクAモンスターとは思えない程に可愛らしいですね」

「全くだ。この人懐っこいのがいざ戦闘になると信じられない程勇敢に戦うんだからな」

「へぇ、やっぱりグリフォンっていうのはそんなに凄いのか」


 エレーナとアーラの言葉に興味を引かれたのかダスカーが口を挟む。

 先程の変な雰囲気を一片も気にした様子が無いのは、さすが辺境伯と言うべきだろう。


「そうだな、セトとレイが組めばその辺のランクAパーティは足下にも及ばないだろうと思う程度には」

「……へぇ」


 いい話を聞いた、とばかりに笑みを浮かべるダスカー。

 そんなダスカーへとセトの前からエレーナとアーラが近寄っていく。


「もしダスカー殿が私の護衛としてレイを派遣していなければ、恐らく私はダンジョンから戻って来ることは出来なかった筈だ。……よくレイを護衛として派遣してくれた。例えそれがこちらの不手際の為だったとしてもダスカー殿には感謝しきれない」


 不手際、というのはヴェルが裏で暗躍してランクDまでと限定したことを言っているのだろう。その程度はレイにも理解出来た。

 エレーナとダスカーが握手をし、アーラは深々と頭を下げる。


「エレーナ様同様、私もレイ殿には非常に助けて貰いました。ラルクス辺境伯の慧眼には感謝の言葉もありません」


 そんな2人へと視線を向け、ダスカーは笑みを浮かべる。

 その笑顔は先程レイとセトの実力を聞いた時のような、何かを企んでいるかのような物では無く他意の無い純粋で……尚且つ、男臭い笑みだった。


「気にするなよ。エレーナ殿が俺の領地で死なれちゃ色々とやばかったってのもあるからな。別に完全な善意なんて言うつもりはねぇよ」

「それでも、そのおかげで助かったのは事実なのだから礼を言わせて欲しい」

「中立派の俺としちゃ貴族派に貸しを作れるのは悪いことじゃないからな」


 そう言いつつ、エレーナに差し出された手を握り返すダスカー。

 そしてエレーナとアーラは最後にレイの前へとやってくる。


「……本当にレイには世話になった。キュステの遺体の件に関しても、もしレイがいなければ家族の下へと戻すことは出来なかった筈だ。いつか機会があったら是非私の家に遊びに来て欲しい。その時はケレベル公爵家を継ぐ者として歓迎させてもらう」

「レイ殿、このパワー・アクスは大事に使わせて貰います」

「ああ、2人共元気でな。もし戦争が起きた場合は俺も駆け付けさせて貰うよ」

「そうだな、レイとセトがいればベスティア帝国が幾ら強大だとは言っても対抗出来そうな気がするな」


 レイの言葉に笑みを浮かべるエレーナ。その笑みが今までの笑みと違い女の艶のようなものが見えたような気がしたアーラだったが、さすがに口を挟むということはせずに2人のやり取りを見守る。


「では……元気で」

「ああ。エレーナも」

「……ん? いつの間に2人とも親し気に言葉を交わすようになったんだ? 昨日はそうでもなかったようだが」

「っ!? あ、いや。これはその……」

「ダスカー様、エレーナ様とレイ殿は危機を共に乗り越えたことによりお互いを信頼出来る相手だと理解して、エレーナ様は無理に敬語を使う必要は無いと」


 言い淀むエレーナを庇うかのようにアーラが口を出し、何かを察したダスカーは再び口元へと笑みを浮かべる。


「そうかそうか。ケレベル公爵令嬢にして、姫将軍と名高い人の信頼を勝ち取ったか。さすがだな、レイ」

「……ありがとうございます」


 アーラのフォローに苦笑を浮かべつつダスカーへと頭を下げるレイ。


「エレーナ様、そろそろ出発した方がいいかと。あまりここで時間を取られては……」

「うむ、そうだな。……レイ」


 エレーナの言葉にレイが視線を向けると、1歩を踏み出しその耳元で小さく囁く。


「私の初めてを捧げたのだ。乙女の唇の代金は決して安いものではないぞ」


 短くそう告げると、キスをした時に感じた体臭と香水の混じったエレーナ独特の香りを残してさっさと馬車の中へと入っていく。


「では、失礼します。今回は本当にありがとうございました」


 最後にアーラがそう告げ、馬車はラルクス辺境伯の館を出発して街中へと向かうのだった。

 ……その頬をまだ僅かに赤く染めたレイをその場に残して。

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