劉裕89 司馬休之上奏 上

415 年、東晋とうしん最後の大物、

司馬休之しばきゅうし劉裕りゅうゆう打倒のため決起。

その際の上奏文です。


参照

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888050025/episodes/1177354054888819332



臣聞運不常一 治亂代有

陽九既謝 圮終則泰

 常々聞き及んでおりました。

 治と乱とは入れ替わるものである、と。

 とは申せど、禍が起こったとしても、

 驍勇がおればそれを制することも

 叶うものでございます。


昔篡臣肆逆 皇綱絕紐

卜世未改 鼎祚再隆

 過日に発生いたしました

 篡臣・桓玄かんげんによる肆逆。

 ひとたびこそ皇綱が断たれたものの、

 そのままの世とはならず、

 改めて晋の威光は

 盛んなものとなりました。


太尉臣裕威武明斷 道建義旗

除蕩元凶 皇居反正

 太尉・劉裕りゅうゆうどのは威武明斷、

 義旗を翻され、桓玄めを滅ぼし、

 陛下を無事お連れ戻しになりました。


布衣匹夫 匡復社稷

南剿盧循 北定廣固

千載以來 功無與等

由是四海歸美 朝野推崇

 微賤の出でありながらも

 社稷を復せしめたこと、

 南では盧循ろじゅんを討伐し、

 北では南燕なんえんを攻め滅ぼしたこと。

 これらはこの千年を見渡しても

 並ぶことのない壮挙であります。

 その働きによって

 国土は美しさを取り戻し、

 朝廷は再び人々からの尊敬を

 勝ち得た、とは申せましょう。


既位窮台牧 權傾人主

不能以道處功 恃寵驕溢

 しかるに位人臣を極め、

 権勢を一手に握った今、

 かの者は驕りたかぶっております。


自以酬賞既極 便情在無上

刑戮逆濫 政用暴苛

 自らに与える酬賞の極まりたること、

 己より上の者などおらぬかのような

 有様でございますし、

 また刑戮も恣意的に執り行い、

 自らの意に染まぬ多くの者ものを

 次々と葬り去りました。


問鼎之迹日彰 人臣之禮頓缺

 そこに晋を奉じる

 気持ちはあるのでしょうか。

 人臣としての礼に欠けている、

 とは申せませんでしょうか。


陛下四時膳御 觸事縣空

宮省供奉 十不一在

 陛下に供される膳御にも事欠く有様、

 御身周りの諸費も

 十分の一以下に削られた、

 と聞き及びました。


皇后寢疾之際 湯藥不周

手與家書 多所求告

 また皇后陛下御病気の際にも

 湯藥が手に入らず、側近が

 方々に駆け回られた、とも伺いました。


皆是朝士共所聞見

莫不傷懷憤歎 口不敢言

 みな朝廷に従事する者から

 聞いたことであり、

 誰もが傷懷憤歎しておりましたが、

 劉裕どのに洩れれば

 ことでありますので、表立っては

 口を閉ざしておりました。


前揚州刺史元顯第五息法興

桓玄之釁 逃遠於外

王路既開 始得歸本

太傅之胤 絕而復興

凡在有懷 誰不感慶

 司馬元顯しばげんけん殿の第五男、司馬法興しばほうこう殿は、

 桓玄の専横から逃れるため

 亡命しておりましたが、

 晋室再興に当たって帰還いたしました。

 一度は絶え掛けた司馬元顕殿の系譜が

 再興となりましたこと、

 慶ばぬ者など

 いかほどおりましたでしょうか。


裕吞噬之心 不避輕重

以法興聰敏明慧 必為民望所歸

芳蘭既茂 內懷憎惡

乃妄扇異言 無罪即戮

 しかしながら逆臣・裕めは

 吞噬の心(乗っ取る、の意)を

 むき出しとし、

 司馬法興殿が聰敏明慧、

 民の心を集めかねないと見るや、

 表向きはその復帰を慶賀するよう

 振る舞いながらも内心では憎惡し、

 たちまち無実の罪を着せ、

 処刑してしまいました。


大司馬臣德文及王妃公主

情計切逼 並狼狽請命

 大司馬・司馬德文しばとくぶん様、

 および王妃公主の皆々様方も

 この事態には大いに狼狽され、

 助命を乞いましたが叶いませんでした。


逆肆禍毒 誓不矜許

寃酷之痛 感動行路

 劉裕めの行いは

 もはや禍毒と呼ぶべきものであり、

 到底許されるものではありません。

 その仕打ちの数々にて、

 私自身も胸を深く傷めずにおれません。


自以地卑位重 荷恩崇大

乃以庶孽與德文嫡婚

致茲非偶 實由威逼

 しかも奴は卑しい立場にありながら、

 司馬徳文様の娘御と自らの子を

 その立場の違いを威で押し切り、

 強引にめあわせまでしました。


衞將軍劉毅 右將軍劉藩

前將軍諸葛長民 尚書僕射謝混

南蠻校尉郗僧施

 劉毅りゅうき殿、劉藩りゅうはん殿、諸葛長民しょかつちょうみん殿、

 謝混しゃこん殿、郗僧施ちそうし殿。


或盛勳德胤 令望在身

皆社稷輔弼 協讚所寄

無罪無辜 一旦夷滅

猜忍之性 終古所希

 どなたも勳德盛んであり、

 社稷の輔弼に身を捧げて来られました。

 しかし無罪無辜であるにもかかわらず

 滅されました。劉裕が見せた

 猜忍の性の恐ろしさたるや、

 歴史を振り返りましても

 そう見られたものではございません。




十一年正月,休之上表自陳曰:

臣聞運不常一,治亂代有,陽九既謝,圮終則泰。昔篡臣肆逆,皇綱絕紐,卜世未改,鼎祚再隆。太尉臣裕威武明斷,道建義旗,除蕩元凶,皇居反正。布衣匹夫,匡復社稷,南剿盧循,北定廣固,千載以來,功無與等。由是四海歸美,朝野推崇。既位窮台牧,權傾人主,不能以道處功,恃寵驕溢。自以酬賞既極,便情在無上,刑戮逆濫,政用暴苛。問鼎之迹日彰,人臣之禮頓缺。陛下四時膳御,觸事縣空,宮省供奉,十不一在。皇后寢疾之際,湯藥不周,手與家書,多所求告。皆是朝士共所聞見,莫不傷懷憤歎,口不敢言。前揚州刺史元顯第五息法興,桓玄之釁,逃遠於外,王路既開,始得歸本。太傅之胤,絕而復興,凡在有懷,誰不感慶。裕吞噬之心,不避輕重,以法興聰敏明慧,必為民望所歸,芳蘭既茂,內懷憎惡,乃妄扇異言,無罪即戮。大司馬臣德文及王妃公主,情計切逼,並狼狽請命。逆肆禍毒,誓不矜許,寃酷之痛,感動行路。自以地卑位重,荷恩崇大,乃以庶孽與德文嫡婚,致茲非偶,實由威逼。故衞將軍劉毅、右將軍劉藩、前將軍諸葛長民、尚書僕射謝混、南蠻校尉郗僧施,或盛勳德胤,令望在身,皆社稷輔弼,協讚所寄,無罪無辜,一旦夷滅。猜忍之性,終古所希。


(宋書2-21_肆虐)




司馬休之のこの上奏文、まぁ本当のことも語ってるのかもしれないんですけど、一箇所どうあがいても受け入れきれない点があるんですよね。それは司馬元顕の息子、司馬法興の存在。司馬道子・元顕親子が晋をグズグズにしまくったってのは東晋士人内では共通の認識のはずで、ならその息子を称賛することに、果たしてどれだけの意義があるのか。逆に東晋皇族に人物がいない傍証になっちゃいないだろうか。


なんにせよ、この上奏をまるまる載せているあたりは、沈約もできるだけフラットに劉裕の事績を示そうとしているように思える。とはいえこの辺の流れはすべて劉裕の器のデカさに収斂していくんですけどね。巧妙だよなあ。

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