高句麗2 あと北燕    

422 年、高璉こうれんの官位に

散騎常侍、督平州へいしゅう諸軍事を追加。


424 年、高璉は馬婁ばるいを遣使、朝貢した。

劉義符りゅうぎふも返礼の使者を送り、

あわせて詔勅を与える。


「ここに皇帝は高璉どのを慰問する。


 軍備を整え東方を抑えたその功績、

 実に見事に先王のあとを継いでいる。

 民にもたらされた恵みは明らか、

 またその治績も確かなもの。

 その上で遼河りょうがを越え海を越え、

 我らが元に朝貢をなしてきた。


 朕は不德の身ながら、

 畏れ多くも皇統を継ぎ、

 先帝以来の友好関係を想い、

 改めてそなたらと交流したく思う。


 大使の朱邵伯しゅしょうはく、副大使の王邵子おうしょうしらを

 使者として派遣し、我が意を委ね、

 この言葉を持ってそなたらの労を

 いたわりたく思う。


 その身を健勝とし、よき政をなし、

 ますます功績を盛んとし、

 天命を果たされんことを願うが、

 朕の意である」



これより以前、後燕こうえん慕容宝ぼようほう

中山ちゅうざんに拠点を構えていたが、

北魏ほくぎの侵攻を受けて東の黃龍こうりゅうに下った。

義熙ぎき年間の初めころまでに

王が入れ替わり、ついには慕容熙ぼようき

馮跋ふうばつに殺さるという事件が起こる。

馮跋が黃龍城と首都と定めたため、

建康では北燕を黃龍国王とも呼称した。


馮跋が死ぬと子の馮弘ふうこうが王位を継ぐ。

馮弘もまた北魏よりの侵攻を受けたが、

攻め落とされることはなかった。


劉義隆りゅうぎりゅうの代になったところで、

毎年遣使し、朝貢をなしてきた。




三年,加璉散騎常侍,增督平州諸軍事。少帝景平二年,璉遣長史馬婁等詣闕獻方物,遣使慰勞之,曰:「皇帝問使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高句驪王、樂浪公,纂戎東服,庸績繼軌,厥惠既彰,款誠亦著,踰遼越海,納貢本朝。朕以不德,忝承鴻緒,永懷先蹤,思覃遺澤。今遣謁者朱邵伯、副謁者王邵子等,宣旨慰勞。其茂康惠政,永隆厥功,式昭往命,稱朕意焉。」先是,鮮卑慕容寶治中山,為索虜所破,東走黃龍。義熙初,寶弟熙為其下馮跋所殺,跋自立為主,自號燕王,以其治黃龍城,故謂之黃龍國。跋死,子弘立,屢為索虜所攻,不能下。太祖世,每歲遣使獻方物。


三年、璉に散騎常侍を加え、督平州諸軍事を增す。少帝の景平二年、璉は長史の馬婁らを遣りて闕に詣で方物を獻ざば、使を遣りて之を慰勞せしめて曰く:「皇帝は使持節・散騎常侍・都督營平二州諸軍事・征東大將軍・高句驪王・樂浪公を問い、戎を纂し東に服さば、績を庸とし、軌を継ぐ。厥惠は既に彰らかにして、款誠亦た著しくす。遼を踰え海を越え、本朝に納貢す。朕は不德を以て、忝けなくも鴻緒を承け、永く先蹤を懐き、遺澤を思覃す。今、謁者の朱邵伯、副謁者の王邵子らを遣わし、宣旨を以て慰労す。其の茂康と惠政、永く厥功を隆し、式に往命を昭らかとし、朕が意を称さん」と。是の先、鮮卑の慕容寶の中山を治むるに、索虜に破らる所と為り、東の黃龍に走る。義熙の初、寶が弟の熙の其の下の馮跋に殺さる所為り。跋は自立し主と為り、燕王を自號し、以て其の治を黃龍城とし、故に之を黃龍國と謂う。跋の死せるに、子の弘が立ち、屢しば索虜に攻めらる所為れど、下す能わず。太祖の世、歲の每に使を遣り方物を獻ぜしむ。


(宋書97-2_政事)




相変わらず内情はさっぱりわからない。たぶんこいつら興味ない。「遠い地方から珍しいお土産持ってきてくれるおじさん」程度の認識しかもっていなかったのではないか。だって後燕〜北燕って慕容宝→(慕容盛→)慕容熙→([慕容/高]雲→)馮跋ですからね。略されすぎ。これに較べると吐谷渾ってエピソードが残されてて幸せだなあ……。


詔勅中に出てくる朱邵伯、王邵子は、おそらくラストが爵位で、真ん中は何らかの職掌を示すのでしょう。けど「邵」字を調べても、いわゆる河内郡、つまり司馬氏の本貫の呼称みたいな情報しか手に入らない。うーん、謎。

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