これから

第15話

 カポン、と。

 実際に鳴っていたわけではないが、どこかでそんな音が聞こえた気がする。

 空を見上げれば、満点の星空が視界に飛び込んできた。なるほどたしかに、天体観測も悪くはない。

 それが温泉に浸かりながらであれば、なおのこと。


「ふぃ〜……体に染み渡る……」

「なんだよ織、随分おっさん臭いぞ」

「疲れてるんだよカゲロウ。桐生先輩は、俺たちが知らない間も頑張ってくれてたんだしさ」


 湯船に肩まで浸かっていれば、後輩二人が笑いながら話しかけてくる。

 そんななんでもないことですら、とても久しぶりに思えて。緩くなりすぎた織の涙腺は、これだけで既に決壊寸前だ。


 赤き龍と転生者との戦いから、一週間が過ぎた。あれから事後処理が色々とありつつ、他の面々にはいつも通り学校に通ってもらったり仕事に行ってもらったりしてたから、ゆっくりと全員で集まる時間を取れていなかったのだ。

 愛美は毎日のように事務所に来ているし、引越しの準備も着々と進んでいるが。


 数日経ってようやく後処理も片付いたので、こうしてみんなで温泉旅行にやって来た。しかも旅館とかじゃなくて、サーニャが所有している別荘だ。

 人里離れた海沿いに位置しており、すぐ後ろには山もある。都会から遠いこの場所では、星も綺麗に見えた。


「いや、つーかサーニャはなんで別荘とか持ってるんだよ。お金持ちなの?」

「この世界じゃあの人は、結構有名な研究者ななっててな。実家も大きいし、本人の研究もあってかなり裕福だぞ」


 織の疑問に答えたのは、素っ裸で腰に手を当てて、なぜか女風呂との間を隔てている木製の壁を見つめた緋桜だ。

 もう嫌な予感しかしない。


 それは桶に貯めたお湯に浸かる、ミニチュアサイズに戻った吸血鬼も同じなのか。胡乱な眼差しでマッパのバカを見つめていた。


「おい緋桜。貴様、何を考えている?」

「なにって、分かるだろ? ここはサーニャさんの別荘で、俺たち以外誰もいない。おまけに女風呂との間にはそこの板ひとつ。男ならやることは決まってる」

「バカだろあんた」


 つまり、覗きしようぜ! ということだろう。思わず本音が漏れてしまったが、どう言い繕ったところでバカ以外の言葉が見つからない。

 だが意外にも、緋桜に便乗したのはカゲロウだった。


「お、いいじゃねえか。オレも乗ったぜ緋桜。あいつらにはたまに仕返ししとかねえとな。兄を雑に扱う罰だ」

「カゲロウまで……結果は見えてるし、やめといたほうがいいと思うけど」

「おいおい蓮、お前それでも男かよ」

「問題は、どうやってバレずに済むかってところだな……」


 なにやら真剣に考え始めた緋桜だが、バレないわけがない。なんならこの声もあちらに聞こえてる可能性だってあるのだから。

 まあ好きにやらせておくか。嫁や娘の裸を覗かれるのは全力で止めたいし、いつもの織ならその通りにしていたのだろうが。肉体的にも精神的にも疲労がマックスで、そんな気も起きない。それに、織が止めるまでもないのだし。


 視界の端にグランシャリオやら稲妻やら砲撃やらが降り注いでるを確認しながら、織は隣に腰を下ろしている後輩に話しかけた。


「なあ蓮。お前は、これでよかったか?」

「……記憶のことですか?」


 この新世界で戦うのは自分たちだけでいい。記憶を持ち越していない彼ら彼女らには、平和な暮らしを送って欲しい。

 最初はそう思っていたはずなのに、蓋を開けてみればこんな結果だ。おまけに織は、みんなが記憶を取り戻してくれて、嬉しいと感じている。


 たしかに、みんなが駆けつけてくれたからこそ、赤き龍にも転生者にも勝てたのかもしれない。しかし当時のこちらの戦力でも、どうにかすることはできたはずだ。


 もしも、と。考えてしまう。誰に尋ねたところで、返ってくる答えは分かっているのに。


「それ、桐原先輩とか葵とかには、聞かない方がいいですよ。絶対怒られますから」

「だろうな」

「俺だって、本当は文句のひとつでも言いたいんですよ。でもそうやって悩むのは、桐生先輩らしくて。逆に安心します」


 苦笑を浮かべる蓮は、器用にも織と会話しながらバカ二人を糸で括り付けて拘束していた。そのまま湯船にボッシュート。


「思い出した今になると、記憶が戻ってよかったって思えますよ。俺には戦う力があって、この手を伸ばすこともできる。だから、たくさんの人を守れる。でも多分、ただの高校生でしかない俺だったら、命懸けの戦いなんてしたくない。もしも本当に記憶を戻されてたら、逃げてたかもしれません」


 旧世界でこんなことがあった、とその記憶を情報として与えられただけなら。人格に紐づけた記憶ではなく、単なる記録として知らされたら。

 蓮はそういうもしもを話している。


「結局のところ、結果論でしかないですけどね。今の俺は記憶を取り戻した俺でしかなくて、それ以前の俺がどうするかなんて、予想することしかできませんから」

「いや、そうやって正直に言ってくれるだけで十分だ」


 少しだけ、気が楽になったように思う。

 正義のヒーローを志した、正しい心の持ち主である後輩。彼に話を聞いてよかった。

 女性陣はあれで、結構直情型が多いから。蓮のように、過去の自分の感情まで論理的に分析するようなやつは、翠かサーニャくらいのものだろう。


 ひょっとすると、互いに身につけるものが何ひとつないこの場所も、少しは影響してるかもしれない。


「まあ結論を言えば、俺は感謝してますよ。桐生先輩と朱音が、この世界を作ってくれたことも。一ヶ月と少しの間、俺たちのために戦ってくれてたことも。記憶と力を戻してくれたことも」

「記憶の方は不可抗力だけどな」


 というか、織の失態が原因だし、あまり褒められたことではない。


「でもこれでまた、一人でも多くの人を守るために、戦える」


 それを真顔で、心の底から言えるのなら。この少年は既に、誰かにとってのヒーローなのだろう。

 少なくとも、織はそんな風に考えられないのだから。


「龍さんも、聖剣の後継者がお前で鼻が高いだろうな」

「ですかね。あ、そういえばこの前、剣崎さんとルークさんと会いましたよ。棗市に来てたみたいですね」

「ああ、ちょっとな。事後処理の手伝いを頼んでたんだよ。ドラグニア側との折衝なんかを頼んでた。そっちにも行ってたんだな」

「はい。可愛い弟子の様子を見に来た、って」


 はにかんで笑む蓮は、師である龍のことをよほど慕っているのだろう。俺の師匠も素直に慕うことのできる人だったらなぁ、と織はつい思ってしまう。


 怜悧な表情で勘違いされがちだが、剣崎龍はかなり優しい人物だ。というか、世話焼きと言った方が正しい。ルークやら蒼やらにこれまで何度も振り回されている経験が故か、龍にアダム、有澄の三人が特にその傾向にある。

 まあ、有澄はたまに振り回す側になってそうだが。


「桐生先輩のこと、すごい文句言ってましたよ。人使いが荒いのは蒼に似てる、って」

「うわぁ、嬉しくねえ」


 うげ、と苦い顔をすれば、蓮が吹き出した。

 この世界に、小鳥遊蒼はもういない。彼は旧世界においてリーダーとして織たちを引っ張ってくれたが、そんな彼はいないのだ。なら、彼の代わりになるリーダーが、先頭に立ってみんなを引っ張る存在が必要となる。


 一先ずの脅威は去ったが、しかし赤き龍の影響で魔物は出てくるだろうし、他の転生者だっている。戦いは終わらない。


 蒼みたいに上手くは出来ないが、それでも織が他のみんなの先頭に立たなければ。

 この世界を作ったのは他の誰でもない、織自身で、みんなを再び戦いに巻き込んでしまったのも、織の責任だ。


 一人覚悟を決めていると、ミニチュア吸血鬼からあからさまなため息が。


「貴様ら、もう少し他に話題はないのか? いつまで魔術だなんだとそっちの話をしているつもりだ」

「んだよ、なんか文句でもあんのか?」

「子供は子供らしく振る舞え、ということだよ」


 ふっと小馬鹿にしたような笑みを浮かべるグレイは、これでも織のことを気遣っているつもりなのだろう。

 吸血鬼として千年以上を生きたグレイから見れば、織はおろか、桃やサーニャであっても子供同然だ。


 彼本来の性格を大体理解してきている織からすれば、余計なお節介だと言いたくなるが。一方の蓮は、旧世界でのグレイしか知らないからか、訝しげな視線を投げている。

 そしてその視線に応えて、吸血鬼は蓮へ話を振った。


「例えば、糸井蓮。貴様、葵とはどうなっている?」

「えっ」

「旧世界での関係は大体察せられたが、この世界でもそうとは限るまい。更に記憶を取り戻したとあれば、さぞや面白いことになっていそうではないか」


 予想外の相手から想定外の質問を食らったからか、蓮は視線を泳がせている。

 まあ、グレイは葵の父親なわけだし、可愛い娘のその辺の事情は気になるのだろう。同じ父親である織には理解できる。


 そして面倒なことに、この場にはその辺の話題に敏感なバカがひとり。


「なっ……! おい蓮お前まさか、もう既に葵のことを……!」

「そういう緋桜さんこそ、桃先輩とその後どうなんですか?」

「……」


 バカ、沈黙。

 いやはや、この後輩も強かになったものである。そりゃまあ普通に考えて、葵と蓮よりも緋桜と桃の方が色々とややこしい事情があるだろうし。

 緋桜自身、明確に答えることはできないのだろう。そのうち絶対拗らせて余計面倒なことになる。そうに違いない。


「俺と葵は、まあ上手いことやってる。あなたに口出しされるようなことじゃない」

「そうか、ならいいのだがな。私が言えた義理ではないのだろうが、一応は私の子供だ。大切にしてやってくれ」

「それこそ、あなたに言われるまでもない」


 傍でそんなやり取りを聞いていた織は、ふと思う。

 その子供のうちの一人が、まだそこで湯船に沈んでいるのだが、それはいいのだろうか、と。



 ◆



 温泉から上がった後、桐生朱音は一人屋上に佇み、夜空を眺めていた。


 今日は本当に楽しい一日だった。

 久しぶりにみんなで集まって、みんなで遊んで、みんなでご飯を食べて。まさしく、朱音が望んでいた平和な日常が、そこにあったのだから。楽しくないわけがない。


 本当なら、花蓮と英玲奈にも、丈瑠にも、来て欲しかったのだけれど。一応、今後の戦いについても話し合うつもりだったのだ。

 三人が記憶を取り戻していることは確認しているとはいえ、やはりそれでもなんの力も持たない一般人だ。巻き込むわけにはいかない。


「こんなところにいたのか。湯冷めするぞ」

「サーニャさん」


 掛けられた声に振り向いてみれば、サーニャがふわりと宙に浮いていた。この別荘には屋上に続く道なんてないから、飛び乗るしかない。朱音も同じようにしてここへ来た。


 音もなく着地した銀髪の吸血鬼。

 いや、もう吸血鬼じゃないのか。その力と特性を持ってはいるものの、肉体は人間のものだ。それは、葵たちも同じ。


「どうしたんですか?」

「こちらのセリフだ。姿が見えないから気になって探せば、なにをこんなところで黄昏ている」

「そういうわけじゃないのですが。あ、もしかして心配してくれました?」


 かつてと同じように。揶揄い混じりの笑みを浮かべて尋ねれば、ため息がこぼされる。


 ああ、私のよく知っているサーニャさんだ。表情や態度、言葉の上ではどれだけ冷たくあしらわれても。その性根の優しさが隠しきれない、私の大好きな人だ。


「心配などしておらん。するだけ無駄だと、あの世界で嫌というほど思い知らされた。過去でも未来でもな」


 柔らかい笑みが浮かび上がる。

 葵と同じだ。あの世界の、あの未来。朱音が生まれ育ち、絶望を味わった未来の記憶も、サーニャは有している。

 だからだろうか。旧世界での過去のサーニャよりも、雰囲気が優しいのは。


「それで? 貴様は本当になにをしていたのだ。翠も探しておったぞ」

「別に、大したことはしてませんが。今日一日を噛み締めてたんです」

「それこそ、大したことはしていないと思うがな」


 緋桜とサーニャ、二人が運転する車に乗って、棗市から遠路遥々、この別荘へやって来た。

 海水浴にはまだ早い時期なので海に入ることはなかったが、その代わりにバーベキューをして沢山お肉を食べた。

 山の中で全力の鬼ごっこもして、最終的には鬼の愛美に全員捕まってしまった。

 汗だくの状態で温泉に浸かって、覗こうとしていた緋桜とカゲロウに、何人かが多少過激なお仕置きをしていた。

 夕飯は織とサーニャ、葵と蓮が美味しいご飯を作ってくれて、食休みに各々がまったりとした時間を過ごす中。

 朱音は一人抜け出して、この屋上に来た。


 たしかに、特別取り立てて大きなイベントということでもない。その気になれば、いつだって同じことができるだろう。

 今は織と朱音だけじゃない。みんながいるのだ。大好きなみんなが。私に優しくしてくれた、とても大切な人たちが。


 その事実こそを、朱音は噛み締めている。


「こんな日が訪れるなんて、あの時の私は、思いもしませんでしたので」

「あの時、か」


 右手に銀の炎を灯す。

 物心ついてから、世界の惨状を正確に理解した時。

 両親と死別し絶望した時。

 後悔を抱いたまま自分も死んでしまった時。


 二十年の時を遡り、全てを変えるための戦いを始めた時。


 そのどこを切り取っても、当時の朱音はこんな時間を想像もしなかっただろう。

 しかし、過去へ訪れ、ざまざまな人と出会い、あるいは別れ、色んな経験をする中で。何度も何度も夢想した。


 いつか、と。

 いつか、私の知らない平和な日常を、大切な人たちと一緒に。


 それが今、この世界で叶っている。

 泣き出したいくらいに嬉しいのだ。


「大したことはしていない。それでいいんです。普通の人たちが、当たり前に過ごしている日常。それこそ、私が求めてやまない未来なので」

「そうか」


 短い相槌に、どれだけの想いが込められているのか。

 ちょいちょいと手招きするサーニャ。小首を傾げつつも、朱音はてくてく歩み寄る。きょとんとした顔で見上げていれば、ふわりと、長身のサーニャが小さな朱音を、優しく包み込むように抱きしめた。


「今日まで、よく頑張ったな」

「サーニャさん……」

「我は、貴様のことを誇りに思う。貴様の親代わりとして、一人の友として」


 まるで赤子をあやすように、頭の後ろをぽんぽんとされる。

 ただそれだけで、今まで我慢していたものが、全て決壊した。


「うっ……ひっぐ……もう、泣かないって、決めてたのに……サーニャさん、狡いですっ」

「それは悪いことをしたな」


 視界が滲む。嗚咽が上がり、感情の制御ができない。

 本当に嬉しくて。込み上げてくるものを全て吐き出してしまうまで、サーニャはずっと、朱音のことを優しく腕に抱いてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る