第54話 国会設立のきっかけとなった! 自由民権運動とは?

 前回、西南戦争(エンド オブ サムライ)が終結し、サムライは政府に武力で反発することはなくなりました。

「もう力じゃ勝てない!」と、西南戦争によって知らしめられたのです。


 じゃあ、もう反乱を起こさないのかと言われたら、そんな事はありません。


 西南戦争の後も、政府に反発します。ただし、その方法が「暴力から言葉」に変わったのです。



【西郷隆盛とは違うアプローチだった!? 自由民権運動!】

 同時進行でひじょうにややこしいのですが、西郷隆盛が西南戦争を起こす前、板垣退助は「政府は国民に義務を課せるのに、国民の意見を聞かないのはおかしいでしょ! 国会を作って、国民の意見を取り入れるべきだ!」という、意見書を出しました。


 この意見書を『民撰議院設立白書みんせんぎんせつりつはくしょ』といいます。「幽々白書」と名前が、少し似ていますが、漫画家の富樫先生は、全く関係ありませんw


 この板垣退助が「国会を作りなさい!」と、政府に意見を言ったのが、『自由民権運動』の始まりです。


 さて、このあと西南戦争が発生し、サムライたちが敗北しました。


「もう、力じゃ勝てない!」と、痛感したサムライは……


サムライ「板垣さんが、自由民権運動っていうのを、やっているらしいぞ! 俺たちもこの波に乗るしかない!」


 西南戦争で生き残ったサムライも、自由民権運動に参加しはじめたのです。


退助「国会を作って、国民の意見も取り入れろー!」


サムライ「そうだー! そうだー!」


 このように「暴力ではなく言葉」で、自分達の立場を守ろうとしたのです。


 つまり『西南戦争』と『自由民権運動』は、どちらも「サムライとサムライを擁護した人による、政府に対しての反発」なのです。


 しかし、この2つは似ていますが、『西南戦争』は「暴力」だったのに対して、『自由民権運動』は「言葉」というように、アプローチが全然違うんですね。


 自由民権運動は退助を中心に全国へ広がっていき、一般の人々までもが「国会開設」を訴えるようになりました。


 こうして人々の主張は大きなうねりとなり、明治政府も止めることができなくなりました。そして、ついに折れた政府は……


政府「わかった! 10年後に国会を作るから」


 このように約束し、これは現実となります。


 


【大日本帝国憲法の制定!】

 伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任して、ついに内閣制度がスタートしました! とは言え、西南戦争や自由民権運動など、揉め事があちらこちらで起きているし、国会をつくらないといけません。


 また、列強国にも日本は今までと違う国である事を、アピールしなければいけませんでした。というのも……


日本「さあ! 欧米諸国の皆さん! 日本は近代国家です! 不平等条約を解消してください」


 欧米諸国に認められ、『日米修好通商条約』を解消したかったのですが……


欧米「まだまだ、だよー」

 

日本「ええ!」


 

欧米「だって、日本には憲法がないしー。法治国家とはいえないねー」


日本「ぐぬぬぬ」


 現代では『日本国憲法』というちゃんとした憲法があるので、日本全国どこでも「日本の法律」が通用します。

 なので、どんなに距離が離れていても、「沖縄と北海道では法律が違う」なんて事はありません。


 しかし、西南戦争が終わったばかりの日本は、この前まで藩という小さな国が集まった状態で、法律はバラバラでした。


 新政府は廃藩置県によって、国をひとつにまとめあげたのはいいけど、運営する憲法がありませんでした。


 だから、欧米などの列強国からは近代国家として、認められていなかったのです。


 明治政府は列強国に認められるためにも、急ピッチで憲法を制定する必要があったのです。



【明治政府の憲法づくり!?】

「憲法を作る!」と漠然と言っても、なにも出来ません。

 なので、政治家は様々なヨーロッパの憲法を必死に勉強し、時にはヨーロッパに行くこともありました。


政治家A「フランスのがいいんじゃない?」


政治家B「イギリス式がいいよ」


政治家C「オランダ式も捨てがたい……」


 このように会議が行われました。


博文「ドイツの憲法が日本にあっていると思う!」


政治家一同「な、なにー!」


博文「日本の憲法は、ドイツ式で行きます!」


 そう、ここで出てくるのが初代総理大臣の伊藤博文です。


 なぜ博文はドイツの憲法を参考にしたのかというと、明治政府は「天皇が全ての権限を持つ」という、『君主制』に基づいた国をつくろうとしていました。


「君主制ってなんぞ?」と思っても大丈夫、わかりやすくお話します! 

 君主制を簡単に言うと「王様が一番偉い」ということです。なので、合コンなどで盛り上がる「王様ゲーム」は、君主制を体言化していると言ってもいいでしょうw


 当時のドイツは「王様が一番偉い」という、君主制に基づいた憲法でした。


 博文は「天皇が一番偉い国にしたい!」と思っていたので、ドイツ式はピッタリの憲法だったんですね。


 とは言え、簡単には決まりませんでした。


大隈重信おおくましげのぶ「イギリス式の方がいいでしょ!」


 ここで「待った!!!」をかけたのは、重信しげのぶでした。


重信「天皇に権限を集中させるんじゃなくて、国会に強い権力を与えて、国民の言葉をもっと取り入れるべきだ!」


 重信はこのように主張しました。


「天皇中心にしたい博文」と「国会中心にしたい重信」は考え方が違うので、当然ケンカします。そして、最終的に……


博文「もう、お前なんか、政界から出ていけ!」


重信「ぎゃあああああああああ!」


 なんと、博文は重信を政界から追放したのです。重信と博文のケンカを『明治十四年の政変』と呼びます。


『明治十四年の政変』によって博文有利となった日本は、ドイツ式の憲法を参考にして、『大日本帝国憲法』を作り上げたのです。


 ちなみに重信ですが、この後、早稲田大学を設立したり、政府に呼び戻されて外務大臣に就任しました。そして、総理大臣まで上り詰めます。


 まさに「返り咲きの大隈重信」っていったところでしょうか。



【大日本帝国憲法の問題点】

 ドイツの憲法を元に『大日本帝国憲法』が出来上がったのですが、その序盤に「天皇は神様から、権力をもらっているから、人々を統治しているんだよ」と書かれています。


 このように、「王様は神様から権力を授かっている」と主張するのを『王権神授説』といいます。


 ようするに、憲法にスピリチュアル的な要素を取り入れて、天皇を神様のようにして、統治しようとしたんですね。


 紆余曲折を経て、日本は近代国家として一歩踏み出しました。また、日本はアジアで最初に憲法をつくった国でもあります。


 さて、大日本帝国憲法には大きな問題がありました。


 それは「軍部の天皇が直接率いる」というものです。ようするに「軍のリーダーは天皇だよ」という意味なので、「内閣や議会は軍に指示できない」という事になりますね。


 これが後々、大問題になります。なんとなく予想はついていると思いますが、政府や議会が軍に指示できなかったため、軍部が暴走し、第二次世界大戦で大きな被害をもたらすのです。

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