終焉の予兆

 人間は異なる時を生きているという説がある。

 それはある意味において正しく、ある意味において間違っていると言える。


 なにせ、物理法則という鎖に囚われている以上、人間か否かという以前に、時間は不変ではないのだから。


 静止している個が光速で動く物体を観測した時、光速で動く物体の時は止まっており、重力は空間と時間を歪めると提唱した学者は誰だったか。


 灯火トーチの光が消え、急に薄暗くなったことで魔導書から顔を上げたアルバートは、時間の経過にふとそんなことを考えた。


 灯火トーチの効果時間は使用する魔力量によって異なるが、彼の記憶が確かであれば一日は持つように魔力を込めておいたはずだ。つまり、一日近くも書に没頭していたことになるわけで、己の集中力に感心するやら呆れるやら、難しいところだ。


 開新しい灯火トーチを打ち上げ、時は変化するというが、感じ方という意味であればなおさらだなと苦笑する。


 年を重ねれば重ねるほどに、年月の流れる速度は速く感じるという。これは過去を忘却する性質と、生活に追われる繁忙雑多な生活ゆえの弊害と言えるかもしれないが、とかく年を重ねるほどに時間というものは短くなっていくのだ。


 それは不死イルフェンノという特殊な性質を持つアルバートにとっても同様で、ふと気づけば一年、二年が経っているということもざらだった。


 いや、あるいは年月など関係なく、単なる探究心からなる極度の集中の結果であるかもしれないが。


「……駄目だな。どうにも時間を忘れがちだ」


 果たしてどれほどの年月をここで暮らしているのか、もうほとんど分からない。とはいえ、分かったところで意味はなかろうとアルバートは小さく笑う。


 そもそも、時を知る術を失って久しかった。


 この場所で時を知るには、本棚に刻んでいた傷が唯一の頼みだ。しかし、魔力増強の手段を手に入れてからこちら、魔導の探究にのめり込むあまり時を刻む手は止まっている。


 それほどに、彼は魔導の道にのめり込んでいたのだ。


 世界平和という大目標を達成するための手段として学んでいたはずが、魔導の真髄に至ることもまた人生の目標足りえると確信するに至っていた。


呪詛調印ルレア・ア・ロア


 一日の習慣となっている呪文の詠唱を行い、呪力を増加させる。


 途端、痛みにもんどり打ち、地面に転がる。

 痛みに耐える獣のような低い唸り声が漏れる口元からは、石をすり合わせるような不思議な音も聞こえていた。


 否、石ではなく、歯だ。


 強い痛みを堪えようと噛み締めた上下の歯が擦り合わされ、耳障りな不協和音を奏でていた。


 存在を強制的に変容させる痛みは、どれほど経験しようとも慣れるということがない。どれほど準備しようと、身構えようと、耐えがたい苦痛に身を引き裂かされそうになるのだ。


 だが、それこそが望むところであった。


「……呪詛調印ルレア・ア・ロアっ」


 痛みがある程度引いたところで、再び呪文を唱える。


 これまでの経験から呪力がある一定より少なくなると意識を失い、呪力が回復するまで目が覚めないことが分かっている。


 逆を言えば、その限界を見極めさえすれば、何度でも呪詛調印ルレア・ア・ロアを使用することができる。


 全ての呪力を消費したところで、増加する呪力量は微々たるものではあるが、長い年月の積み重ねは確実にアルバートという存在を強大にしていた。


 ようやく日課をこなした時には、奥歯が数本砕け、血が滴っていた。


「……今日も折れたか」


 ため息一つ、その間に折れた奥歯は逆再生のように元に戻っている。


 奥歯の嚙み具合を確かめるように指を突っ込み、数度触って確認する。特に問題ないと判断すると、読みかけていた本を手に取って灯火トーチをの光を打ち上げ、再び魔導書に視線を落とした。


 呆れた偏執狂じみた執着心と言うべきだろうか。

 だが、ふと誰かの視線を感じて顔を上げた。


「……カルロか?」


 声を掛けても返答がないことは分かっていた。

 これまで何度も視線を感じていたが、一度たりとて答えが返ってきたことはない。


 代わりに視界に入り込んだのは、暗闇に霞んだ違和感だ。


「……壁?」


 目を凝らしてみれば、確かに壁だった。

 驚くべきことに、無限に続くと思っていた図書館の終点がほんの目と鼻の先にあったのである。


 本棚は天を貫くほどに高く、終点は近くともまだまだ全てを読み終わるまで時間がかかる。されど、確かな終わりが目に見えれば活力も沸こうというものだ。


 すべての魔導書を読み、魔法の習得が終われば、ここを出ることも叶うはず。そうなれば、ついに世界に平和をもたらすという大目標に向かって歩を踏み出すことになる。


 だが、沸き立つ心とは別に、アルバートは妙に冷めた相反する気持ちを感じていた。


 不思議に思いながら手に持った魔導書に視線を落とし、あぁそうかと納得の声を漏らす。


 なんのことはない、単純なことだ。


 魔導の海にどっぷりと浸かったこの生活が名残惜しかったのだ。面白い発見、不知を既知とする喜び、技術の習得による達成感――それらが混然一体となって生まれる麻薬のような陶酔は、ただそれだけのために己という存在が生まれたかのような、存在美ともいえる純粋なる機能の特化性を感じさせていた。


 あるいはそれはただの勘違いかもしれない、それでもアルバートという男は魔導の探究者という存在であり、その存在からの脱却が近づくことに一抹の寂しさを覚えていたのだ。


「何を馬鹿な……」


 やるべきことは変わらず、己が欲でそれを忌避するなど馬鹿馬鹿しい。終わらせたくないからとここで止まることなどできようはずがないのだから。


 世界に平和を、その信念を胸に、彼はまた魔導書の山に没頭した。


 世界は、もうすぐそこまで近づいていた。

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