欲し喘ぐ獣

 一人残されたアルバートは、ひとまず考えをまとめるために本の山の上に腰かけた。


「一年……か」


 事実であれば、痛みに苦しんでいるだけで一年が経過していることになる。痛みに苦しんでいた時間はまともな思考や時間感覚はなかった。カルロが嘘をつく理由も考えつかない以上、事実と考えるべきだった。


 そこで、ふとアルバートは気づく。

 食事はどうしたのか?


 一年も経っているのであれば、飲食は当然として、排泄の問題もあるはずだ。アルバートにそれらの行為を行った記憶はない。痛みに我を忘れていたにしろ、さすがに何かしら口に詰め込まれでもしたら気づくと思えた。


 しばらく考えた結果、アルバートは仮説を立てた。

 恐らく、この場所は飲食や排泄を必要としない。下手をしたら睡眠もだ。普通であれば一笑に付すところだが、ここの持ち主が呪術王カース・ロードである以上、納得できてしまうのが恐ろしいところだ。


 まさしく、魔導の深淵を覗くに相応しい場所だった。


「……これは素晴らしいな。感謝しますよ、神と、呪術王カース・ロードに」


 それからのアルバートは、魔力の増強と魔法の勉強に明け暮れた。


 痛みに耐えて魔力を増強し、増えた魔力で行使可能な魔法を探し、発動する。


 魔力が足りなければ再び魔力を増強し、知識や経験が足りなければ飽きることなく訓練し続けた。


 読めない文字に行き当たれば解読に時間をかけ、気づけば文字の解読だけで十年を数えることもあった。


 薄暗い図書館の中で、食事も、睡眠も取らず、ただ呪術王カース・ロードが歩んだ魔導の道を辿っていく。


 それは知れば知るほどに天才の所業であり、アルバートの才能の無さを浮彫にさせる。魔力だけではない。呪文への理解、魔法陣の構築精度、果てには魔力操作の技術、そして一見関係のない魔法同士を解体して新しい魔法を構築する呪術王カース・ロードの発想力……あらゆる点で己が凡人であることを思い知る。


 だが、悔しいという気持ちは沸かない。

 才がないならば時間をかければ良い。


 たった一つの魔法陣を描けるまでに一年を費やすこともざらだ。

 魔法の習得など当然それ以上の時間をかける。


 だがそれでも、だ。

 アルバートは確実に己の目的のために前に進んでいることに、喜びを感じていた。




 ◇◆




 果たしてどれほどの時間が経ったのか。

 二百年までは数えたが、一度数え忘れて以来、面倒になってやめてしまった。


 しかし、確実に前進していたと言えるだろう。


 長い年月をかけ、夢にまで見た一つの目標に手が届くところまできていた。


「いよいよ、か」


 深く息を吸い、己の胸の内に意識を通わせる。

 体内を巡る魔力を知覚し、腕を作る作業にも随分と慣れた。


 そっと指先を伸ばした先には、すでに杯はなかった。

 いや、杯の残骸、たった一欠けらが残っていた。


 指先に触れた杯の欠片の感触を確かめ、そっと摘まむ。


「さあ、最後の一欠けらだ」


 それを引きはがした瞬間、アルバートは激しい痛みの中に飲み込まれた。




◆◇




 痛みが引き、ゆっくりと起き上がる。

 額の汗を拭ったアルバートは、小さく笑みを浮かべた。


「そうか……これか、これが、呪力か……」


 杯が消えたことで、杯の中に閉じ込められていた呪力が全身に流れている。元から存在した魔力をも飲み込み、指先の一本一本に至るまで通うそれは、魔力とは比べるべくもない力を感じさせた。


「これなら、いけるのか?」


 実のところ、アルバートは壁に当たっていた。

 魔力不足は杯が三分の一ほども割れたあたりでほぼ解決し、初級はもちろん、中級、上級魔法でも魔力は充分に足りた。


 杯が最後の一欠けらになっていた時ですら、上級魔法であれば百やそこらは放てるほどだった。


 だが、それでもだ。呪術王カース・ロードの代名詞とも言える”呪術”は別だった。


 全ての魔力をつぎ込んでも、最も簡易な呪術ですら発動に至らないのである。


 魔法陣も、呪文も、理論は完全に理解した。

 必要な魔力量も満たしている。

 それでも行使ができないとなれば、やはり魔力と呪術の力としての差異が関係していると考えざるを得なかったのだ。


 アルバートは手に入れた呪力を、脳内に描いた魔法陣に流し、ゆっくりと呪文を唱えた。


呪詛調印ルレア・ア・ロア


 青白い炎が虚空を炙り、しかし炙るべき対象がいないことでそのまま虚空へ消えていく。


 ひどくあっけない結果だが、確かにその呪術は発動していた。


「ふふ、ふふふ……ははっ、はっ」


 笑みが、自然と零れた。


 自身の呪力の八割近くを消費してようやく発動したそれは、対象の魔力の一部を永久に消滅させるものだ。


 言ってしまえば存在の消滅を招く凶悪な呪術ながら、減少させる呪力は極わずかでしかなく、呪術の中でも下位に位置づけられるている。


 だが、これこそがアルバートのスキルと恐ろしいほどのシナジーを生み出すと予想していた。


 スキル、”反転”。

 魔導書の中で発見したスキルの研究書に、反転の効果が記載されていた。たった一文、「呪術の効果を反転させる」。


「俺にとっては、最高のスキルということですね」


 呪術など遥か神代の時代に消失した魔導の技だ。


 反転というスキルが何の役にも立たない謎のスキルだったのも当然、むしろ、牛鬼が放った即死アストロアにたまたま効果を発揮したことを僥倖と言うべきか。


 まさしく幸運、単なる偶然……いや、神の意思が介在していたのは間違いない。そこまで辿り着くことが難しいとはいえ、確かにアルバートは賭けに勝利していた。


 反転のスキル効果は自分にしか及ばないらしいが、このスキルを使えばアルバートの悩みを解消できる。


 つまるところ、呪力不足だ。

 杯を壊し、呪力にアクセスすることができるようになる前から、杯の中身が少ないことには気づいていた。明らかに魔導書に記載された呪術を使用するには足りず、第一階梯の最も簡易な呪術ですらぎりぎりというところ。


 だが、呪力を減少させる呪術を自分にかければ、反転のスキルによって呪力が増加するのではないか?


 呪力が増えれば、それだけ呪術の発動は容易になる。できることが増えれば、それだけ理解も進む。単純な思いつきながら、それは真理のように思えた。


 上手く行く確証はないが、アルバートはすでに呪術の行使を決断していた。


「どちらにしろ、魔力がなければこの魔導書の山もただの紙束でしかない。どうせ死にはしないんだ。なら、試すしかないよな」


 多少の不安はその一言で押し殺し、アルバートはそっと呪力を集中した。


呪詛調印ルレア・ア・ロア


 指先に青白い炎が灯る。

 先ほどと同様、炎は虚空を舐めるように解き放たれ、一瞬の停滞のあと、くるりとその向きを変えてアルバートの体を吞み込んだ。


 効果は劇的だった。


 青白い炎がするりとアルバートの体の中に潜り込んだかと思うと、視界が弾けたと思うほどの激烈な痛みが襲った。


「あ、があぁぁぁあぁぁあぁぁぁぁっっ!!!」


 杯を破壊する痛みにも慣れ、同じ痛みを感じることは覚悟していたアルバートだったが、それは予想を遥かに超えていた。


 彼は知る由もないことだが、呪力は魂根ルギを器とするものだ。当然、魂根ルギの大きさと呪力の総量はイコールとなり、減ることはあっても増やすことはできない。


 だが、反転のスキルは概念に干渉する。

 魂根ルギという存在への干渉は、即ち神の所業に等しかった。


 耐えることなどできない痛み。

 それはいわば、むき出しの神経を直接引きずりだし、刻み、繋ぎ直して元の場所に戻すような行為だったのだ。


 限界まで中身が入った器にさらに中身を注ぎ、溢れようとするそれを無理やりに押し込めてでもいるような、得体の知れない感覚に体がぎしぎしと軋む・・・・・・・


 そして、突然その痛みが消えた。


 時間にすれば数秒。

 激しすぎる痛みゆえに、逆に意識が活性化し、時間間隔を喪失することがなかった。


「ふふ、ふふ、はは……」


 我知らず、笑いがこみ上げてくるのがわかった。

 アルバートは体の奥底から源泉のように溢れ出す呪力を感じていた。匙の上にすくい取られた一雫程度だった呪力が、匙からからこぼれ落ちるほどに増えているのだ。


 ほんのわずか、ほんの一滴。

 されど、確かな増加である。


「くはっ、は、ははっ、はあぁぁ……っ!」


 地面に這いつくばり、痛みに震えて体を動かすことすらままならない。噛み締めることすら許されず、阿呆のように開かれた口元からは涎の糸が地面に垂れていた。


 だが、それでもだ。


 成功したのだ。

 推測は正しかった!!


 醜態を晒している己を気にすることもなく、アルバートは確かな手ごたえを感じていた。

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