第5話 瑠

 電気自動車はモーター音を籠らせながら適当な場所に停まる。敷地内はオレンジ色の電灯によって足元が見えるくらいには照らされていた。


「説明しろよ。本当の狙いは何だ?」


 声を荒げる。状況がつかめていないのは俺だけなのだから仕方ない。先ほどの警備員たちも、この男も、まるで台本があるかのように事を進めている。


「これでいいんだ。俺たちにとっても、彼らにとっても」


 相変わらず他人任せな回答だ。こういうのが一番嫌いなんだよ。映画でも小説でも。個人の裁量で決まる答えっていうのが。


「行くぞ」


 男はそれだけ言って車を降りる。


「荷物はいいのかよ」


 道中バックパックの中からエナジードリンクを数本取り出しただけで、男はそれ以上それに触れることはしなかった。


 まさかと思いバックの中を覗く。案の定その中には缶コーヒーやエナジードリンクが詰められているだけで、それ以上の物は何も入っていなかった。


「ちょっと待てって!」


 男は唖然とする俺を気にも留めず歩いていく。知らない土地の知らない人間。そして知らない施設に足を踏み入れようとする中で、今頼りなのはこいつだけだ。


「ほんとに宗教施設なのかよここ。もっと神社っぽい感じだと思ってた」


 だがそこが不気味なところでもあった。窓には一切の光が無い。恐らく板か何かで塞いでいるのだろう。一見すれば普通の建物だが、細部の方まで目を向けるとその異常性が垣間見られた。


 建物の入り口には所々に木の枝が打ち付けられており、同じく材木で作られたシンボルマークの様な物。中に入れば、その辺の落ち枝で作ったような継ぎ接ぎだらけの物体も目に入る。それは何かの動物を表している様にも見えた。


「まるで骨格標本だな」


 気持ち悪いと言おうとしたが止めた。どこかでコレを作った奴が聞いていて逆上するかもしれないからな。


 男と俺は薄暗い廊下を歩く。何の飾り気もない無機質な空間を、ただ足音だけがこだまする。そして次第に音が聞こえてくる。男女の声だ。それも沢山の。


「おい、どこに向かってるんだよ」


 しかし男は答えない。


 廊下の奥から聞こえる騒めきはどんどん大きくなる。そして嫌でも耳に入ってくる声量になった時、それが“うた”であることに気付いた。


「歌ってるのか?」


 手拍子だけの単調な律動。それに合わせるかのように歌う男女のしゃがれた声。


 足が前に進むにつれ音量は大きくなる。例えようもない恐怖が押し寄せてくる。最早耳を塞いでも聞こえてくるまでに歌は成長した。


 しかし手拍子がピタリと止み、霧のように歌声も散ってゆく。


「――――この扉の先だ」


 両開き戸の前で男が俺にささやく。俺が黙って首を縦に振ると、男はドアノブに手を掛ける。自然と呼吸が早くなる。息が苦しい。…………こわい。


【かけまくもかしこきわがあるじよ】


 男がドアノブを回すと、掌を叩く音と共に、再び歌が始まった。さっきと同じ歌に聞こえる。ずっと繰り返してるのか?


 鉄製のドアが嫌な音で泣き叫びながら開いてゆく。


【おおいなるならくのねもとに】


 扉の向こうには夥しい数の蝋燭と、染みだらけの白装束を纏った人間が隙間なく詰められている。それと同時に漂う悪臭。液状の何かで床がぬかるんでいる。


 脂汗が染みついた髪。白色とは呼べない装束。腐臭を漂わせるヘドロ。こいつら、一体いつからここにいるんだ?


【おわすしんれいのおすがたを】


 彼、彼女らは大広間の祭壇にそびえ立つ石像を拝むように合唱している。それが何を模しているのかは到底理解できない。そして石像の下には、錆びれた観音像が力なく転がっている。


【あがめたてまつるわれらにそのみたまをあらわしたまう】


 その異様な光景に圧倒され、俺は体を動かしたくても動かせないでいる。そもそも何でコイツらは俺たちに目もくれないんだ?


【われらのみこととこんぺきのだいちをさしあげまする】


【まうすことをきこしめせと】


【かしこみかしこみまうす】


 歌が終わった。最早歌とも呼べないほどの邪悪さだ。このしゃがれた声も、ここでずっと歌っていたから声が枯れたのだろう。まさに狂った様に。


「お待ちしておりました。神田様。日高様」


 石像の一番手前で奉唱していた男が口を開いた。最早、骨と皮だけのような痩せ細った体系で、身に纏っている白装束も黄ばみが目立っている。


 そもそも何で俺の名前を知っている。佐藤から聞いたのか?


「会うのはこれで357回目でございますね」


 白装束の男がそう言うと、周りにいる信者であろう男女が、一心不乱に笑顔で拍手をする。


 357回目。ということはこいつが教団の預言者か?


「っああ。っああ。っくう。っくう。遂に我らは御主の元へと行きまする!」


 男が動物の鳴き声のような奇声をあげると、周りの信者達も似たような言葉を叫ぶ。さっきの合唱より酷い声だ。脳が本能的に拒否しているのが分かる。それだけじゃない。この空間の全てを身体が拒否している。


「嗚呼ああ。神の息吹を感じる。我らの血肉は今一度一つになり、我らは次なる赤子に全てを捧げる。っああ。っああ。っくう。っくるう!」


 その次の瞬間、1人の女がこちらに向かってきた。手には包丁。俺たちを殺す気だ!


「後ろに下がれ」


 隣でただ黙っていた男が、ようやく口を開いたかと思うと俺を手で押しのけた。


 女は振りかざした包丁を男に目掛けて振り下ろす。しかし男はそれを華麗に避けると、包丁を奪い、女の首を掻き切った。


 力なく倒れる女、それを見ていた信徒達が、一斉に男目掛けて駆け出した。


 ぬかるんだ床に足を取られ転倒する者。我先にと他の信者を押し退ける者。邪魔する者を刺し殺す者。転がった死体の血を啜る者。全員が全員正気ではない。…………地獄だ。


 ――――まさに多勢に無勢の状況だが、男は1人ずつ確かに殺していった。その身に一切の傷を負わず、殺陣を演じる役者のように。


 男の足元に死体が積み重なる。だが男はそれに臆することもなく、むしろそれを足場にして信者達を次々と刺し殺していく。殺し合いではない。虐殺だ。


 そして遂に男は預言者にたどり着く。


 血まみれの男を前にして、預言者は両手を合わせ深々と頭を下げた。そして呟く。


「掛けまくも畏き我が主よ。大いなる奈落の根元に――――」


 預言者がそこまで言ったところで、男は手に持っていた包丁をその頭に突き立てた。これで終わったのか?


 頭から血を流しながら預言者が倒れると、生き残りの信者達が彼の骸に群がる。


「千里眼が死んだ!」


 その言葉を先頭に次々と信者たちが喚きだす。


「次の千里眼は俺だっ」


「――――私よ!」


 絶叫。信者たちは千里眼と呼ぶ男の死体を引っ張り合う。似たような言葉を吐きながら。しかし一人の信者が叫ぶ。


「みんなで食べよう! みんなで食べよう!」


 その言葉で一瞬静まり返ったが、その次にはそれに賛同する言葉が飛び交った。とても人間の喉からは発せられた声とは思えなかった。


「みんなで食べよう! みんなで食べよう!」


 信者たちは死体に食らいついた。


「――――行くぞ。ここはもう終わりだ」


 男は顔に着いた血を拭うこともせず俺に言う。


「あ、ああ。そうだな」


 俺と男はその光景を最後まで見届けることはせず、その場を後にすることを決める。多分あの光景は一生忘れられないだろう。あの匂いも、あの信者たちの顔も全て。


「高山はどこだ」


 忘れていた訳ではない。あの場の空気に圧倒されてはいたが、常に頭に浮かぶのは高山だ。ただ、この狂気に満ちた建物の中で、高山は無事でいるのだろうか。


「多分この上の階だろうな」


 ――――多分?


「多分ってどういうことだよ。これも夢で見たんだろ?」


「夢で未来は見れる。ただし自分の未来だけをな」


 あれだけ激しく動いた後だというのに、男は息を切らすことなく淡々と言葉を吐いた。怒りが込み上げてきたが、こいつのおかげでここまで来られたのだから仕方ない。


「上は安全だ。俺はここで見張っておく。行ってこい」


 その言葉を聞き、俺は左手にある階段を駆け、踊り場を回りさらに上がる。一刻も早く高山と逃げ出したい。あの日常へ。日差しの下で寝そべるような心地のいい日々へ。


 階段を上り終える。目の前には1階と同じような廊下がただ広がっている。

 端からだ。そこから向こうの端まで順番に部屋を見て行こう。


 廊下の端にたどり着く。下と同じ両開き戸が再び目に入るが、先ほどのような歌は聞こえてこない。少しは気が楽だ。


 口の中に水分は無く、乾いた嚥下だけが喉の奥をつぶす。上がった息もさらに荒くなる。この奥に一体何があるのか。その想像が扉の開を妨げた。


「大丈夫だ。落ち着け」


 酸素を深く肺の奥にまで入れ込む。そして、大きく吐くのと同時に扉を開ける。


「…………なんだ?」


 奥の広間は真っ暗だった。鼻につく甘ったるい嫌な臭いもするが、下に比べたらマシなほうだ。


 スマホのライトを点ける。その瞬間部屋の全貌が明らかになるが、消えた蝋燭と染みだらけの布団が隙間なく敷き詰められているだけで、後は何もない。だがこれ以上足を踏み入れることを身体が拒否している。


 信者たちの寝床か? まあいい。ここに高山はいない。


「次だ」


 その部屋を後にして次の部屋へ向かう。まるで学校の様な作りだ。廊下に響くのは俺の足音だけ。聞き耳を立てると何か聞こえるが、それがこの階の音なのか下なのか分からない。


 次の扉を目の前にする。今度は引き戸だ。小さなガラスが組み込まれていて、中が見える構造になっているが、やはり内から塞がれている。


 扉に耳を近付け意識を集中させる。

 よかった。何も聞こえてこない。


 ――――扉を開ける。


 廊下の明かりが中をぼんやりと照らす。教室程の広さの部屋が目に入るが、しかしこの部屋にも何もない。椅子一つ無いがらんどうだ。


 中に入り窓辺に立つ。やはり窓は全て分厚い布で塞がれている。俺はおもむろにその布を掴み、引き剥がす。


 月明かりが入ってきた。よかった。月だけはいつもと変わらない。


 ふと目の端に光がちらつき、気になったので窓を開けて地面を見下ろす。

 建物の裏側だ。俺たちが駐車した場所とは違い、何かを燃やしたような焦げ跡がちらほらと見える。――――すると今現在も何かを燃やす作業着姿の男が見える。


 焦げ臭さの中に少し香ばしい匂いも混じっているが、一体何を焼いてるんだ?


 手に持っている物を注視すると、小さな人形の様なものを火の中に放り込んでいる。男は何か呟いているようだが、ここからでは何も聞こえない。

 ……ここはもういい次の部屋へ行こう。


 それから全ての部屋を覗いたが、結局その階には何もなかった。何もないなら次の階だ。


 そうしてまた階段を上る。ここが最上階だ。

 もし、もしこの階にも高山がいなかったら……。いや、そんな考えはやめろ。今はただ俺に出来ることをやるだけだ。


 再び端から順番に見ていくために俺は歩く。しかし扉に近づくにつれ次第に物音が聞こえてきた。扉の目の前に立ち、ゆっくりと耳を当てると、そこから聞こえてくるのは穏やかな息遣いと機械音だ。


 ドアノブをゆっくりと回し扉を開ける。音が出ないように慎重に。――少し扉が開くと、中から光が漏れた。


 俺は覗き見るようにドアの隙間から中の様子を伺う。


「なんだこれ」


 そこから見えたのはベッドに横たわる妊婦たちと、そのバイタルを調べる機械群だった。他の部屋と比べてかなり清潔だが、それでも、とても妊婦が安静にできるほどの環境ではない。


 大部屋にすし詰めにされ、十分な換気もできておらず、妊婦は皆顔色が悪い。おまけにサイドテーブルには汚れた食器が積み重なっている。


 考えたくはないが、ここに高山がいるかもしれないと思うと、中に入らないという選択は選べなかった。深呼吸。そして妊婦たちを起こさないよう足を前に出す。


 切れかけた白熱電球を頼りに、人一人の顔を確かめる。皆一様に若い女ばかりだ。中には10代と思しき少女もいるが、その下腹部はまさに妊婦だ。


 ざっくり数えただけでも30人以上はいるように見える。一体何なんだこの施設は。


「――――あなた」


 突然声を掛けられた。恐る恐る声の方へ振り返ると、弱弱しい顔の妊婦が俺の事をじっと見つめている。


「ここは神聖なる住人の巣よ。帰りなさい」


 住人の巣。この妊婦たちも信者なのか? だとしたらこいつと話している暇はない。急いで高山を見つけないと。


「あなたッ。聞いているのッ? この場所に相応しい人間ではない貴方! 私たちの貞淑を奪いに来た悪者なのね!」


 先ほどまで虚ろだった目が、今でははっきりと開いている。

 ――――くそ、大声出すんじゃねえよ!


 他の妊婦たちがその金切声によって目を開く。こうなったらなりふり構っていられない。俺はスマホの明かりを点け、妊婦一人一人の顔にライトを向けた。


「…………帰りたい! 帰りたい! 帰りたい!」


 顔に光を当てた女が叫ぶ。こいつは違う。


「ああ。今こそ我ら父のために! あはははは!」


 コイツも狂っている。最早この部屋にまともな奴はいない。

 どこだ高山。どこにいる!


「高山ッ! どこだ返事しろ!」


 しかし俺の掛け声も、女どもの声によってかき消される。ああ何処だよクソ!


「――――こっちよ!」


 狂い満ちた声の中に1つの声。急いでその声を探す。


「どこだ!」


 俺が呼びかけると「こっち」と女が叫ぶ。見つけた、あの女だ。

 急いで彼女の元へ向かう。


「よかった。普通の人だ」


 彼女は手足を縛られ拘束されていた。まさか誘拐された被害者か?


「君は?」


 周りの奇声がうるさいので、声量を上げざるを得ない。ここにいたら俺までおかしくなりそうだ。


「あたしは半年前にここへ連れて来られたの」


 彼女の声は震えている。体もだ。この部屋にいつから縛られているのだろうか。彼女の手足は青痣だらけだ。


「他の被害者は?」


「皆狂ってしまった。ここにいる半分以上は誘拐された人たちなの」


 突如込み上げる吐き気。被害者たちはきっと、夢を見て発狂した訳ではないのだろう。可愛そうに。こんな所に連れて来られて…………。


「あたしももう駄目。もう戻れない。こんな身体になっちゃったらもう」


 彼女の目から涙がこぼれた。嫌な想像が脳裏を過る。この教団がなぜ若い男女を誘拐するのか、それが分かった途端、腹の底から懐かしい感情が沸き上がる。怒りではない。これは憤怒だ。


「大丈夫。俺が助けてやるからな」


 彼女を縛る拘束具を見る。鉄製の手錠は鎖と連結しており、その鎖はベッドの脚に巻かれ、さらに南京錠でロックされている。


「鍵はどこだ!」 


 彼女は怯えながらも、涙で溢れた目を部屋の奥へと向けた。視線を辿っていくと1枚の扉が目についた。


「あそこにあたし達の世話をする人がいる。その人が鍵束を持っているのを見たの」


「――――待ってろ」


 扉へと向かう。

 ノブを掴み、扉を開けようとするも、鍵が掛かっているのかドアは開かない。それに部屋の奥から怯える男の声が聞こえる。


 怒りに任せドアを蹴る。何度も何度も。次第に扉が軋むようになり、次の蹴りで扉が開いた。その中では1人の男が、六畳半程の部屋の隅で怯えている。


「やめて! やめてください。ぼ、ぼ僕は言われたからやっただけなんです!」


 小太りの若い男は何度も土下座をする。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 その醜悪さを見て思い出す。美穂と奏を殺した加害者家族を。何度も何度も謝り、嫌がらせのように俺の前に現れるその姿を。


 …………でもその謝罪は2人のためではないだろ? 一生かけても払えない賠償金と、自分たちの将来を案じた故の謝罪だろ? 俺に殺されたくないから俺に許しを求めてる。違うだろ。


 そんなに許して欲しいなら――――。


「今すぐ死ね」


「お願いします。お願いします。許してくださいっ」


 これまで溜めていたフラストレーションが爆発した。


 結局、美穂と奏を轢き殺した高校生は少年法によって刑が軽くなった。だがその後の裁判で、誰もが青ざめる程の賠償金を勝ち取り、報道されなかったガキの顔と名前はネット上にバラまいた。


 その時の感情を俺は覚えていなかったが、今再び、俺の中で“それ”が蘇ろうとしている。名前が付いていたよな。確かあれは……。そうだ、愉楽だ。


 ――――気づけば男は血まみれで倒れていた。顔面は晴れ上がり、目と鼻と口から血を吹き出している。この男は果たして、俺が想像したことを実際にやっていたのだだろうか?


「…………そうだ鍵」


 鍵だ。探さなければ。


 鍵を探し始めて数分経った頃に、拳に痛みが走った。そしてその痛みと共に思い出す。結局俺は、何も変わっていない。


 平常心を取り戻し、冷静に自分のしたことを考える。幸い拳は砕けていないようだ。それでも滲む激痛。この男を殴っている時、一体どんな顔をしていたのだろう。こんな俺を見たら、高山はどう思うかな。


 死んでいるのか、果ては生きているのかすら分からない男のポケットから鍵を見つける。


「これだ」


 頭の中でひしめく雑念を押し殺す。今は行動しろ。何も考えるな。


 ――――俺は叫んだ。声と、息と共に吐きだした。俺の叫び声じゃないみたいだ。どこから出てるんだよこの声。


 両手の掌で自分の顔を弾き、鍵を握りしめながら彼女の元へと向かう。


「見つけたぞ。もう少しだからな」


 少女は安心したのか、薄暗い明かりの中で安堵の表情が伺える。もう安全だと言ってあげたかったが、それを言えるほどの自信はまだない。


 暗がりの中で必死に鍵を探す。少女の手錠に合う鍵を。


「…………お願い早く」


 祈るような声に焦らされる。そして手の錠が外れた。あとは足だ。もう少し。あと少し。落ち着け。大丈夫。


 少女の祈りが通じたのか、足の錠は直ぐに外れた。


「――――立てるか?」


 下にいた信者達に比べると、この少女はまだ健康そうだった。それでも少女の足取りはまだおぼつかない。


「うまく立てないよ」


 見かねた俺は少女を抱える。彼女は思っていたよりもずっと重い。それもそうだ、お腹に子供がいるのだものな。だがこの重さが俺を正気のままでいさせてくれる。


「ありがとうございます」


 少女は俺の首に腕を回した。震えた手。あの日の高山を思い出す。


「大丈夫。それより気を強く保てよ」


 何度も小さく頷く彼女に、俺も頷き返し、狂った妊婦たちを横目に出口へと向かう。彼女達は俺を見なかったが、その言葉は確かに俺に向けられたものだ。

 そして1人の妊婦と目が合う……。


「――――ああ! 悪魔が冥府へ連れて行こうとしてるわ!」


 その妊婦がそう叫んだ瞬間。その言葉に反応したのか、それまでベッドの上だけで叫んでいた妊婦たちが、次々とベッドから立ち上がる。


「駄目え! その子を返してえっ」


 その鬼の様な形相を見ても尚、逃げない者などいるのだろうか。


 彼女らが一斉に立ち上がった時、俺は一目散に走っていた。妊婦とは思えない走りで追いかけてくる彼女達を、最早人間だとは思わずに。


 部屋の出口にたどり着くと、俺はすぐさま少女を降ろし、全体重をかけて扉を塞ぐ。ところが、妊婦たちは扉を叩くどころか、物音ひとつ出さずにいる。あれだけ声を荒げていたというのに。


「…………何なんだよ一体」


 震える手を抑えながら、扉から一歩距離を置く。しかし不気味なことに何も起こらない。――――助かったのか?


 やはり俺は根っからのジャーナリストなんだろうか。沸き起こる好奇心を殺せない。この扉の奥で、彼女達が何をしているのかを知りたい。


 恐怖心と好奇心が殺し合う。もちろん勝ったのは後者だ。この期に及んで俺はまだ、これまでの事を記事にしようと考えているのかもしれない。

 再び扉に近づく。重い一歩だ。


 ドアノブに手を掛ける。冷たい感触が神経を刺激する。


 ノブを回そうとするも手が動かない。動悸が早くなる。俺の呼吸だけが聞こえる。


 次だ。次で開けよう。波のように押しては返すタイミングに俺は戸惑っていた。


「――――何してるんですか?」


 その声と共に我に返る。


「やめてください。もう嫌です」


 かなり弱った声だ。小枝のように折れてしまいそうな透き通った声に、俺は

「そうだな」と扉から離れた。


「――――この下に仲間がいる。そいつの所まで行こう」


 そういって俺が少女の手を掴んだ時、彼女が言う。


「あなたが探している人。あたし何処にいるか知ってます」


「えっ」


 思わず声が出た。それもそうだ。こんな意外な展開になるとは思っていなかったからな。握った少女の手を離し、彼女の両肩に手を置く。


「どこに。どこにいるんだ」


 少し力を入れただけで砕けてしまいそうなその肩を、俺は軽く揺さぶる。


「この屋上です。そこに彼女はいます」


「ありがとう」


 希望の光が見えてきた。俺は直ぐにでも屋上に行きたいが、この少女を置いていくわけにもいかない。

 ――――くそ。あの男は一体何してんだよ。


「君、一人で下の階まで行けるか?」


「なんとか。行ってみます」


 まだ二十歳手前くらいの少女に俺は何言ってんだ。助けた責任ってやつがあるだろ。彼女は立っているだけでもやっとなんだぞ。

 思い出す、あの約束を。


「やっぱ今の無し!」


 俺は少女を丁寧に抱え、そして素早く、細心の注意を払いながら階段を降りる。3階から1階まで80キログラムはある少女を抱えながら。


「本当にありがとうございます」


 降りる途中、彼女がそう言った気がした。でもその言葉が頭に入る余地なんて無い。一刻も早く高山の元へ向かわねば。


「――――おい! 後は分かってるんだよな?」


 1階にたどり着くと男が静かに座っていた。その周りには5、6人の死体が転がっている。本当に見張っていたようだ。そして男は、俺の言葉に静かに頷いた。


「頼んだぞ!」


 乱れた呼吸を整えもせず、俺は再び階段を上がる。待ってろ高山。今迎えに行くからな。


 妊婦達がいた3階まで登り、そこから更に屋上へと続く階段を上がる。登り切ったところで、アルミ製の銀色のドアが目に入る。


 俺は階段を登り切った勢いのまま、そのドアをぶち破った。


 ――――満点の星空に大きな満月。ずっと薄暗い建物の中にいたせいか、その新鮮な空気に俺はこの上ない安心感を得た。体が浄化されていくような感覚。素晴らしく心地がいい。


 俺は急いで辺りを見回す。あるのは変電設備と小さなプレハブ小屋だ。そしてその小屋からは、微かだが光が漏れている。


 一歩、また一歩と近づくにつれ歌声が聞こえてくる。それは信者達が歌っていたものとは違う歌であり、綺麗な女の歌声だ。しかし不気味な歌に変わりない。


 突然、小屋の引き戸がカラカラと小気味の良い音を響かせながら開く。

 ――息をのんで構える。すると中から、俺と同じくらいの歳の女が姿を現した。


「日高様ですね。お待ちしておりました。高山様は中で眠っておられます」


 初対面の女だが、その物腰の柔らかさと、高山の名前を聞いて不覚にも俺は安心する。


 女は僧侶の様な衣服を纏っていて、後ろで束ねた三つ編みは、腰に届くくらいの長さはある。下にいた奴らとは違い衣服は清潔で、血の通いが良さそうな顔をしている。どこからどう見ても健全だ。


「――――誰だ?」


 女は両手を合わせ深くお辞儀をする。


「瑠の祖。名を、神田麻陽(かんだ あさひ)と申します」


 神田? 神田ってあの男と同じ苗字?


「神田陽道(はるみち)は私の兄です」


 どういうことだ。それならあの男、神田は何しにここへ来たんだ? 妹を説得に? いや、だとしたらあいつもここに来るはずだ。


「あいつも瑠の信徒なのか?」


 麻陽も他の預言者と同じように感情が無く、そして淡々とした口調で話す。


「はい。“暴走する前の”ですが」


 暴走する前? てことは何だ、昔は健全な宗教だったとでも言うのかよ。笑わせる。あれだけの事をしておきながら。


「どうせ昔もカルト集団だったんだろ? それが殺人集団になっただけだろうが」


 俺の挑発にも乗らずに、麻陽は眉根1つ動かさず言葉を返す。


「その通りです。医者だった私と陽道は昔、千里眼を持つ自殺志願者を、一切の苦しみも無くあの世にお送りすることを目的として活動しておりました」


 まるで台本を読んでいるかのように女は続ける。


「しかしある日、一人の男が来てこう言いました。あのお方は我らをお救いくださる究極生命体だ。我らは授かったこのお力を有意義に使わねばならぬ。と」


 麻陽は星空を見上げる。


「あなたも先ほど、その男に会ったはずです」


 誰だ? 1階で神田に頭を刺されたあの預言者か?


「そしてその男が現れてから、千里眼を持つ者たちは一人として来なくなりました。ただ一人を除いて」


「佐藤か?」


 簡単な消去法だが、口に出さずにはいられなかった。そして麻陽は「そうです」と頷き、話の続きを始める。


「彼らは千里眼を利用し、一般の方を次々と瑠に入信させました。もちろん私も陽道もそれを阻止しようと試みましたが、失敗することは既に決まっていました」


「未来が見えるってのも考え物だな」


 皮肉屋を気取ってそう小馬鹿にするも、麻陽は機械の様に話を続ける。こいつ、俺に話しているんだよな?


「そして彼らは祈り始めました。異教の神を崇拝するように。一般の方々に千里眼を授けると嘯きながら」


 祈るように淡々とした口調で話す麻陽。

 大体の粗筋は分かったが、俺にそんな話をしてどうしたいんだコイツは。それにまだ分からない事も沢山ある。


「下の妊婦たちを、貴方もご覧になったと思います」


 俺の心を見透かすように、彼女はその話を繰り出す。


「ああ。一体何が目的なんだ?」


 思い出すだけでも胸糞が悪い。多分どんな答えが返ってこようと、この気持ちだけは消えることは無いだろう。


「彼女たちの妊娠は、都の住人を産ませる事が目的です」


 急に話が飛躍する。そもそもこいつが常人である保証もどこにもない。あまり真に受けないほうがいいのではないか……。


「貴方も行った筈です。海の底に聳えるあの禍禍しい都に」


 ぼんやりとだが覚えている。あれが建物だという事も何となく理解していた。

けど、その住人って何だ? 


 細菌の様に脳内で増殖するその想像によって、今まで感じたことの無い無力さが、俺の精神を侵し始める。


「彼らは都の住人を産むことで、自分たちも神の従者になれると信じていました。

もちろん、産まれてくるのはただの赤子です」


 期待されていたのが化け物なら、普通の子は一体どこに行ったんだ? 少なくともこの施設に赤ん坊はいなかったはず…………。


「高山様も、受種の儀を行う予定でした。――――ですが」


 ですがって何だ。続きを聞くのが怖い。高山に今すぐ会いたい。


「高山様は既に子を授かっていました。だから私が保護したのです」


 【私】はこの時、彼女がそれから言う言葉を信じることが出来なかった。というより、信じたくなかった。正直なところ今でもそうであって欲しくないと願っている。


「……………なんだって?」


「彼女。高山様が孕んでいる赤子は、人の子ではありません。ましてや都の住人等といった矮小なものでもない」


 女は静かに微笑む。雲から出てきた月明かりが、それを一層美しく映えさせえる。高潔な天女のようだ。


「何、言ってんだ?」


しかし月光に頼っても尚、その目に光は宿らない。口元は嗤うが、その他はまるで

無感情だ。


「高山様は日高様の子を授かっています」


「――――は?」


「ですがその夜に彼女と交わったのは、日高様であって日高様ではない者。貴方が眠り、器が空になった時、代わりにその器を満たしていた者」


 この世界に存在しないような言葉を述べる女。その彼女の表情からは、滝のように感情が溢れ出ている。


「ち、ちょっと待ってくださいよ」


「そして子を作った! 神が産まれる前の神。その古の子を!」


 両腕を目一杯広げ、女は天を仰ぐ。正気ではない。彼女の脳も侵されたのだ。


「いあ! いあ! っくるう! っくるう!」


「――――ああッ。なんとお美しき姿でしょう! 我が御主よ、我ら陽の子らを主のおわす大いなる奈落にお導き給えっ。あははは!」


 女は声高らかに笑いながら、舞を踊り始める。


「…………狂ってる」


 私が屋上で初めて彼女に会った時、麻陽は確かに正気だった。しかし何処かで彼女は気が触れてしまった。理解の範疇を超えた何かに、彼女は侵されたのだ。


 そのまま麻陽は、私の目の前で屋上から落下し、間もなく死亡した。そうして宗教団体“瑠”は指導者を失った。

 神田が言うには、麻陽は全身の骨が砕けてもなお笑っていたそうだ。


 彼は恐らく、自らの妹が死ぬ間際を、その最期を看取ってやりたかったからこそ、私を連れてここに来たのだろう。

 何回も見てきた最後の最期を、その目に焼き付けるために。


 ――――そして私が3階から救出した少女。名を清水由香(しみず ゆか)。彼女もまた発狂し、意味の分からない言葉吐きながらあの部屋に戻っていった。


 そうして眠ったままの高山を連れ、私たちは瑠の施設を後にした。


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