第3章 - 3  説得

 3  説得




「ちょっと、あんた……さっき、店にいた人だよな?」

 いきなりそんな声が後ろから聞こえて、振り返った途端、すぐ後ろに大きな男が立っていた。その瞬間で、それが誰かは分かったし、咄嗟に判断したことは、今でも正しかったと思っている。

 さっき店にいた。背中を向けているのにそう言ったのだから、たった今そう思ったわけじゃない。きっと何かを感じて、店から付いて来たのだろう……だとすれば、この状況で何を言おうが、彼は絶対信用しないし、本来の目的だって絶望的になるかもしれない。

 ――確か、足はそんなに早くなかった!

 あっという間にそこまで思って、達哉は一か八かの賭けに出る。

 腰を屈めて、一気に男の横を走り抜けた。

驚いた彼は反応が遅れ、達哉はそのまま大通りに向かって一直線だ。

 追い掛けてくるか? とも思ったが、大通りに出る直前、後ろをチラッと見てもそれらしい影はない。

 それでも達哉は走るのをやめることなく、大通りに出てから駅とは反対方向へ必死になって走り続けた。

 そうして隣の駅から電車に乗り込み、そこで初めて己の姿に驚いたのだ。

 びしょ濡れだってのは仕方がないが、シューズはもちろん、綿パンツからシャツまでが泥だらけになっている。ドアに映り込んだ姿を見れば、顔にも泥が飛び散って、これ以上ないっていう惨状なのだ。

 それでもなんとか自宅に帰って、母親に急かされ湯船に浸かる。これからのことは明日考えようと、それから即行寝床に入った。

 ところが翌朝、頭が痛くて起きられない。熱を計れば三十九度で、それを知った途端に達哉の気力も砕け散った。

 それから二日間熱にうなされ、三日目の朝になってやっと平熱に戻った。

 そしてその日一日、家の中で身体を慣らし、今後の作戦について必死になって考える。

 しかし何をどう思おうと、天野翔太に直接アタックするのはもう無理だろう。

 だからバーで考えたように、まずはあの女の子に説明し、協力してもらうのがベストだって気がした。

 ――心配して、わざわざアパートまでやってきたんだから……。

 恋人同士ってまでは行かないまでも、そこそこの関係なのは間違いない。

 だからその翌日に、達哉は再びアパートを目指した。

 真っ先にポストを確認し、きちんとプレートに書き込まれた彼の名前を発見する。一階に住む四軒のうち、名前があるのは彼んちだけだ。

 ――やっぱり、ちゃんとしているな……。

 などと感じ入りながら、彼が、ここに住んでいる――なんて現実に、なんとも言えずにドキドキしていた。

 それも還暦過ぎなんて年齢じゃなく、二十代前半という若々しい天野翔太がだ。

 湧き上がってくるワクワクを抑えきれずに、達哉は拳を堅く握りしめ、

 ――ここからが、勝負だぞ!

 そんなことを念じ、二階に続く外階段を踏みしめるように上がっていった。

 それからあの夜、薄明かりが漏れてきた部屋の前に立ち、「コンコン」と軽く二回ノックする。

「すみません、藤木と申します。ちょっと、お話ししたいことが、あるんですけど……」

 何度も心に念じた言葉をゆっくり告げて、深呼吸を繰り返しつつドアの向こうからの反応を待った。

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