第1章  -   5 天野翔太(藤木達哉)(3)

 5 天野翔太(藤木達哉)(3)




「大丈夫ですか!?」

 走り寄る足音とともに、女性の慌てた声が耳に届いた。それからすぐに胸の辺りに手が差し込まれ、誰かが抱き起こそうとしてくれる。

 そんな女性の手を借りて、彼がなんとか立ち上がって見れば、正面に見知らぬ女性が立っていて、心配そうに見つめる顔が真正面にあった。

 彼は礼を言おうとその女性を見つめ、実際ひと言ふた言何かを告げた。

「すみません」だったか、「ありがとう」と言ったのか、とにかく何かを声にした後すぐ、続ける言葉を失ってしまった。

 ――俺はこの人と、どこかで会ったことがある!

 ――それは、なんでだ?

 頭の中でそうなった理由を必死に探し、

 ――この時代でか? それとも以前でだったか?

 ――いや、それならとっくに墓の中だ! 

 そう感じた瞬間に、目の前の女性が不安げな笑みを浮かべて、彼に向かって問いかけたのだ。

「まだ、お具合悪いんですか?」

 彼が訳がわからずキョトンとすると、彼女はさらに沈んだ声で言葉を続けた。

「ここひと月くらい、ぜんぜんいらっしゃらないから、本当に心配していたんですよ。こんなことなら、お住まいがどこかくらい、聞いておけば良かったって、後悔してたんですから……」

 ここのところ……よく胃が痛み、医者に行こうかと思ってる。 

 そんな話を聞いてから、彼は一切、彼女の前に現れなくなった。

「あの公園には、もういらっしゃらないんですか?」

 そんな言葉を聞いた途端に浮かび上がったのは、不思議なくらいに鮮明な景色。

 ――そうだ……河川敷にある、公園だ……。

 暗闇から一気に抜け出たように、それはあまりに鮮明なるものだった。

 毎朝のように川っぺりまで散歩して、河川敷にある公園のベンチに腰を下ろして本を読み、辺りの景色に目を向ける。そうして季節折々の変化をしばし楽しんで、帰宅するのが天野翔太の習慣だった。

 実際、そのコース自体は違ったが、今もそんな習慣はほぼほぼ変わっていないのだ。

 そして以前、目の前の女性が河川敷の公園に姿を見せるようになる。必ず小さな犬を連れていて、彼は確かに彼女のことを知っていた。

「綾野さん……でした、よね?」

 そう言って声を掛けたのは、そこそこ気になっていたからに違いない。

 アパートのすぐそばに、ここ数年で大きな施設ができたのだった。

 そこは特別養護老人ホームで、彼女はそこに勤める介護職員。老人の乗る車椅子を押して、施設の近所を散歩している姿を何度も見かけた。

 女性はいつも優しい笑顔で、老人に向かって何やら話しかけている。

 たったそれだけのことだった。なのに妙に気になって、ネームプレートにある名前を頭にしっかり刻み込んだ。

 そうしてある早朝のこと、なんと彼女が子犬を連れて姿を見せる。もちろん相手は彼のことなど知りはしないから、彼の座るベンチの前をさっさと通り過ぎてしまうのだ。

 本当ならば、声など掛けずに終わってしまう筈だった。

 ところが運がいいのか悪いのか、大型犬の登場によって状況は大きく変化する。

 女性がその存在に気が付く前に、子犬がいきなり全速力で走り出した。彼女の手からリードがすり抜け、子犬は大型犬に向かって一直線だ。

 一方大型犬の飼い主の方は、百キロ近くはありそうな巨漢の男。

子犬は大型犬から数メートルのところまでやって来て、キャンキャンと吠えるばかりでそれ以上は近付こうとしない。女性も慌てて駆け寄ってきて、リードを必死に掴んで大型犬から離そうとする。

 その時だった。いきなり男がリードを離した。

 大型犬は待ってましたとばかりに突進し、今にも噛みつこうとばかりの体勢なのだ。

 女性は泣きそうな声で制止を叫び、男の方はそんな姿を楽しんでいるようで、顔には笑みさえ見えるのだった。

 そんな状況を予想したわけじゃない。

 逃げ出した子犬を捕まえてあげようと、そんなふうに思っただけだ。

 ちょうど女性に追い付いた時に、リードが男の手から放たれたのだ。もちろんこっちは還暦過ぎのジジイだし、まさに骨と皮ばかりの枯れ木のような存在だ。

 それでも身長だけは一メートル九十センチ近くある。いくら大きい犬だろうと、地上一メートルくらいから見上げれば、きっと恐ろしいに違いない……などと即行思って、彼は一気に子犬の前に飛び出した。

 腕組みをして、真上から大型犬を見下ろしながら大きな声を出したのだ。

「やるならやってみろ! 人間様を舐めるんじゃないぞ!」

 自分でも驚くような大声だったが、内心、これでダメだったらどうしようかとドキドキだった。

 ところがそんな強張った顔のまま、彼が視線を男へ移すと、男の顔付きが一気に変わった。既に笑みはその顔になく、男は慌てて大型犬に駆け寄って、リードを手にしてさっさと背中を向けてしまうのだ。

 まだまだ去り難い思いで一杯の飼い犬を、男は両手で引っ張りながら土手の方へと歩いて行った。

 すると彼女は慌てて犬を抱き上げ、何度も何度も彼に向かって頭を下げる。

 その時思わず、彼は彼女の苗字を口にした。

変に思われないかと後悔したが、

「あ、もしかして、仕事中にお会いしてますか?」

 などと言って返し、強張っていた表情が一気に明るくなったのだった。

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