第九章 月夜のけだもの

第六十話 夢想家

 和登が里佳の手を握ったまま、一段一段階段を下りていく。


 里佳は下へ行くにつれ、和登の手を強く握ることが多くなった。最初に入ってきた一階につながる扉がここからは見えないため、これ以上進むのが怖かったのだ。

 和登の手はそのたび強く握り返してくれる。だから里佳は、一定の安心感をもったまま先へ進むことができた。


 しばらく下っていくと、二人の前に荘厳な扉が現れた。


「ここに女性たちが住んでいます」

 和登は扉にランタンをかざして言う。


「女性たちが……住んで?」

 里佳は聞き返す。里佳はこれまでに、この屋敷に女性が住んでいると聞いたことはない気がした。

「はい。先生が軟禁している女性たちが、ここで暮らしています」

 和登はそう答えると、扉の鍵を取り出して開錠した。



 重い扉を和登がゆっくり開くと、里佳の想像の範疇を超えた景色が広がっていた。


 一言で表すならば、地下都市だ。

 未来都市を連想させるような無機質なものではない。壁も床も石造りになっており、青白い光が足元と頭上をたくさん照らしている。壁には絵画やトルコ風の芸術的な皿が飾ってあって、里佳にとっては幻想的に見えた。

 カッパドキアともまた違う。言うなれば自然の光を浴びない版の、イランのカナートだ。

 カナートとはペルシャ語で農業用水などを引くためにつくられた施設のことをいう。ペルシャ湾に浮かぶキーシュ島のカナートなどは、とりわけ美しいことで知られている。


「すごくきれい」

 里佳は元気を取り戻しつつあり、観光に来た気分さえしてきていた。空腹にもなりつつある。

「用途が用途ですが、芸術作品だとは思います」

 和登も扉を施錠しながら応じる。

 使いかたを工夫すれば、これだけで観光客が訪れてもおかしくない出来栄えだった。これは索田がデザインの指示を出し、地元の施工業者が忠実に仕上げたものなのだ。


 地下の通路の天井には、多くの通気口がある。一階廊下に飾られている絵画の壁がくぼんでおり、その部分がこれらの通気口とつながっているのだ。

 つまりこの地下通路で大げんかをすれば、一階の廊下にわめき声が届くということにもなる。しかし一階の通気口と地下通路の床は相当距離が離れているので、何を話しているか聞き取るのは困難だろう。


 和登について歩く里佳は、辺りを見回しながらため息をつく。

 自分の境遇が違っていたら、今ごろアルバイトをしてお金を貯めて、海外旅行を楽しんでいただろうか。

 里佳はそう考えると、悲しくなってきた。いったん足を止めてうつむく。

「和登君。私もいつか、海外旅行とかできるかな」

 里佳はつぶやく。和登に言ったってしかたがないことなのに、里佳はどうしても聞きたくなった。

 肯定的な意見がほしかった。和登ができると言えばできるし、できないと言えば一生できないだろうと里佳は思うのだ。

 しかし、和登が返したのはまた違った答えだった。


「いずれ俺が連れていきましょうか」


 和登の言うことに驚いて、里佳は顔を上げる。


 すると……



 和登が里佳に笑顔を向けていた。


 包み込まれた者は泣きだしたくなるような、やさしい笑顔だった。

 里佳は心臓が激しく突き動かされるような感覚を抱く。和登のその顔をずっと見ていられると思った。


「就職してからですけどね」

 目を奪われていた里佳が現実に戻される。


 里佳が次にまばたきをしたときには、和登はすぐいつもの不愛想な表情に戻っていた。一瞬幻を見たのか――里佳がそう思うほどに、いつも通りだった。

「わ、和登君は高校卒業後、どうするの?」

 里佳は歩きはじめながら聞いた。

 先陣を切ってしまったもののどこへ行けばよいのかは分からないが、おおむね一本道なのでおそらく直進だろうと里佳は確信している。

「進学しないつもりです」

 和登が里佳に追いつく。肩を並べ、隣同士となった。


 里佳は思う。

 高卒で働きはじめる予定ということは、「いずれ」というのが比較的近い将来のことを指しているのではないだろうか。どこへ連れていってくれるのだろう。二人きりで……ということだろうか。それって、どれくらい楽しいことなのだろう。


 里佳は隣の和登をちら、と見た。目が和登のことを捉えた瞬間、自身の頬が火照ほてったような気がした。

 高い鼻に整った眉、それに引き締まった体。目つきは悪いが、引き込まれそうになる瑠璃色の瞳。少年の名残があるのはこの目の輝きだ。

 眉目秀麗びもくしゅうれいな索田といつも一緒にいるからかすんでしまっているが、和登だって人をきつけるような男性だった。不愛想で起伏のない口調も、不揃いな髪型もまた、里佳には魅力的に映っていた。


「あ、ここです」

 和登があるドアの前で足を止めたので、里佳も立ち止まる。里佳はまたしても現実に引き戻された。

「ここ?」

 里佳はドアをまじまじと見つめた。洋風でこげ茶色をしていて、無骨なデザインの扉だった。横向きに大ぶりな金具があしらわれている。


「はい、おそらく」

「おそらく?」

 里佳は首をかしげた。

 和登は右手に備え付けられたドアノッカーを掴んで硬直している。ドアを叩くかどうか悩んでいるようだ。

「一階にはまだ上がらないほうがいいので地下へ来たんですが……」

 和登は大きく息をつく。

かくまってもらうがないんです。失木さんはまだ留守でしょうし」

「失木さんもここに住んでるの?」

 里佳は目を見開く。

「ええ」

 里佳の驚きをよそに、和登は適当に返事をした。やはりためらっているようだ。


「でも……ここが一番追い返されないかな、と」

 和登が未だに葛藤しているものだから、里佳まで不安になってきた。他の住民は皆、和登を追い出すような人たちなのか。



 二人がそわそわしながら、ああでもない、こうでもないと考えていると、目の前のドアの鍵が外されたような音がした。

 すぐさま扉が内側から開く。


「やかましいわね。いったいなんなの?」

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