第五五話 離れていく背中
「里佳さーん!」
和登は螺旋階段を下りてきて、よく通る声で里佳のことを探していた。夕食のリクエストを聞こうと思っているのだ。
「まったく、あの人はどこへ行ったんだか」
部屋にはいなかったし、和登はすでに応接間を見終えている。一階の廊下を南から北へ歩いたら、最後に庭を探してみようと歩いている最中だった。
もしかしたら、地下室へ行っているかもしれない。和登はそう思った。
今日、和登は地下への錠を意図的に掛けずにおいた。里佳が気になって聞いてきたら、案内するつもりだったのだ。もちろん、里佳が怖がるようなら連れていくつもりなどなかった。
しかし里佳は、昼食を終えると言葉少なに部屋へ戻っていってしまった。本当は今日、書庫にも入れてあげようと思っていたのだが、時間が経つごとに和登のほうも気まずくなってしまっていた。
里佳と共に過ごすようになって、和登の毎日の仕事は格段に増えた。それでも和登は、悪い気などまったくしていなかった。むしろ手の焼ける女性が屋敷を明るくしてくれている、和登はこのように思っている。
長い廊下を北へまっすぐ歩いていくと、地下室の扉が開いているのが見えた。
一人で入っていったのか。和登はそう思い、足を早める。
地下へ続く扉の正面まで来た和登は、その階段を下りようとして急停止した。
下から、索田がグランドフロアまであと六段という地点まで上ってきていたのだ。
いつもなら、明け方まで帰らないはずなのに。
和登が扉の前で立ち尽くしていると、索田が先に顔を上げて微笑んだ。
「やあ、和登くん」
索田の声は階段中に響いた。和登は驚きを必死に隠し、頭を下げる。
「先生……ずいぶんと早いお帰りで」
和登の心音が次第に大きくなっていく。このまま顔を下へ向けていると、やがて冷や汗が
索田は最後の段まで階段を上ってきて、和登の頭を軽く押さえた。
「和登くん、鍵を開けたままにしてはだめじゃないか」
和登はずっと自分の一歩先を見つめているため、索田の靴しか確認することができない。
それでも、索田の表情がなんとなく分かった。和登は今、顔を上げたくない。
「すみません……。あの、先生」
和登はうつむいたまま索田に尋ねる。
「……里佳さんが地下にいるんじゃないですか?」
和登は言うや否や、再び息を押し殺した。索田の顔をどうしても見ることができない。
「そうだとしたら、なんだって言うんだい?」
索田は和登の疑問に疑問で返したが、続けざまに言う。
「君との
索田がそう言って一度間を置いたので、和登は恐る恐る顔を上げた。索田は口角こそ上げていたが、目は一切笑っていなかった。
「やめておくよ。今すぐ、この屋敷を出ていってくれないかな」
「……そんな」
しばらく和登は青ざめていた。
それでも今やっと言葉を絞り出した。かすれた小さな声だった。和登の目元に力が入る。
「そんなことって……」
和登がもう一つ、つぶやいた。今度は視線を落として言った。同じように地面を見つめる索田から表情を読み取ることはできない。
「金は十分に出そう」
索田は、今度は和登の肩に手を置いて続ける。
「所持品を持って、ここを出ていってくれ」
そう言い終わると、索田は和登を突き飛ばし、すぐさま地下への扉を閉ざしてしまった。
「せ、先生!」
地下室へと戻っていく索田の足音だけがむなしく響く。
「無理です、先生! 俺には他に行くところがありません!」
よろめいて壁に背を預けた和登が、
「先生!」
扉を押したり引いたりしながら和登が叫ぶ。時折声を止めると、索田の革靴の音がどんどん遠くなっていくのが分かった。
「先生! それなら里佳さんを離してあげてください! 先生!!」
和登は重い扉を何度も
「先生……せめて、里佳さんだけは……」
和登は扉に手をついた。真下の床が水分を吸って色を濃くする。もう階段を下りる音は聞こえなくなっていた。
「先生…………」
和登はしばらくその場で動けずにいたが、地下の鍵を開けてみようと試みる。
しかし、すでに索田によって暗証番号を変えられていた。
ドアが開いているのに気づいたときに、その姿を通り越して、無理やりにでも下りていけばよかった。和登はそう悔やむ。
和登は一つため息をつくと、左の手のひらを上に向け、じっと目を閉じた。
やがて和登の周りには、風と共に彼の持ち物がだんだん集まってきた。私服、制服、体操着、通学かばん、教科書、勉強道具、バスケットボール、ユニフォーム、ダンベル、スポーツウェア、置時計、ペン立て、観葉植物、クッション。
物欲のない和登の、ごくわずかな所持品たち。これら全部が索田からもらったものだ。
和登は地下へ続く扉をしばらく見つめ直すと、持ち物を携えて裏口へと歩きだした。
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