第五十話 潜む狂気
「ねえ、そこの君。ちょっといいかな」
風呂あがりの索田に声を掛けられ、一人の腰元が足を止める。
「な、なんでございましょう」
女の顔は明らかに紅潮していた。索田がバスタオルで髪を拭うのを、隠そうともせずまじまじと見ている。まだ年端もいかぬ新入りだろう。
かなり遠くにいた四人の腰元が、ちらちらと索田のほうを見ているのが索田自身にも分かった。
「僕の机にあった万年筆を知らないかい?」
索田は女に笑顔を向けて尋ねた。女の顔はすでに湯気が出そうなほど赤くなっていて、離れたところにいる腰元らは黄色い声をあげている。
「し、知りません!」
女はそう答えるのが精一杯だった。
「ということは、先ほど掃除をしてくれた子かな」
索田は片手を顎に当てながら問うと、もう片方の手で女の髪を一筋取って、さらりと
「おっ、おそらくそうでございます! 私が見たときには、すでにありませんでした!」
腰元はそう答えると、息をのんだ。
客間は清掃を担当している者以外、立ち入ることが禁止されている。この女は掃除係でもないのに、侵入したことをわざわざ暴露してしまったのだ。
索田は女に微笑みかける。
「そっか、ありがとう。お勤めがんばってね」
索田は女に背を向けて、元来たほうへと引き返す。
背後では腰がくだけた女が座り込んでしまっている。さらに向こうにいる女たちは、自分たち側へ来なかった索田を残念そうに見つめていた。
索田は時折ものをなくす。たいてい自分が部屋を留守にしているときに、だ。
一番最初の記憶として残っているのは、彼が小学生の頃。目を覚ますと、ある手伝い人が馬乗りになって、索田の髪を一束切り取っている最中だった。その女のとろけるような表情や荒い息づかいは、今でも索田の脳裏に鮮明に焼き付いている。
その女は索田への愛情をこじらせたゆえ、髪を
当然その時は怖かったが、社会に出ればそんな女など五万といたので、索田は今となってはすっかり慣れてしまっていた。
ああ、面白い。索田はそう思うと、支度にとりかかることにした。
――――――――----‐‐
索田はある建物の六階へ着いていた。髪は後ろできつく束ね、丸眼鏡と使い捨てマスクを装着している。顔のパーツを一つでも丸々隠しておけば、彼の
「いらっしゃいませ」
黒いギャルソンエプロンを身につけた女性店員がうやうやしく頭を下げた。索田が選んだ周囲に客のいないテーブルに、水とおしぼりを置く。
「ホットのダージリンをよろしく」
索田は車のキーを椅子に置いて言う。
「ブレックファストはいかがなさいますか」
店員が定型文で尋ねてきた。
「無しで」
この店では正午まで朝食のサービスを提供しているが、索田は親族と朝から
索田はポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認する。九時一四分だった。
スマートフォンを眺めていた索田の頭に、里佳がよぎる。索田は内ポケットから自分のものとは別のスマートフォンを出すと、マスクの中で口角を上げた。
――この携帯は貴重だな
索田はそう思う。
これは里佳が使っていたスマートフォンだ。索田が確認すると、紛れもなく「櫛江里佳」のものだった。里佳がこの世界へ戻ってきてもなお、向こうのスマートフォンは消えずに残っていた。つまり里佳のいた世界はもやの世界とはまた違い、実態のある別の世界と仮説立てできる。索田はそうであれば興味深いと思っていた。
メッセージアプリの履歴もあったし、里佳はSNSのアカウントまで作っていた。誰からもフォローされていないものだ。
今は電波はないし、Wi-Fiも拾わない。それに時刻はいつ見ても九時二一分で止まっていた。
「君の力は本当に魅力的だ……」
索田は里佳のスマートフォンをなでながら、目を細めてつぶやく。
しばらくのあいだ、無機質な機械を何度も何度も
――君が何度逃げようと、僕は必ず君を追いかける
――死の淵に立たされようが
身動きが取れなくなろうが
決して諦めない
――君の力を僕のものにするまでは
――ああ、壊したくてたまらない
遠くで談笑の声が聞こえる。
同じ空間には、友達同士で語らっている三人組、ノートパソコンとにらめっこしている会社員、旦那の愚痴をこぼす妻などがいた。
皆それぞれ人生があり、思うところがあり、毎日をなんとか生きている。
離れたところに座る美麗な男の内なる狂気には、まるで気づくこともなく。
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