第四章 混沌
第二十話 莫迦
「櫛江里佳」はなんの特徴もない女だ。強いて言えば知りたがりで、本やら電波やらをせがんでくる。知識欲があるようにも、退屈しのぎにしているだけのようにもみえる。自分のことをほとんど何も知らない。
索田は自室の椅子に腰かけ、煙草をくぐらせながら物思いにふけっていた。里佳なら一人で探偵業を営むことができるとも思っていた。索田のお墨付きである。
「ちょっと。にやついて、どうしたっていうのよ」
索田の物思いは、女の甲高い声によって遮断された。
「今、絶対あたし以外のこと考えていたでしょう」
女は索田のベッドに我が物顔で寝そべっている。時間が経って緩やかになった金の巻き髪が、ベッドにこすれて酷く絡まっていることに気づいたばかりで不機嫌だ。女の声は二三時間起きっぱなしの索田の頭に鈍く響いた。
「そんなわけないよ」
索田は目を細めて答えた。とはいっても女の顔を見る気にはなれず、灰皿に落とした火種が赤く息づくのをただ眺めている。
「でね。続きなんだけれど、すごかったでしょう、雷」
女はここ何日かの嵐のことを言っている。索田はそれに素直に応じた。
「ああ、素晴らしい気候だったね」
女はそれを受けて愉快そうに笑った。案の定、それは索田の頭に鐘のように鳴り響く。
「
早く出ていってもらいたい、索田はひたすらそう思っていた。もう二時間近く共にいる。いい加減、索田の頭は限界である。索田は椅子から立ち上がると、女の手を取った。
「僕は仕事があるから、そろそろいいかな。君も徹夜じゃ辛いだろう」
女は不満げだ。
「ええ、もう? あたしはまだいいわよ」
「君のきれいな顔が必要以上に崩れるのは、僕が耐えられないのだよ」
索田は意図が伝わっていないことに少々腹を立てたが、笑顔は据え置きで、思ってもいないことを添える。女は「あっそ」とだけ言って索田の手を取ったが、まんざらでもないと顔に書いてあった。
「辰二郎はいいわよね、多少徹夜しようが全然劣化しないんだから。毎日楽でしょうね」
女は嫌味のつもりもなく言う。立ち上がってスカートの裾を整えると、追加の話題を思い出して続けた。
「そういえば、あの女なんなの? どうして屋敷内を自由に歩きまわれるのかしら」
索田はさすがにため息をついた。もう口を開かないでくれ、そう思っていたのに、なぜこうも止めどなく喋り続けることができるのだろう。索田は必死に頭痛に耐える。
「彼女は行き場がないんだ」
これ以上だらだらと居座り続けられるのはどうしても避けたい。索田は無意識に指輪に触れながら手短に答えた。
「あら、ここで働きたいってことじゃなくって?」
「君には関係のないことだよね」
索田は相変わらず笑顔を携えたままだが、辛辣に話を終わらせにかかる。誰にどこまでの言い方をすれば傷つくか、あるいは傷つかないかを、彼は心得ているのだ。この女は口調こそきついが、彼女自身が言う程度の言葉を放たれてもなんとも思わない。
「そう、残念だわ。けれど、その子が仮にここで働くようになっても、あたしが一番よね」
女は背伸びをして索田の首に手を回した。第二ボタンまで外れた索田のワイシャツの隙間を縫って、首筋へ手をしのばせてくる。――これでおそらく帰ってくれる。索田は女の耳にかかる髪をかき分けてささやく。
「もちろん。君だけを愛しているよ――――」
――
索田は胸の中で、今後会うことのない面倒な女と、自分自身に向かって吐き捨てた。
――――――――----‐‐
和登は二階での用事を済ませ、
里佳は朝食の時間までに起きてこなかった。食材が減っていたため、夜中に起きてきて何かを勝手に作って食べていたのだろうとは思って学校へ行ったものの、気になって戻ってきてみたのだ。
和登が静かに部屋を覗いてみると、里佳は正午を越えてもなおベッドで丸くなっていた。寝息を立てていたので死んでいないのは間違いなかったが、里佳の不規則な生活を和登は心の中で非難したのだった。
一方の索田は朝食をいつも通りの時間帯にとっていた。索田は月に一度くらい徹夜をするが、翌日にあまり響かない。過去に二日間連続の徹夜によって体調を崩したこともあったが、「寝れば治る」といって一日中寝て、本当にすっかり回復させていた。徹夜が得意なのだ。
とはいえ身体にいっさいの不調を来さないわけではない。いつもより感覚は過敏になるし、すがすがしい気分からはかけ離れていると言っていた。和登は徹夜明けの索田を見分けることができるので、そういう日はいつも以上に気を利かせようと努力する。今日頼まれてもいないのに念のため里佳の様子を見に戻ってきたのもそれだ。
和登が階段を一段飛ばしで駆け下りはじめると、階下から索田の声が聞こえてきた。それと、もう一人の声が。和登は足を止めた。
「じゃ、日曜ってことで。振り込みは受け渡しから七日以内って、上が言ってやした」
「ええ、よろしく頼みますね」
索田の声が応じると、重い玄関の閉じる音が聞こえた。
またあの業者か。和登は思った。客が帰ったので、和登は再び階段を下りはじめる。もはや一段飛びで下りる気はなくなっていた。
「和登くん。もういいのかい」
玄関を向いている索田から話しかけられた。和登は即座に謝る。
「はい。うるさくしてすみません……」
「決して騒がしくはなかったよ。里佳ちゃんのこと、ありがとうね」
索田はまったく気にしていないようだ。和登は安心して階段の残りを下りることができた。
「ひたすら眠ってました。俺はポストを確認してから学校に戻ります」
「分かったよ。彼女は放っておくことにする。今日、明日と行ったらまた休みだから、二日間頑張るのだよ」
索田が和登を激励する。
「はい。行ってきます」
和登はそう言うと、勢いよく玄関扉を押す。その姿とは裏腹に、およそ穏やかとは言い難い気持ちが和登のなかで確実にうごめいているのだった。
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