第十六話 旧知の人物

「……着いたか」


 索田はため息をつき、自室を出た。

 長く薄暗い廊下をただ絨毯じゅうたんだけ見つめて歩いていく。九年ぶりの訪問だ。九年も経てば、立場や感性や自身を取り巻く環境は変わる。それなのに今から会う相手は、いつも昨日ぶりかのように索田に接してくるのだ。神出鬼没のその人物に振り回されるのはごめんだと索田は思う。別にこまめに会いに来てほしいなどとは思っていないのだが。


「よ、元気してたかー?」


 索田の正面から壮年期の男の声がした。索田は苦笑して視線を上げると、距離のある相手にでも聞こえるようにため息を漏らす。

「はあ……廊下まで出てこなくても逃げませんよ」

 索田は距離を詰めながら言った。相手の男は豪快に笑う。明らかに歓迎されていないのに、まったく遠慮をしない。

「しっかし辰坊しんぼうは老いねえなー」

「その呼び方はいい加減やめてください、と以前も言ったでしょう」

 索田はすぐに切り返し、相手をにらみつけた。


 壮年期の男はヘンリーネックのロングTシャツを着ており、下には薄汚れたベージュのチノパンを履いていた。肩には着物のような羽織りを掛け、その裾をなびかせながら歩いてくる。足元の黒いエンジニアブーツは履き古してくたくたになっており、泥がこびりついていた。それを見て索田は眉を少しつり上げる。

 ランプの光で壮年男の顔が照らされる。硬そうなこげ茶色の髪が肩まで伸ばしっぱなしにされており、顎の無精ひげは存分にほったらかされていた。年の頃は四十代前後かそれ以上に見える。手入れされていない眉に重いまぶた、緩んだ表情。そしてちぐはぐな服装にずるずると長い衣服のシルエット。これらは索田とはまるで違っている。

「まーまー、とりあえず応接間へ行こうぜ」

「それは僕の台詞ですよ」


 索田は時間が早く過ぎればいいのに、と思った。


 ――――――――----‐‐


 応接間のローテーブルに置かれた二つのティーカップからは湯気が立ち込めていた。和登が慌てて用意してくれたのだろう。索田は来訪者に肘掛け椅子へ座るよう促すと、自分も長い脚を緩やかに組んで腰かけた。昼間だというのに外は薄暗く、窓際のランプと高い天井で輝くシャンデリアだけが目の前の男のシルエットを映している。

 索田はこの男自身のことが苦手だった。みすぼらしい身なりをしているし、ぶっきらぼうだし、自分のことをいつまでも子ども扱いするし、ほとんどいつも靴に泥をつけたまま入ってくる。索田は玄関に敷いてあるマットの意味が分からない人なのだろうと思うことにしていた。


 その気になればこの部屋はもっと明るい。シャンデリアは天井に六つ取り付けられているのに、索田はたいてい二つしか使っていないのだ。ランプのあかりのほうが気に入っていて、なるべくシャンデリアに頼らないようにしている。

「和登くん、ランタンを」

 索田はテーブルに置くための灯りを持ってくるよう指示した。

「どうぞ」

 和登はすぐさまテーブルの端にランタンを置く。ついでに菓子を載せた皿を真ん中に置くことも忘れない。


「ありがとな、坊主」

 男は言いながらクッキーを二つつまんだ。口いっぱいにほお張って、索田に向かって話しはじめる。

「ほれにひても、ほの間までちっひゃいガキだっふぁのに、ふふぁりほも大ひふなったなー」

「前回いらっしゃったのは僕が二九、和登くんが十になる年でしたよ。和登くんはすっかり大きくなりましたけど、僕の身長はあれから一ミリも変わっていないのですが」

 索田は菓子には手をつけず答えた。

「およ、そうだったか。でもおれにとってお前たちはいつまでもかわいいガキだぜ」

 男が満面の笑みを浮かべて言う。クッキーのかすが口まわりにいくつも付いている。この男はけているのではなく、いつも大真面目にそう言う。


「あんときなんかさ、辰坊しんぼうほんっと天女てんにょみたいだったよなぁ。幸せってどこで売ってるのー、なんて聞いちゃってさ」

 男の言葉に索田がぴくりと反応した。男は目の前の索田の反応など意に介さず、悦に入って昔話を続ける。

「お前、幸せに敏感だったよな。今は幸せか?」

「あ、あの……それ以上は」

 索田の顔色を終始見ていた和登が介入する。

「おお、坊主。お前はどうだ? 今、充実してるか?」

 男の標的は和登へと移った。

「ええ。俺は先生のおかげで充実した毎日を過ごすことができています。今は高校に通ってます」

 和登は自分が索田の盾となれるなら、と男の興味を引く。

「それはいいなぁ。すっかりまともに喋るようになったじゃないか」

「確かに俺はあの頃、あなたとほとんど口を利きませんでしたね……」

辰坊しんぼうともだったぜ。いやー男前になったな、ほんっと」


 和登は小さく「そんなことないです」と言うと、肩をすくめて縮こまる。褒められて悪い気は当然しないが、全力で喜ぶと自分でもそう思っていたのではないかと誤解されそうで、素直に喜ぶことができないのだ。

「それで、今日はいったいどうしてここへ来たんです?」

 索田がとげのある口ぶりで割り込む。今の表情など天女とは程遠い。和登は頃合いを見計らってここで離席した。

「ああ、そうだった」

 男はポケットからくしゃくしゃになった一枚の紙を取り出すと、それを索田の顔の近くまで持っていった。


 それは何かの記事のようだった。白髪の女の写真と共に文字がずらりと並んでいる。

「こいつを知らないか?」

 索田は記事に貼り付けられている写真をじっと見た。隠し撮りをしたのか、カメラ目線でない女の全身が写されている。顔のつくり自体は若く見えるが、髪は真っ白でまるで生気がない。くまだらけの目元に口角の下がった口は、二十代にも見えるし四十代にも見える。索田は長いこと写真から視線を外さずにいたが、やがて目を閉じて首を振る。

「指名手配されていることは知っていますが、その程度です」

「どこにいるのかも分からないか?」

 男はなおも食い下がる。だが索田はもう一度首を横に振った。

「分かりません」

「うーん、辰坊しんぼうでも分かんねぇか」

 男は後頭部で後ろ手を組み口をとがらせた。

「その呼び方はやめてください」


「でも存在を知ってるってことは、どれだけ強いかってことも知ってるよな?」

「ええ」

 だよな、と男は続ける。

「すげーよな。おれにそんな力があったらどうすっかなー」

 男は天井を見て、誰に言うともなしにつぶやいた。その様子を見て索田は目を細める。

「使いようによっては魅力的ですね。力があるというのは」

「おお、辰坊しんぼうもそう思うか」

「その呼び方はやめてください」

 索田は眉間にしわを刻んで三度目の注意をする。それを見た男は愉快そうに笑うと、索田の肩を軽く叩いた。

「時間を取らせて悪かったな。また来るわ」


「はいはい、お気をつけて」

 索田はため息をついて追い出すように手を払ったが、玄関の外までは男を礼儀正しく見送った。

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